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十章 迷宮・六

一体何が起こったの!?


緋月の思考が追いつかない。

自分は誰に抱きしめられ、あんな言葉を言われたというの!?


私を待っていた。

逢いたかった。

僕の緋月。


僕の緋月。

僕の――。


やはり、こんなに都合のいいことなど起きるわけがないのだ。

緋月は相手の胸を強く押し、腕の中から逃れようとした。相手も抵抗はせず、腕をゆるめ、腕の届く距離分だが、緋月を離した。


緋月は目の前にいる男を探るようにじっと見た。頭から爪先までじっくりと。

目の前にいる男は氷蓮だった。

少なくとも外見的には緋月の知る氷蓮だ。

緋月と視線のあった氷蓮はにこりと不敵に笑む。

もう自分が氷蓮ではないことを隠す気もないのだろう。

ならばこちらもそのまま問えばいい。


「あなたは誰」


「氷蓮だよ。緋月の愛する、ね」


目の前の男はそう答えた。

「そうですね。確かに姿形だけならば、氷蓮にそっくりですね」

本当に見た目だけならそっくりどころか寸分違わず同じだ。実際、氷蓮だと疑いもせず会話をしていた。

「何が不満?」

氷蓮そっくりの男が問う。

「氷蓮でないことが」

許せない。

氷蓮ではないものがこの姿形をとるなど許せるものかと。

そして、愛する男だと信じてしまっていた愚かな自分も許せない。

男は困ったようなおどけたような顔をし、参ったねというような感じで軽く腕を上げる。

男も緋月の言いたいことは理解しているようだ。

男が言葉を発しようとしたとき。


「私の姿での見苦しい真似はやめろと何百回言えば理解するのだろうな、お前は」


(え……)

緋月は反射的に声が聞こえた方へ顔を向けるが、目の前の氷蓮にそっくりな男がちょうど邪魔で見えない。

「理解はしてるよ。ただ、それをやる気がないだけだよ、僕は」

「本当に死にたいようだな、お前は」

「それは全力で拒否するよ。だってようやく大好きな緋月に逢えたんだから」

男はまた緋月を抱きしめる。

「いやっ、やめっ……!」

緋月は抵抗したものの男の肩越しに見えた人が視界に入ると動きが止まった。

大きな大きな木の根元に立つ男。

その姿は緋月が思った通りの男だった。

今、自分を抱きしめている男とまったく同じ姿の――。


「氷蓮……」


一体どうなっているのか。

何故、氷蓮が二人もいるのか。


いや、今自分を抱きしめている男は氷蓮ではない。

氷蓮ではないが、何故、ここまでそっくりな男がいるのか。

本当の氷蓮はこの男とどういう関係なのか。

単純に考えれば、氷蓮の影だろうというのは想像がつくが、それにしても主人への態度が不敬過ぎるのではないか。

それよりも何故、この氷蓮そっくりの男に『僕の緋月』など言われるのだろうか。

この男は自分の知っている誰かなのか?

それとも今まで接していた『氷蓮』はこの氷蓮だったのか?

わからないことが多すぎた。


「お前の処分は後に行う。今は時間もない。黒曜、緋月を寄越せ」

怒気も露なまま、氷蓮は命令する。

「嫌だよ。何で陛下に緋月を渡さなきゃならないのさ。緋月は僕のなんだから。ちゃんと約束したんだから。ね、緋月」

「え、ま、待って。私貴方と約束なんて……。それに貴方は一体誰なのですか? 私は貴方なんて……」

知らない。

そう言おうと思ったが言えなかった。

この男は本当に氷蓮とそっくりなのだ。声も仕草も歩き方も何もかも。

先程みたいに氷蓮を演じれば騙される。悔しいことに。だから知らないとは言えなかった。

だがもうひとつ、理由があった。

この男の表情だ。

母性本能を擽られるというのか、甘えるような、ねだるような色を含んだ、縋るような表情が緋月の心に躊躇いを生む。

それに。

「黒曜」

氷蓮の冷たい声が響く。

「あー、はいはい。わかりましたー」

氷蓮そっくりの男、黒曜は緋月を最後にぎゅっと強く抱きしめながら、小声で緋月に話しかけて来た。

「緋月、僕を信じて。僕は絶対に君を裏切らない。だから今は氷蓮の言う通りに」

「え!?」

黒曜は緋月から離れ、手を引いて氷蓮の元へ連れていく。

大木の根元にいる氷蓮の元へ着くと、そこには祭壇があり、祭壇には緋月の身体が横たわっていた。


「私の身体……!」

緋月が反射的に飛び出そうとしたとき。

「黒曜」

その一言で黒曜が緋月の腕を掴み引き留める。

「離して!」

緋月が掴む腕をはがそうともがく。

「離して! あれは私の身体よ! 私の身体なの!」

駄々をこねる子供の様に、緋月はただ真っ直ぐに身体の元へ向かおうとする。

「黙れ!」

よく通る冷たい声の一喝に、緋月が身を竦めた。

「見苦しい。確かにこれはお前の身体だった」

氷蓮が祭壇を軽く指で叩く。

「だがこれは私が商人から買い取った。故に、今は私のものだ」

「そ、んな……」

いくらか頭の冷えた緋月が、愕然とした声を出す。

「驚くこともあるまい。この身体は商品だったのだ。それを私が買い取った。ただそれだけのこと」

確かに。

氷蓮の言っていることは間違っていない。

商人も緋月の身体は商品にすると言った。

緋月もそれは同意しているが、今目の前に自分の身体があれば駆け寄り、取り返したくなってしまう。

見知らぬ誰かに売られていればよかったのに。そうすれば、未練なんて起きなかったのに。それなのに買い手はよりにもよって最愛の氷蓮。

自分の身体に氷蓮の求める力は既にないが、何に使われるのかと思うと気が気ではない。

もう、自分の物ではない。だからこう答えるしか出来ない。

「ええ、その通りです……」

何ら反論することも出来ずその場で立ち竦む。

「お前などこの神聖な場に招きもしていないし、いることすら許されないのたが、小賢しいことをする者がいたようだな」

黒曜へ、不愉快だと視線でも強く露にする。

「それは狡いでしょ、陛下。緋月だってこの結末を見届ける権利はある。幼い頃から恋慕った男が何をしたかったのか、するのかぐらいね。緋月だって知りたいでしょ、ねえ?」

黒曜はちらりと視線を緋月へ流す。

「ええ。知りたいわ。氷蓮、貴方は何をしたいの。私の身体をどうするの」

目の前の氷蓮に、もう一歩も退かないという姿勢を見せる。

氷蓮は腸が煮えくり返って仕方がなかった。

眼前の二人は皇帝である自分に逆らうことをなんとも思っていない。この静欒での理である自分に対して自分勝手な主張を押し通そうとする。許される事ではない。

今までは手駒としての役割があったから生かしておいたが、目的を果たした今は、生かしておく理由もない。

「始末するか」

ぼそりと呟き、右手に術の力を集束し始めようとしたそのとき。

「意地悪をしては駄目よ、氷蓮」

氷蓮の身体がとても驚いたのか、大きく揺れ、物凄い勢いと早さで祭壇に身体を向けた。そして、祭壇に横たわる緋月の身体を抱き起こし、そのまま強く抱きしめる。

絶対に逃がさないというように、強く、強く。

「あ……ん……。苦しいわ、氷蓮。もう少し力を緩めて」

女が、緋月の声が乞う。

「嫌だ」

「困った子。緩めてくれないと可愛い貴方を抱きしめられないじゃない」

その言葉で氷蓮の身体が少し動くと、氷蓮の背に女の細い両腕が回され、両腕はゆっくりと氷蓮の背を撫で始めた。存在を確めるように。

「ふふ……。温かい。本当に還って来たのね。……ねぇ、ずっとこうしているのも悪くないけど、やることがあるでしょう、私の可愛い氷蓮」

女は撫でる手を止め、右手でぽんぽんと、愚図る子供をあやすように愛おしさをこめて叩く。

「……………………」

だが、氷蓮は女を離そうとはせず、女の肩に顔を埋めたままだ。

「困った子ね。でも、今は言うことを聞きなさい。そうしたら後でたっぷりとご褒美をあげるわ」

氷蓮の身体が僅かに動く。

「ほら、氷蓮」

もうおしまい、という合図のように、ぽんぽんと叩くのを女は止めた。

そこでようやく氷蓮は女から身体を離し、ゆっくりと、呆然としている二人に向かって言った。


「私の願いなどただ一つ。歌蓮かれんをこの腕に取り戻すことだけだ」


氷蓮は祭壇の上に起き上がった女、緋月の身体を引き寄せ、軽く口付け、離れる。

「もう離さない、私の歌蓮」

その言葉を歌蓮は聞くと、この上もなく満足そうに微笑んだ。

歌蓮は両腕を氷蓮の首に回し、氷蓮の顔を引き寄せ、そのまま口付けた。

二人に見せつけるかのように。

軽い喘ぎと淫らな音がその場に響く。

「っ……!!」

緋月はそんな二人を直視出来ず、俯き、いやらしい音が聞こえないように両手で両耳を塞ぎ、崩れ落ちるようにそのままへたり込んだ。

「緋月」

身体を丸め、全てを拒絶する緋月を黒曜は跪き、正面から覆い被さるように抱きしめた。

「大丈夫、僕がいる。絶対に緋月を守るから」

緋月は返事もせず、ただただ、この目の前の出来事が、嫌な時間が早く過ぎ去ることを祈る事しか出来なかった。

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