第二十四話「カノン」
■現在:五月十五日、〇四:五九
オケアノスの《滄海》によってボロボロになった晴海ビッグサイトを横断する。
東館はほぼ壊滅状態。
旧晴海エリア全域が再開発に伴い取壊しになるからいいようなものだけど、これが平時であったら所有者は引きつけを起こしかねない程だ。
哀れにも賠償責任を何処にも持っていけないというオマケ付き。
保険金は下りただろうけど、シグリヴァの争いに巻き込まれた方は堪らないだろうなと思う。
オレは波打ったまま《滄海》が解除された道をゆっくり歩くと、東館を抜けてエントランスホールに入る。
この辺りは《滄海》の影響を受けていないのでほぼ無傷だった。
エントランスを抜けると、晴海ビッグサイトのシンボルともいうべき会議棟がそびえ立つ。
オレは逆三角錐を二つ並べたような特徴的な建物を暫し見上げた。
「鬼さん、みぃーつけた」
視線の先で、背中を向けて座っている小さな少女に声を掛けた。
少女は振り向き、右半分を白い仮面に覆われたオレの顔を真っ直ぐに見る。
「よくここまで来れたね。お疲れ様、お兄ちゃん」
ここは会議棟の屋上。
カノンはその淵に座り、朝陽が昇る方向にある天空海を眺めていた。
「そっちに行っていいかい?」
「モチロンいいよ。一緒に日の出を見ようよ」
「ありがと」
カノンの元に歩み寄り、その隣に座る。
「さっきの闘い」
「ん?」
「スゴク面白かったよ! ハラハラドキドキして、本当に殺されちゃうんじゃないかって心配しちゃった!」
「なはは……かなりギリギリだったけどね。それより、ここから見えた?」
「ちゃんとお兄ちゃんの事はトレースしていたよ」
「それもキミの瞳の力?」
その質問には、カノンは微笑むだけで何も答えなかった。
「カノン、キミが出掛けにくれたチョコだけど、ありがとう。アレが無かったらオレ負けていたよ。結局、オレはキミの掌の上でしか無かった」
そう伝えると、深い夜の闇を告げるような紫闇の瞳を向けてきた。
「それは違うよ。それは私じゃなくて、お兄ちゃんの知っている『カノン・ケース』という女のコの気持ち」
「オレが会っていたカノンは違うコかい?」
カノンはまたオレから視線を外す。
「そうだよ。私自身の記憶を封印して、ただ二つの言いつけだけを守る別の私。『お兄ちゃんから離れない事』と『ゲーム時間中はゲームエリアにいる事』の二つを守る以外は全くの自由。私の意図とは別に行動した『カノン・ケース』の気持ち」
どこか寂しげに喋るカノンに、オレは微笑みかけた。
「でも、それは大元のカノンの心が在っての事だよ。やっぱりオレを勝たせてくれたのは、他でないキミなんだ」
その言葉に、ポカンとオレの顔を見上げた。
「そんな、違うって……ナニいってるの! お兄ちゃん!」
頬をみるみる赤くさせながら、少女は激しく足をプラプラさせる。
「ふふ、カノンがテレてる顔が見れて、生きていて良かったって思うよ」
「なんですかさっきから。私を口説いているんですか!? お姉ちゃんにいいつけますよ!?」
その言葉を待っていた。
「ゲーム期間中だけの『ウソのお姉ちゃん』は、今でもお姉ちゃんかい?」
「……………」
その言葉はカノンから表情を奪った。
「カディは瀕死の重傷を負ったキミを死ぬ気で治療したよ。もし失敗したら死ぬって決心して。それでも、キミにとってカディは盤上の駒でしかないのかい?」
「……………」
「初めて会った第三ターンで、カディはキミがオレの後ろに乗っているのを見て、とても怒ったのを覚えているかい? 大切な人だからこそ危険な存在から遠ざけたい。それって、偽りの記憶を植えつけられても出来ることかい?」
カノンは何も応えない。
天空海の先にある地平線の向こうに紫闇の瞳を向ける。
オレはひたすら待った。
カノンの気持ちを聞きたかった。
もし、カノンにとってカディは状況が作った『お姉ちゃん役』でしかないのなら、それはそれで仕方ないと思った。
「そんなにいっぱい質問されても、私には答えられないよ」
天空海からの潮騒の狭間に浮かぶのは、そんな素っ気無い言葉だった。
「お兄ちゃん、私は生まれた時からネットに接続されていたって話したよね」
「ああ」
「私の両親は特にいうべきこともない普通の庶民だった。にも関わらず私は生まれた時からシグリヴァとして覚醒していて、生後一ヶ月でいわゆる『自我』にも目覚めた。私のバイオチップには毎秒ごとに流れる情報から外の世界を知り、その瞳で両親をみた。そして結論付けたの。なんてツマラナイ人達なんだろうって」
カノンのその言葉は、ガラにもなくひび割れていた。
シグリヴァが出生する条件は解明されていない。両親がシグリヴァであっても子供にその力が引き継がれないし、逆にごく普通の一般家庭からも生まれてくる。
例えばカディやジンがその例だ。
シグリヴァは人よりも長い寿命と強大な力を得る。
それは、そうでない人々にとって望んでも手の届かないモノだ。
当然の事ながら、両者の間には軋轢が生まれる。
オレもシグリヴァとしての力を使わずにいたのも、それを嫌ったからだ。
「普通の商社に勤めて、朝早く家を出て夜遅くに帰ってくる父親。私を育てつつ、たまに家で出来るバイトを見つけてきてはお小遣いを稼ぐ主婦の母親。本当につつましい生活。父親は何かと土曜と日曜の家族サービスに頭を捻り、母は父の考え出したイベントを喜び、そのたびに私に『良かったね、嬉しいね、楽しいね』という繰り返しの日常。ネットで外の世界を知る私には、何も実にならない毎日だった!」
カノンが一気呵成にしゃべる姿を見るのは初めてだった。
何より、この無垢な笑顔を見せてくれる少女が忌避をあらわにする事に衝撃を受けた。
「お兄ちゃんにとっては、それが望みだったんだよね? でも、それってとても退屈だったよ。何も真新しい事なんてない。最初は期待していたよ。でも、そのうち期待もしなくなった。結局こんなものか、そう思うようになった」
「………………」
「必然的に笑わない私を両親はとても心配した。心配して色々な所に連れて行って、色々な話をした。でも、どんな話も私にとって『知っている』ことだった」
少女の口元は嘲うかのように吊り上る。
ただ、この少女には悲しいほど似合っていなかった。
「二年前、私が十歳の時にね、私の済んでいた街でちょっとした物産展があってね、そこで蕨餅を買ったの。いっぱい味見もさせてくれて、私が美味しそうに食べていたものだから両親は三箱も買ってくれた。一日一箱、大事に食べたよ」
「食べすぎだよ。というよりも、蕨餅ってそんなに持つのかい?」
「そこの蕨餅は常温で三日持つの」
「冷蔵庫に入れないんだ」
「そうそう、買う時にいわれるの。『常温で三日。冷蔵庫に入れると固くなるので入れないで』って」
「へー、すごく美味しそうだ。食べてみたいな」
「今でも売ってるハズだよ……でもね、三日目で蕨餅を全部食べちゃって、もっと食べたくなって」
「うん」
「両親を捨てて、家を出たの」
「……………………」
「初めて一人で出た世界。それは驚きの連続。私はすでにたくさんのお金をデイトレードで手に入れていたから、旅費や食費に困らなかった。間もなく強力な宝具も手に入れて、自分の身を守る術も手に入れた。何もかもが真新しくて、面白くて、楽しくて」
「…………それで、ご両親はどうなった?」
オレの新しい質問に、カノンは瞳をパチクリさせて首を傾げる。
「さぁ? 興味ないよ」
「キミの両親が一生懸命探しているとは思わないのかい? 何かの事件に巻き込まれて、誘拐されたり殺されて埋められたりとか、スゴク心配しているとは思わないのか?」
「心配していると思うよ」
非常にあっさりとした態度である。それがどうかしたのかと云わんばかりに。
「でも私には用がないし、今となっては関係ないよ」
オレは正直に言って、カノンの取り澄ました顔をひっぱたいてやりたい衝動に駆られた。
とはいっても、そうしたところで何の意味ももたらさない。
単にオレの怒りの発露で終わり、伝えたい事の千分の一も伝えられないだろう。
いや、そもそも、なんでオレは怒っているんだろう?
カノンの態度にか?
親がいなかったオレに対して、両親がつまらない存在だから捨てたという、その言動にか?
いや、違う。
もちろん、態度にも言葉にも腹は立ったけど、それはついでの話だ。
オレが怒ったのはもっと別の事。
「違うよ。キミはそういう素っ気ない態度をしてみせる事で、両親なんてどうでもいいんだと自分に言い聞かせているだけだよ」
「……………………………………え?」
「両親がツマラナイとか、連れて行ってくれる所がマンネリとか、それって全部キミの感受性の問題だ。そんな事でキライになるなんて、いかにも頭でっかちなカノンらしいね」
「……どういう、意味ですか?」
カノンの声には、明らかな苛立ちがあった。
「ん? 何か難しい事でもいった? そのまんまの意味さ。毎日来る日もネットサーフィンで色んな情報や映像を見てきたんだろうケド、それって人の目と耳と感性で切り取ったものだ。どこにもキミ自身なんてない」
「…………お兄ちゃんに、私の何を理解しているというのですか?」
「何も」
「はぁ!?」
オレの突き放した言い方に、カノンは初めて怒った。
「私をからかっているんですか!? お兄ちゃんなんて、遺伝子操作による条件反射だけの存在じゃないですか! それなのに……!」
カノンは黙る。
そして、オレを横目で盗み見るように見ていた。
対してオレは、
「怒っていないよ」
笑って返した。
ちゃんと分かっている。
怒りかけたカノンが途中でセリフを切ったのは、オレを思わず傷つけたとすぐに気がついたから。
そんな優しい少女が、冷たい想いだけしかないわけがないと、ちゃんと分かっている。
「カノン、キミの言うとおり、オレは何者かが造った『A・R・S』と呼称される存在だ。ある条件下における質問は意思とは関係なく応えてしまう。でもね、それでもオレは自分を世界で唯一人の存在だと認識している」
東館で死闘を演じた“雷を友に走る男”が教えてくれた。
強大な存在に対しても、あるがままを受け入れ、それでも立ち向かう事を。
「闘う意思がある限り、オレは『アルス・ミカミ・フォーリナー』だ。そこになんの疑問も抱かない。」
「その名前も、ただの符丁として与えられたとしても?」
「ただの符丁で終わるのか、いや、終わらせるかはオレ次第だ。始まりなんて関係ないよ」
「お兄ちゃんは、自分の境遇に対して怒ったりしないの?」
「別に。怒るのではなく、闘うのさ。オレの意思を踏みにじもうとすればね」
するとカノンは押し黙る。
いや、何かを言おうか言うまいか悩んでいるかのようであり、口を閉ざそうとしているようだった。
「なんだい? なんでも言っていいよ」
「私が『アーリア』っていう、おにいちゃんの友達を殺したとしても」
「………ッ!?」
その言葉は衝撃的であった。
記録の中で白仮面に攫われるアーリア。
次に見た時は、他の四人と一緒に廃屋で並べられている姿。
それを思い出し、血液が熱くならなかったといえばウソであろう。
でも、それも一瞬で終わったのは、オレの洞察がしっかりと働いた証拠だ。
「それも違うだろ? キミが出せる命令は二つだけ。そんな細かい命令は出せるわけじゃない」
「違わなくないよ」
「アーリアを攫ったのは白仮面。あれはおばあさんの《人鬼傀儡》だ。だけどおばあさんがアレをやったとは思えないし、思いたくもない。では誰がやったかと推理すると、ジンやカディがやるわけがないし、土門やエンクス達もそんなにセコイことをする連中には見えない。消去法で考えると、恐らくは記録役のスコールがどうにかして《人鬼傀儡》の操っていたと予想できる」
「正解、だと思うよ。私もスコールをトレースしていたわけじゃないから証拠はないけど、犯人だと確信しているよ。でも、そうだとするとやっぱり私が殺した事になる」
カノンの表情が夜闇以外の理由で暗く見える。
だけど、オレはゆっくりと首を振る。
「使用者責任の事をいっているなら、それも違うよ。そもそも、アーリア達があの場所に居合わせたのは、オレがみんなを連れ出したからだ。それが始まりであり、全責任はオレに帰結する。オレが連れてこなければ、あんな事にはならなかった」
「それは、そのとおりだけど……」
「だから、あえて自分を悪者にするような言い方はこれを最後にして」
「えっ?」
カノンは驚いたように、オレの顔をみた。
「物事を前に進めるために、誰かにその責任を押し付けなきゃならない事。それはある種の儀式みたいなモノだよね。責任を果たすか、もしくは取らせる事で自分の体を軽くして前に進ませる。それってキミの嫌いな『普通な事』だよ。だから似合わないでしょ?」
「そんなこといわれても……わかんないよ」
「オレのせいで友達はみんな死んだ。生き残っているのは二人だけ。それも一人は封印中だ。オレはこの責任をどうやって取ればいいのか分からないし取れるものでもない。法的な責任を問われでもすればスッキリするけど、ゲーム期間中の出来事ではそれもない。だから続けるしかないんだ」
「続けるって、何を?」
「『善人という名の仮面を被り続ける事』」
そこでオレは顔の右半分を覆う白い仮面に手をあて、仮面を外した。
通常、仮面は顔から生えてくるので、分子融合している状態である。外す時は分子融合を解除する。
仮面を外すと、外したばかりの素肌に夜風が当たり、左の頬とは風の当たりが違う気がした。
「こうして仮面を外すと、なんでもない顔をしているように見えるけど、その実、真っ黒だ。オレはもう、昔のように笑えないかもしれない。何かの拍子にみんなの事を思い出し、前に進めなくなる時もあるかもしれない。それでも自分が正しいと信じる事をする事で罪の一億分の一でも購えるなら、この仮面を付けて、真っ直ぐ前を見て足を踏み出す」
オレに、カディを好きになる資格なんてないのだろう。
大体にして、ついこの前まではセレナが一番好きだったのにだ。
それでも、オレはカディについていきたい。助けてあげたい。
あんなにも価値ある存在に出逢えて、オレはとても倖せだと感じられるから。
手は紅く染まり、顔は真っ黒だけど、それでも彼女のために生きていきたいから。
「そっか、おにいちゃんは、ちゃんと自分の道を決めたんだね」
「当面は、だけど。でもね、カノンだって自分の道を決める時はちゃんとくるんだ」
「え? 私はもう、決めた道を進んでいるよ」
「行きたくない道から目を背けて、目をつむって闇雲に進んでいるだけだよ」
オレも酷い事を言っていると思う。
カノンが怒って睨みつけてくるのは当然だ。
でも、それもすぐに終わった。
カノンの視線が、地平線の彼方に消えた。
「カノンが対決すべきはオレなんかじゃないよ。袂を別った両親だ」
「イヤです」
「イヤときたか。そこだけは年齢相応だね」
「むー」
その子供っぽい反応は、カノンが余裕を取り戻した証拠だ。
「怖いなら、一緒にいくよ」
「え? でもお姉ちゃんの事があるんじゃ」
「ほら、また『お姉ちゃん』」
「い、いちいち言葉尻をつかまえないでください!」
「はは、カノンの事だって、責任もって守ってみせる。そりゃ、キミは怒られるだろうね。お尻の一つでもぶたれるだろう。それでもキミは行かなきゃならない。もし旅を続けたいなら、その上でキチンと別れを告げなきゃね」
「私が叱られる姿を、そんなに見たいの?」
「うん、見たい」
「もうっ、おにいちゃん、怒るよ!」
「あは、怒ってもいいよ」
「とっくに激おこプンプン丸です!」
そういって腕を組み、隣りにいるオレと反対側を向くカノン。
そんな彼女にオレは改めて質問した。
「もう一度きくよ。カノンにとって、カディはゲームのためだけの『お姉ちゃん』かい?」
その質問に、カノンは組んでいた腕を解き、顔をこちらに向ける。
その大きな紫闇の瞳は……………………………………笑っていた。
「そんなわけないよ、おにいちゃん!」
オレはそっとカノンの頭に手を乗せる。
「カノン、みぃーつけた!」
カノンはキョトンとして、オレを見ていた。
たっぷり五秒数えると、次第に顔が紅くなっていく。
いや、とても悔しそうな顔になっていく。
「なんかズルイ! ズルくない、おにいちゃん!?」
「あれれー、くやしいのかなー。なんでも知っているカノンさんが負けちゃうなんて在り得ないもんねー」
「もう、許さない!」
ポカポカ叩いてくるカノンから逃げると、カノンはポケットに手を入れて、掴んだモノを投げつけた。
オレはそれをキャッチする。
最後のチェスメキアを。
「ありがとう、カノン。コイツをゆずってくれて」
「フンだ。それは私とのゲームに勝った景品だから。気持ちよく譲ってあげる!」
そういうと右手の人差し指で右目の端を引っ張り、ベーと舌を出してみせた。
やっぱりカノンはこっちの方が断然可愛い。
「んん? なんですか? 子供を見るような生暖かい目で見て」
「いや、やっぱりカノンは可愛いなと思っただけだよ」
「なっ!? ナニ当たり前な事を言っているんですか! それともこれから私を襲おうとするフラグ立てですか!? もう通報しましたよ!」
「残念。ゲーム期間中の出来事について、警察や軍は介入できないし、また罪には問われない」
オレはじりじりカノンに近づくと、目の前の少女がちょっと怯えた顔をしてみせる。
「レイプでもするつもりですか? 後悔しますよ?」
「後悔? 何のコト? もうオレはそんな言葉と縁を切ったよ」
ガシィッ!
なんだろう、このオレの左肩に乗っかっている手は?
いやに力強く思いような……ていうか、痛い、いたい、イタイッ!
「ふーん、後悔と無縁ね。人の妹を手篭めにしようとして、ズイブンな言い草じゃなぁい? アルスくぅん?」
オレの背中から聞こえてくる声に、オレの背中は脂汗がダラダラと流れてくる。
「あれ、疲れているのかな……本来、無いハズの声が聞こえてくるような……カノン、またなんかの幻術でも使ってる?」
「いえ、私がしたのは通報しただけです」
「通報って……一応、聞くケド、警察?」
「お姉ちゃんですよ」
「私だと何か問題があるかしら?」
シレッと答える前門の妹に、いちいちセリフをビブラートさせる後門の姉。
「待てカディ、落ち着け。お前も冗談だと分かってやってるんだろ!?」
ていうか、来るの早くない?
ソロソロ目線を横にしつつ、ゆっくり振り向こうとすると、振り向くまでもなく、カディの整った顔がキス出来る距離から覗き込んでいた。
「どうもー、お疲れ様、アルス?」
「や、やぁ、カディ………やっぱ近くで見ると、キミはスゴく綺麗だね」
「あら、ありがとー。でもいいの」
「いいって何が?」
「カノンの次でも」
「い、いや、アレはね………」
「カノンは可愛いからね。今から手を付けるのは戦略的にアリかなーて思うわ」
カディはそう言いつつ、ゆっくりとオレの前に回り込んでくる。
左肩は掴まれたままだけど。
「頭の回転が速いアルスの考えてる事もそうでしょ? 先に歳とる女よりも、より若い女のコって」
「バカッ、違うって! オレはカディに惚れてるんだ! カノンへのアレは妹への愛情表現であって………なんていうか、分かってるだろ!?」
すると今度は別の方からお声が掛かる。
「……そっか、冗談なんだ。そうだよね、私、妹だもの。ゴメンね、勝手にときめいたりして」
カノンはあたかも涙を拭うような仕草をしてみせる。
「か、カノン! 泣き真似しないでよ! それもさりげなく距離をとりつつ!」
気付けば、カノンとの距離は二十メートル。
良く出来た少女はペロッと舌を出す。
「アルスッ、こっちを見なさい!」
「ヒィ…!」
眼から星が飛び散る程の平手打ちが右頬に炸裂し、見知らぬ星を幾つも見る。
右頬の仮面を外すんじゃなかったと後悔した。
「いつつ…ヒドい目に遭った」
「自業自得でしょ」
カディはプイッとオレから顔を背け、その視線がカノンのそれと重なる。
カディは表情を改め、カノンの元へと歩み、またカノンもカディの元へ歩を進める。
両者の中間点で止まる二人。
身長差でカディは見下ろし、カノンは見上げる。
「カノン……で名前は合ってるの?」
「うん……カノンは本名だよ」
「そっか、いい名前ね、カノンは音楽でいうところのポリフォニーの事だよね。輪唱とも言われるけど、違う声部が違うところから始まって、リズムが二倍だったり、はたまた上下左右が入れ替わったり」
「よく知ってるね。始めの音を追いかけているようで、でも違うモノ」
カディの顔が沈む。
「……そうだね、違うモノかもね。でも、ソレって現代では遁走曲に区分されてるよね?」
カディが問う時、その表情は隠しきれない不安を湛えていた。
一方のカノンは無表情に見上げるだけで、何も喋ろうとしない。
「……カノン」
「主題を外した旋律であれば、それはカノンじゃない。私は『カレン・ケース』でないのと同じように」
その言葉は辛い。
カディがカノンに対して、亡くなってしまった妹を重ねるのはどうしようもない事だ。
果たして、カディの斜めに見下ろしていた視線は、その足元に落ちる。
「でも、カノンもフーガも、終わる時は一緒だよ、お姉ちゃん!」
カディが弾かれたかのように視線を上げると、そこには天空海の先から湧き上がる朝陽を背中に受けつつ、その輝きに負けない笑顔を溢れさせた少女がいた。
「…カノン!」
もうそれ以上、何も言えなかった。
カディはカノンを力一杯抱き寄せた。
「うぐぐ、イタイよ、お姉ちゃん!」
「カノン!」
涙を流すカディに、カノンもそれ以上、突っ込むのは止めて、代わりに別の言葉を贈る。
「お姉ちゃん」
「ん、何かしら」
カディが聞き返すと、カノンはそっとカディの胸の中から顔を上げる。
「守ってくれて、ありがとう!」
その言葉に、カディは再び『姉』に戻った事を知り、今度は守りきった事を知り、また新しい涙を零す。
「こちらこそ…大切なモノを取り戻させてくれて、本当にありがとう、カノン」
姉妹は互いに微笑み交わすと、そっと抱き合った。
「お兄ちゃん」
「なんだい?」
「もしも私に始めから『お姉ちゃん』がいたら、こうして私達は逢えなかった?」
「さて、どうかな……カノンのいなかった『お姉ちゃん』はカディじゃないかもしれない」
「………」
「でも、同じようにカディの妹だったカレンがいなければ、カノンを最後まで守りきれなかった」
二人の姉妹は抱き合っていた腕を解き、オレの方に振り向く。
「カディは過去を捨てたりせず、大切に守ってきたからここに来れた。カノンも両親に歩み寄る気持ちを見つけたから、今こうしている。何かを棄てて手に入れられるモノもあるけど、オレはコッチの方が良いな」
二人の後ろから射す朝陽が眩しいな。
「うんっ、そうだね! それとね、私はお姉ちゃんのコトを」
朝のちょっと冷たい風が、朝陽に暖められて天空海から吹いてくる。
「とっても美人で、強くて、優しくて、頼れるお姉ちゃんだと思ってる!」
五月十五日、午前五時二十九分。
『事象時戯の略儀』は、朝陽を映し紫闇の瞳を輝かせる少女の言葉を以って、終わりを告げた。




