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境界線  作者: 久乃☆
10/12

10、終電(5)

 俺は飛び起きた。



(夢?……)



 流れる汗が、妙に肌にねばりつく。



(当たり前だ。こんな事が現実に起こるはずはないんだ)



 俺は再び、目を閉じた。



(きっと、神経が立ってるから、あんな夢を見たんだ)



 じいさんとばあさんの声で目が覚めたなんて、あれも全て夢だったのだ。俺は自分に言い聞かせるように、再びウトウトと眠りの世界へといざなわれていった。


 電車の揺れが心地よく、ガタンゴトンという一定のリズムが心を落ち着かせる。


 

「ここ、よろしいですか? あら、寝てるのね。疲れてるんだって、お兄さん。おいでバナナ」



 優しい、温かみを感じる声。


 いつだったか、聞いたことのあるような声だと思った。


 

「バナナ、ここにお座りしてちょうだい」



 バナナと言われた何者かは、女性の言ったとおりに座ったらしい。


 それにしても、おかしな名前だ。


 今時の名前だといえば、確かにそうかも知れないが、さすがに可哀相だろう。



「それにしても、痛かったね。どうして、こんな酷い目にあわないといけないんだろうね」



 俺は薄目を開けて、女性を見た。


 前髪が垂れていて、顔を見ることができないが、痩せた体型と細い指、透き通るように白い肌から、かなりの美人ではないかと思った。


 彼女は、優しく隣に座る犬の頭を撫でていた。



(犬?! なんで、電車に犬がいるんだよ。それも、座席に座らせるって、どうなってんだよ! 田舎だから、許されるってことか?)



 別段、おれ自身モラルを重視する方ではないが、さすがに電車で犬を連れている人なんていうのは、盲導犬以外にお目にかかったことがない。


 ところが、どう見ても目の前にいる犬は普通の犬だ。


 

(まぁ、田舎だしな。こういうのもありなんだろうな)



 俺は、多分美人であろう女性のすることに、とやかく言いたくもないので、再び目を閉じた。


 しかし、結構な大きさの犬だ。


 もしも、この犬が俺に向かった牙を向けてきたら、俺はひとたまりもないだろう。



(参ったな……。怖いな……)



 子供の頃に犬を飼っていたことがある。だから、犬を怖いとは思っていない。しかし、どういうわけか、薄目を開けたその時、犬の鋭い目が俺を捕らえていたのだ。その目は憎しみに燃えているように見えた。



(所詮犬だ。バカバカしい! 飼い主がそばにいるんだから、俺が噛まれるはずはないんだ。もし、噛むような犬だったら、電車に乗せることなんてあるはずないんだ)



 目を閉じていると、周りの音がより一層鮮明に聞こえてくる。


 電車の音と、女性の悲しげな声、そして犬の低い唸り声。



(そういえば、『こんな酷い目』って言ってたな。一体、なんだろう?)



 俺は興味を抑えることができず、もう一度薄目を開けて犬を見た。


 女性は、悲しそうに犬の頭を、優しくなで続けている。


 その手が頭からは離れた瞬間、吐きそうになった。


 それは、斧ででも割られたのか、脳天がぱっくりと割れ、流れだした血が固まり、どす黒くなっているのだ。真っ黒な血のおかげで、中までは見えなかったが、どうして生きているのかが不思議でならないほどだ。



「可哀相に……バナナは、何もしてないのに、本当に酷いことをするよね。和也は」



(え?!)



 最後の名前を聞いたとき、俺の過去が蘇ってきた。


 


 昔、俺が子供の頃に飼っていた犬。名前をバナナとつけたのは、誰でもない、俺だった。


 どうして、そんな変な名前をつけたのかといえば、あるはずのない眉毛が、あるように見えたからだ。それも、まるでバナナのような形だったのだ。両目に一本ずつ、バナナのような眉毛がある。俺はそれが面白くて、あの犬をバカにして遊んでいた。


 学校から帰ると、散歩に連れて行くどころか、首に綱をつけて引きずり回した。エサをあげるふりをして、届かない距離において楽しんだ。親が日よけに置いた傘を、わざと遠くに投げて、犬が炎天下でへばりついているのを楽しんだ。


 あるとき、犬が何を思ったのか、俺に反撃してきた。もう少しで、俺は噛み付かれるところだった。



 だから、あれは正当防衛だった。



「本当に、酷いよね。バナナ……お母さんが守ってあげられなくて、ごめんねぇ」



 お母さん?


 バナナに話しかけるとき、俺の母親は自分のことを「お母さん」と言っていた。



(まさか、あのバナナがこの犬? そして、この女性が俺の母親? ありえないだろ! 何を考えてるんだよ。これもさっきと同じ夢に決まってる!)



「バナナ、舐めてくれるの? ありがとう。でも、お母さんは大丈夫だよ。きっと、いつか和也も分かってくれるよね。あんな酷いことばかりしているけど、きっと分かってくれるよね」



 犬が、『ウー』と低く唸った。それは『分かるはずなどないよ』と言っているように聞こえてきた。



「そうだね。あの子には分かるはずないのかもしれないね。私だって、あの子さえ生まなかったら、こんなに早くに死ぬことはなかっただろうね。あの子が、もう少しまともだったら、私はこんなにも苦しまずにすんだものを……」



 一体、何があったというのだろう。


 俺は、目をつぶりながら考えていた。母親が早くに死んだのが、俺のせいだといわんばかりに、犬に話しかけているが、どう考えても分からないのだ。


 俺は、俺なりにごく普通に生きてきたはずだ。



「バナナは知ってるかぃ? おじいさんとおばあさんが死んでから、和也の態度が変わってきたの。そうだね、その頃には、お前はとっくに死んでいたから、知るはずはないね。おじいさんとおばあさんが死んでから、和也は私に暴力を振るうようになったんだよ。お父さんに相談しても、仕事が忙しいからってどうにもならないし……とうとう、あの子は私の食べ物に農薬を入れたんだ。最初は、極少量。徐々に体がだるくて、動くことができなくなると、楽しむように用事を言いつけて、できない私に殴る蹴る。情けないね、たかが中学生の子供に暴力を振るわれて。最後は、遺書を書かされた。そして、無理やり農薬を飲まされた。胃が焼けるように熱くてね。でも、これで楽になるって、本当に思ったのよ。もう、和也に悩まされることはないんだって。あの子は、私がのた打ち回るのを楽しそうに見てたけど……大人になった今、あの子はどうなってしまうんだろうねぇ……」



 俺は、全てが自分の過去だと悟った。



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