十章 歌蓮・二
「ふふ。そんなに警戒しなくてもいいいわよ。何もしないわ。ただ、自分が産んだ子に会いに来ただけよ」
歌蓮は黒曜に向かってそう言うと、背後に隠れている娘を呼んだ。
「緋月、顔を見せてちょうだい。私、あなたとお話しがしたいわ。駄目かしら?」
可愛いらしく小首を傾げて話しかけてみるが、緋月の反応はない。
どう反応すればいいのかわからないのだ。
確かに実の両親に会いたかった。
両親がいればきっと自分は幸せになれただろう。そう信じていたから。
だが実の父親、皓緋に会い、その願望は打ち砕かれた。父も母も自分のことを道具としてしか存在の意味はないと言ったが、それは父、皓緋がそう言っただけで母である歌蓮は違うかも知れない。
でも本当だったら……。
その真実を肯定されたら、あまりにも惨めすぎて、悔しくて、消えたくなる。
それに自分の身体を取られた相手が母親だという現実も信じたくない。
対価として商人に売ったのだ。いつかこういう日が来るとわかっていたが、まさか相手が自分の母親で、その身体を目の前で使われるのはどうにも恨めしい。
母親ならば娘に返してと言いたくなるが、それは我儘だということも理解している。
だけど理性は理解しても感情は魔物が暴れ狂い全てを破壊するときのような、どうにも止められない醜い気持ちで溢れている。
「緋月?」
そんな娘の気持ちを知ってか知らずか、母親は可愛らしい仕草と声で娘を呼ぶ。
緋月は答えず、黒曜の服をぎゅっと握る。
「緋月?」
もう一度、母親が娘を呼ぶが、娘は無言のまま。
「そう。私とは話したくないのね。会うのは最後だから来てみたのだけど。仕方ないわね」
歌蓮は残念ねという顔をして踵を返した。
「待って!」
咄嗟に声が出た。
「あら、お話ししてくれるの?」
歌蓮がくるりと回り、黒曜の背中から出て来た緋月の前に寄る。
「最後、というのはどういうこと……?」
歌蓮と視線は合わせず問いかける。
「どういうも何も、そのままの意味よ。あなたと会うのは最後だからお話ししようと思ったのよ。娘と会って話して、どういう風に感じるかなぁとか、この身体のお礼も言わないとねと思って。ふふ。あらためてありがとう、緋月。あなたの身体、大事にするわね」
緋月はカッとなった勢いで視線が歌蓮に合ってしまった。
すぐにずらそうと思ったが出来なかった。
そこには可愛らしく微笑みながらも、勝者として見下す女がいた。
自分の身体だったとは思えない程の、可愛らしさと、艶やかさを出して緋月を圧倒する。
「…………」
緋月は屈辱と惨めさで身体が熱くなった気がした。人間の身体ではない、人形の身体なのに。そう感じてしまう程、心が憎悪で煮えたぎると同時に、その憎悪で心も深く傷ついた。
「どうしたの、緋月」
心配そうな顔で娘を気遣う母親がいる。
「……っ!」
その顔を見た途端、緋月は腕を振り上げ、歌蓮を叩こうとした。
「あらやだ」
ひょいと歌蓮は後に下がり三人と距離をとった。
「傷をつけられるのは嫌だわ。痛いし。ああでも、そうしたらあの子が舐めて治してくれるから、それもいいかも」
ふふっ、と無邪気に楽しそうに笑うが、緋月は怒りに震えながら言葉を漏らす。
「……あの子、て……」
「ふふ。もちろん氷蓮よ。私の可愛いくて、愛しい男」
ほんの少し前、無邪気な可愛らしい笑顔を見せたのに一転して、大輪の牡丹が咲き誇るような艶然とした笑みを浮かべた。
その顔を見た瞬間、緋月の中で何かが音を立てて壊れた。
「……狡い。狡い狡い狡い狡い狡い狡い狡い!」
緋月は大声を出した。
「母様は狡い! 私から身体を奪って、氷蓮も奪って! 私には何一つくれないのに! 狡いわよ! ……返せ、返してよ! 私の身体と氷蓮を! 返して!!」
豹変した緋月の姿に三人はぽかんとした。
誰もここまできれた緋月は見たことがないのだろう。あまりの勢いにのまれ、しばし沈黙が落ちる。
「ぅ、ふふ。ふふふっ!」
歌蓮の嗤い声が沈黙を裂いた。
「あはは……。私が産んだ子はとても子供なのね。ふふっ」
嗤い過ぎて流れた涙を袖をで軽く拭う。
「どういう意味?」
緋月が歌蓮に突っかかる。
「ふふ。そのままの意味よ。あなたは駄々をこねる子供。だから氷蓮の気を引きたくて、わざと穴に落ちたのでしょう」
「違っ……!」
「ああ、隠さなくてもいいのよ。この身体に入った時にこの身体の記憶を全てみたから。ふふ。でも」
嗤うのを止め、すっ、と冷たい表情になる。
「あなたは氷蓮の何を見ていたのかしら。姿だけ? あなたが愛した氷蓮はどの氷蓮かしら。姿だけよね。氷蓮の心も愛したのなら、氷蓮という鳥籠から逃げることはしなかったはず。そんなことをすれば氷蓮は悲しむ。あなたは氷蓮が悲しむことを平然とやってのけたの。自分のためにね」
「違う! 違うわ! 穴に落ちたのはわざとじゃない! 氷蓮の手が届かなかったのも嘘じゃないわ!」
「違うわね。確かに氷蓮はあれ以上手を伸ばせなかったけど、あなたは手を伸ばせば氷蓮の手を掴めた。それなのにそうしなかったのは自分の欲望のた……」
「違う!」
緋月が歌蓮の話を遮る。
「違わないわ。あなたは氷蓮に自分を追いかけさせたかった」
だが歌蓮はそんな妨害など気にすることもなく話しを続ける。
「違う!」
「あなたは自分がどこにいても氷蓮が見つけ出すことを確信していた。自分がどれほど氷蓮に大事にされているかは知っていたものね。たとえそれが誰かの——私のか……」
「違う!!」
腹の底から出した大声で歌蓮を黙らせる。
「んふふ。本当にあなたは子供。馬鹿な子供ね」
歌蓮は緋月を憐みと蔑みの混じった目で見ながら続ける。
「氷蓮はあなたを大事にしていた。それがあなたの望む形ではないにしても、ね。それなのにあなたは氷蓮を裏切り、疲弊させ悲しみのどん底に突き落とした。だから私……お前を絶対に赦さないわ、緋月」
歌蓮の雰囲気が変わった。
そこには愛しい男を害した小娘に制裁を加えようとする怒れる女が立っていた。
「死になさい。お前なんか存在の意味もない」
歌蓮は右腕を上げ、何の苦労も知らないたおやかな人差し指で緋月を差す。
黒曜が緋月を庇おうと前に出るが、緋月はそれを拒否した。
「緋月!?」
「うるさい、うるさいうるさいうるさいうるさい!! 何様のつもり!? 死人が今さらのこのこ還って来ないでよ! 氷蓮は私のものなんだから! そうよ! 何でみんな私を大事にしないの!? 私はみんなが言う通りに大人しくいい子にしていたわ。なのにみんな私を嫌う。何なの!? 何でこんなにいい子にしていた私を蔑ろにして好き勝手なこと言うの!? おかしいわよ、もっと大事にしなさいよ! 氷蓮だってもっともっと私を大事にして愛しなさいよ! 私はあんなに言うことを聞いて愛したんだから! みんなおかしい! 嫌い、嫌い、大っ嫌いよ! 特に父様と母様、あなた達が一番大っ嫌いよ!」
緋月ははぁはぁと荒く息をし、全身で怒りを露わにした。まるで別人かのような気性の激しさだ。
「うふふ。本性が出たようね、緋月。気紛れで産んだ子でもこうまで馬鹿だと母親としては恥ずかしいわ」
歌蓮は両手で顔を隠す。
「でも」
両手をぱっと顔から離して満面の笑顔で告げる。
「ちゃんとゴミの始末はするから安心してね」
歌蓮は両手を胸元で組むと歌を歌い出した。
鈴が鳴るような可愛らしい声に甘い旋律の歌。
だがそれだけで何も起こらない。
「何、馬鹿にしているの!? それなら私が殺してやる!」
緋月は黒曜の帯刀している長剣を抜き、歌蓮目がけて斬りかかる。
「死ね!!」
だが歌蓮は動かず歌を歌っている。
避けもしない無防備な歌蓮を殺せたと思った。
だがその剣は歌蓮には届かなかった。
何故か身体がいうことをきかない。
心は殺意で溢れているのに身体は反抗して動かない。ただ、歌蓮の前でぶるぶると身体を震わせながら、剣を構えている状態だ。
「な、にっ、これ!?」
「ふふ。いいざまね。さあ、ゴミは燃やした方がいいかしらね」
歌蓮の左手の掌にぼっと音を立てて炎が出現した。
「緋月!」
黒曜が素早い動きで緋月を抱き上げ、後に退がる。
歌蓮は追わずくすくすと嗤っている。
「何をしたの」
下ろされた緋月の身体は普通に動かせた。どうやら一時的に身体の自由を奪われただけのようだ。緋月は長剣を掴んだまま、歌蓮を睨む。
「歌を歌っただけよ」
笑顔を見せて答えるが、その笑顔からは怒りが滲み出ている。
「馬鹿にしているの!?」
「そうよ。よくわかったわね」
「このっ!!」
「緋月!」
歌蓮に向けて剣を振りかざしたが、危ないとみた黒曜が緋月から奪い取り、緋月の視界に歌蓮を入れないように、黒曜が庇い立つ。
「退いてよ黒曜!」
「駄目」
興奮している緋月を前に出さないよう立ち塞がりながら、眼前の歌蓮を注視する。
そんな二人を歌蓮は「ふふ」と嗤いながら見ている。
剣を取り上げられても緋月は何とか歌蓮にやり返そうとするが、黒曜が邪魔で何も出来ない。
だが何か思いついたのか前に立つ黒曜の上衣を力任せに掴んで引っ張り声を出す。
「黒曜、あいつを殺して!」
「え?」
黒曜は歌蓮を警戒しつつ、首を少し後に向けた。
怒りと憎悪と屈辱で身体を震わす緋月を見て、にやりと口元を歪める。
「いいの? 緋月の身体だけど」
「構わない。あんな女、大っ嫌い! 身体もいらない! あの女が入った身体なんて汚らしくていらないわよっ!」
緋月は理性の欠片もなく感情のまま、捲し立てる。
「わかった。でもなるべく身体は傷つけないようにする、ねっ!」
黒曜は予備動作もなく、歌蓮目がけて斬りかかる。
「あらやだ。怖いわね」
言葉で怖いと言いつつも、表情は少しも怖そうではなく、迫る黒曜の剣も避けようとはしない。
黒曜もその異質さに違和感を持ち、何か呟くと黒曜の身体が消え、次の瞬間には緋月の元に現れた。そしていつの間にか右手にある苦無を歌蓮目がけて投げた。
だが、苦無は歌蓮に届くことはなく数センチ手前で落ちた。
スピードが失速したわけではなく、何かにスピードを奪われたようで、不自然に失速して落ちたのだ。
「あらあら、用心深い子ね」
歌蓮は落ちた苦無を拾い、少し眺め弄び、飽きたのか苦無を正面に投げた。
「別に返してくれなくてもいいのに」
黒曜は投げ返された苦無を受け止め背後に投げ捨てた。
「ふふ」
可愛らしく微笑む歌蓮。
「その余裕は自分に攻撃は無効、ってとこから来るのかな」
黒曜が問う。
「ふふ。当たらずといえど遠からず、かしらね」
「面倒だなぁ」
黒曜が怠そうに言う隣で緋月が喚いた。
「黒曜、早くあいつを殺してよ! あんなのと一瞬だって同じ場所にいたくない!」
「はいはい、わかってるよ。けどねぇ〜、仕掛けがわからないのに無闇に突っ込んでもねー」
緋月を宥めながら歌蓮の仕掛けを探り、考える。
対して、歌蓮は微笑みながら、余裕のある態度で黒曜の攻撃を待っている。
(面倒くせーし、腹立つなあ。あの余裕の顔。緋月の身体だから傷つけたくないけどー、傷をつけない程度に叩いたり絞めたりするのはいいよね? …………あ。やってみるべきだよね、絶対)
「あーあ、やめやめ。考えても仕方ないことはやらない。それが僕の主義だってこと忘れてた」
黒曜は剣を構える。
「あら、そうなの? でも私、そういう考え好きよ。ふふ」
歌蓮は相変わらず無防備に立っている。
「そ。人生は自分勝手に楽しく、ねっ!」
踏み込み、歌蓮に斬りかかるが歌蓮に接触する直前で剣を捨てた。
「黒曜!?」
緋月が声を上げた。
剣を捨て、無防備な状態でにっこり笑って黒曜は歌蓮の前に立った。
「あら、私を殺すのではないの?」
「うん、殺すよ。でも僕、緋月の身体、抱いたことないんだよね。だからさ、ちょっと触りたいなーと思って。好きなんでしょ、そういうこと」
殺気もなく穏やかに黒曜が言う。
歌蓮はきょとんとした。想像もしないことを言われて面食らったのだ。
「ねえ、どう? 触りたいんだけど。駄目?」
「ふ、ふふ。あははっ! あなた面白いこと言うのね。ふ、ふふ。そんなこと言われるなんて思いもしなかったわ、ふふ」
相当歌蓮のツボに入ったのか笑いが堪えられないようだ。
「そう? 氷蓮とあんたがいちゃついてるの思い出してさ。あ、僕、緋月とやってないやって急に思い出したからさ。殺したらもう緋月の身体と出来ないじゃんって思ったらもう口に出ちゃった」
「っふふ。そう、だったのね。ふふ、いいわよ。抱かせてはあげないけど、触るぐらいならいいわよ。ほら……」
まだ軽く笑いながらも、黒曜の右手を取り、自分の胸に当てた。
「どうかしら? この子、胸はまだあんまり大きくないのよね。ちょっと物足りないかも知れないけど我慢してね」
「なっ、に勝手なこと言ってるのよ! 黒曜も何やってるのよ! 早く殺してよ! くっ、何で動けないの、よっ、黒曜!」
後で緋月が怒り喚く。
「あらあら、馬鹿娘が何か言っているけど、いい、の? んんっ……」
歌蓮が艶の交じる吐息を漏らしながら問う。
「いいよ、別に。それよりもこっち……。ああ、柔らかい……これが緋月の胸……。僕、ずっと触りたかったんだよね……。黒曜の右手は歌蓮の衣装の中に入り、直に胸を触っている。左手は歌蓮の腰にまわし、自分から離れないようにしている。
「やっ……、駄目、そんな、触りかた、され、たら……!」
「ふふ。気持ちよくて意識飛びそう? なら、頃合いかな?」
「え……、ぐっ!」
黒曜は右手を胸からさっと抜くと、その手で歌蓮の首を絞めた。
「なっ、に……」
「何って、殺すんだけど」
至って真面目な表情で答える。
「何驚いてるの? さっきから言ってるよね、殺すって」
「ぅ、ふっ……」
苦しげな表情で歌蓮は声を漏らし、両手で首を掴む黒曜の手を外そうとするがびくともしない。
「ああ、ちょっと絞めすぎた? でも、素手なら殺せるみたいだねー。あ、訊きたいこともあるからまだ死なないでよ」
黒曜は絞める力を少し緩めると、こほこほと歌蓮が咳きこんだ。
「ねえ、どう。怖い? 殺されそうになってる気分は」
愉楽に満ちた表情で問う。
「っふっ、ごほっ。……いい、わね。あの子と、同じ顔のお前に、される、なら……。けど……氷蓮じゃない、から、嫌、だわ」
「ふっ、くっ……、ははっ! 何それ! 氷蓮になら殺されてもいいんだ!? あっはは……! あんた、相当悪趣味だね! ……でもまあその気持ち、わからなくもない、かな。僕も緋月になら何されてもいいけど、殺されるのは赦せないから、僕なら殺す方かな。それで死体は一生綺麗なままにして、一生傍に置いて愛でるよ。ふふっ」
笑いながらもどこか恍惚とした表情で黒曜は語った。
「ふ、ふふ。ふふふっ……! あなたも相当、歪んでる、わね。でも当然、かしら。ごほっ……。だってあなた——ぐっ……」
「黙れ」
黒曜の右手に力が入り、一瞬にして凶悪な表情になる。
「もういいか。一応緋月の身体にも触れたし。本当は緋月だった時に触りたかったけど。しょうがないよね、こればっかりは。……じゃあね、緋月の身体と中の人。あんたが死んだ後の氷蓮が見ものだよ。っはは!」
一気に右手に力込め、首が折れる——はずだった。
歌蓮!!
と呼ぶ誰かの声が響いた瞬間、殺されるはずの歌蓮が消え、驚く間もなくまた声が響いた。
よくも、よくも私の歌蓮を——!! 赦さない、赦すものか!! 殺す、殺してやる!!
恐ろしい程の怒気と憎悪を孕んだその声に身構えた瞬間、辺りの景色が変わった。
そこには歌蓮をきつく抱きしめている氷蓮、傷を負い石畳に膝を付きながら氷蓮を睨む皓緋、そこから少し離れた場所で気絶している彩音を守る朱艶、そして歌蓮を殺し損ねた黒曜と緋月、訳がわからなくて焦っている陽織。
一同がまた大樹の元で会することになっていた——。




