3、喧嘩(2)
「だったら、こうしたらどうだ?」
車内にあった亜矢のハンカチを、バス停に結びつけた。
「ちょっと! 何するのよ! そのハンカチ千円もしたのに」
「いいだろ! ぐるぐる回ってるなら、また戻ってくるはずじゃないか。これで、また戻ってきたら、このハンカチは亜矢の手に戻るし、俺が言ってることも間違ってるってことになる。確かめるにはちょうどいいだろ」
「そうだけど……」
不承不承という感じで、亜矢は車に乗り込むと、再度エンジンをかけ、車を発進させた。
俺は、こんなばかげたことが本当に起っているはずなどないし、あのハンカチも二度と亜矢の手には戻ってくるはずはないと思っていた。
ほんの少しの不安はあったけど。
あれから一時間。
車内の軽快なリズムが、やけに癇に障るが、あえて音楽を止めようとはしなかった。
あくまでも、亜矢の勘違いなのだと思いたかったのだ。
「ほら、また同じバス停!」
俺は左前方に見えるバス停に目を留めた。
大事なのは、そこに亜矢のハンカチがあるかどうかだ。
ハンカチがなければ、この土地のバス停は一様にして、同じ作りで同じ朽ち方をしていると笑えることになる。
「あれ! あれは、私のハンカチよ!」
亜矢は車からでると、恐る恐る歩き出した。
さすがに俺も、亜矢と同じ気持ちだった。
「ほら! やっぱり私のハンカチだよ!」
亜矢が差し出したハンカチは確かに、さっき俺が結びつけたものだ。
「きっと、道を間違えてるんだ。本当はどこかを曲がらないとならないのに、まっすぐに来たからいけなかったんだ」
「そんな! だったら、和也が運転すればいいでしょ!」
「俺が?! ふざけるなよ! 俺はビールを飲んでるんだ。運転できるはずないだろ!」
「ずるい! ずっと私に運転させるつもり?」
「ずるいもなにも、亜矢が飲んでいいって言ったんじゃないか!」
「あの時はそう思ったけど、まるで道に迷ったのは私のせいみたいに言ってるんだもん。それなら、和也が運転すればいいじゃない!」
「だから、俺は酒を飲んでるから運転はしないって言ってんだろ!」
「あー!! もういい! だったら、もう別行動にしよう!」
「なんだよ! それ、どういう意味だよ」
さすがに、こんな辺鄙なところで放り出されたんじゃ、俺の方が泣きたくなる。
俺は、亜矢の機嫌をとることにした。
「いや、そこまでは言ってないし、喧嘩する気もないから」
「ふん! ちょうどバス停でおろしてやるんだから、感謝してよね!」
こんなところで下ろされて、感謝できるはずもない。
いつもなら俺のずぶぬれの子猫のような泣き言を聞かせれば、『しょうがないな~』と笑って許してくれるのに、どうしたことか、今日は頑として聞き入れてくれないのだ。
何度も笑わそうとしたり、泣き言を言ったり、なだめたりしてみたが、『和也が悪い』の一点張りだ。
俺はいい加減嫌気がさして、車の中にあったバックをひったくるようにして取ると、運転席でハンドルを握る亜矢に向かって捨て台詞を投げた。
亜矢は聞こえなかったかのように、エンジンをふかすと、走り出して行ってしまった。
もう、どうにでもなれ!
そんな気持ちだったが、一人残された今、後悔の念が湧き上がってきた。
「なんで亜矢はあんなに怒ってたんだよ」
せっかくの久しぶりのデートで、ドライブを楽しんだ後は、ホテルでのんびりと時間を費やすはずだった。
それが、どこを間違えてしまったのか、片道切符の喧嘩となってしまった。
俺は、ぼんやりと亜矢の消えた方向を見ていた。
「そうだ! 亜矢はぐるぐる回ってると言っていたんだから、一時間も待ってたら、亜矢はここにもどってくるはずだ」
そうは思うが、太陽が傾きだしている今、寂しさと不安が増してきている。
俺は手にしていたスマホに視線を落した。
謝るか……。
しかし、そんなことをしたらこれから先、どれほどの屈辱が待っていることだろう。
小さな小競り合いがあるたびに、今日のことを持ち出されるのは分かりきっている。
それはプライドが許さない。
許さないが、このまま一人でいつ来るかも分からないバスを待っているのも辛いものがある。
謝ろう!
謝ってベッドに入って仲直りすれば、全ては元に戻るに決まっているのだ。
そう決めると、スマホの電源を入れた。節電モードのせいなのか、すぐに電源が落ちる設計になっているようで、画面は真っ黒だった。
しかし、いくら電源ボタンを押しても、画面が明るくなることはなかった。
「なんだよ! 電池切れかよ!」
昨日は、満タンに充電してきたはずだ。しかも、今日は殆ど使っていない。それなのに、充電がなくなっているというのか。
俺は、スマホを投げつけてやりたい気持ちを抑えて、バス停の時刻表を見ることにした。
その時刻表は、何十年もそこに立っていたらしく、文字もかすれ、あちこち錆が浮いていた。しかもバス停の名前が消えかけているのだ。
「バス停の名前もわかんねぇのかよ」
不安な気持ちを打ち払うように、大きな声で言った。
「次のバスは……」
時刻表をじっと見つめる。
やっと読めた数字は、《19:00》。
「なんだよ、19:00って! しかも、この他にバスがないのかよ!」
一日の運行を示す時刻表には、19:00に到着するたった一本だけだった。
「ここの人たちって、どうやって生活してるわけ? しかも、19:00って夜の七時じゃん。そんな時間に駅に行くやつがいるのかよ。ま、まぁ、バスがその時間に駅に行くんだから、駅には電車が待ってるはずだ。どんなに遅くても、必ず駅に行けば電車に乗れるんだから。電車に乗れさえすれば、何とかなる! 今夜中に帰り着かなくても、乗り継ぎができる駅につきさえすれば、ネットカフェとかがあるだろう」
俺は自分を勇気付けるように、更には自分を納得させるように呟いた。




