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十章 迷宮・五

氷蓮に追いついた緋月は、ただ黙って氷蓮を追った。

色々問いたいことはあったが、氷蓮の威圧的な気にのまれ声をかけることが出来なかった。

氷蓮のいた場所が頂上かと思ったが、まだ少し大樹の根元は先のようだった。

ここが静欒さいらんだとは信じられないほど、明るく柔らかな光の中、背の低い生垣で整えられた石畳の道を進む。

(こんな場所があったなんて……。一体、何をする場所なのかしら)

緋月は誰にもこの場所、存在を教えてもらったことはなかった。

今まで読んだ書物にも、この場所の存在を匂わすような内容のものはなかったはずだ。

ならば、ここは皇帝以外には知らせてはいけない場所なのだろう。

緋月は周りに向けていた視線を、前を歩く氷蓮へ戻した。


氷蓮。


目の前を歩く背中は、緋月がいつも追いかけていた背中だった。

背が高く、闇よりもなお濃い色の黒髪を背中へ流し、やや痩せぎみではあったが均整のとれた後姿。

緋月はいつもその背中に、私を見て、私を見てよ、氷蓮! と心の中で叫んでいた。

今も叫んでしまう。

私を見て、振り返ってよ、氷蓮! と。

その叫びが届いたのか、偶然なのか。

氷蓮の歩みが止まった。

緋月も距離を取って止まる。


「おかえり、緋月」


氷蓮が優しく微笑んだ。

その微笑みに緋月は驚愕した。

自分に初めて向けられた優しく、慈しむような微笑み。

どういうこと!?

緋月の薄くなっていた警戒心が戻り、氷蓮の一挙一動にも気を張る。

確かに、自分を受け入れて欲しいと願った。

潤うことのない、乾いた心は氷蓮の愛を欲しいといつも渇望している。

だが、いざ何の理由もなくそうされると、歓喜よりも猜疑の心が強く出る。

「どうした、緋月。私に逢いに来たのだろう? 違うと言うのなら元来た道を戻り、この場を去れ。そしてもう二度と私の前に姿を現すな」

「!!」

優しい微笑みは一転し、冷たい表情と言葉で緋月を突き離す。

ああ、そうよ。これが私の知る氷蓮よ。

緋月は高揚した心を、落ち着けながら問う。

「……何故、私が緋月だと思うのですか」

今の緋月の姿は静欒の者は知らないはずだ。それなのに氷蓮は緋月だと断定する。それは自分のことを大事だと、愛しいと思っているからわかるのではないか。氷蓮は酷い言葉を自分にぶつけたが、本当は自分のことを大事で愛しいと思ってくれていたのではないか? だから姿の違う自分のことがわかったのではないか? そしてこう言ってくれるはずではないのか?


私の愛する緋月。愛しい花嫁よ――、と。


だが、その願いは一瞬で砕かれた。


「愚か者。静欒の皇帝たる私がその程度のこと、見破れぬと? ああ、その愚かしさ、やはり皓緋の血が混じっているということか」

侮蔑の言葉と表情が緋月の心を砕いた。

緋月は表情を強張らせたが、両手をぐっと握り込みながら氷蓮から顔を逸らさず言い返す。

「そうでしたね、氷蓮。貴方はこの静欒の偉大なる皇帝でしたね。私、自分の愚かさを恥じるばかりですが、男性を弄ぶ様な母を持つ私です。その血を引く私が愚かなのは致し方ないと思いませんか」

緋月は、嘲りを含んだ表情で薄く微笑む。

氷蓮は固まっていた。

まったく予想もしたことがない緋月の態度と表情を初めて目の当たりにして、どう反応すればいいのかわからなかった。

しばらくの沈黙の後。

「ふ、ふふふ。はははっ」

腹の底から可笑しいという笑いが辺りに響く。

今度は緋月が固まった。

今まで、ただの一度もこのように周りも気にせず、感情のままに大声で笑う氷蓮など見たことがなかったからだ。

「ふふっ。あの陰気でいつも私の機嫌を窺いながら生きてきたお前がこのような戯れ言を言うようになるとは。ふっ、ふふ。ああ可笑しくて可笑しくて……」

余程氷蓮のツボをついたのか、落ち着こうとしているがまだ笑いがこみ上げてくるようだ。

「そうですか。私も驚きました。いつも冷静で気品高い氷蓮が下々の者のようにはしたなく笑うとは。呆れましたわ」

「そうか。別にお前ごときに呆れられようと一向に構わない。何の力もない思い上がった小娘など、どうでもよい」

緋月の心のどこががまた壊れ、崩れた。


どうでもよい。


氷蓮からそう思われているのは感じていた。

でも気づかないふりをした。自分が氷蓮にとってとるに足らない存在だということはあってはならない。

静欒の王族、氷蓮の血族なのだから。


だけど。


あの夜、氷蓮の口から出た言葉。

そしてここで告げられた言葉。

自分がいらない、どうでもよい、憎んでいる等々の言葉を聞くたびに心が壊れていく。

父様も母様も私を愛しているから、欲しいから、私を産んだのでしょう!

以前の緋月ならそう思って生きていられた。実際、そう思いながら生きてきた。

だが今は。


憎悪している。

父を、母を、自分を愛さない全てを――。


道具としてしか必要ない。


誰も緋月を一個人、緋月という人格を必要とはしていない。

極論、緋月の肉体さえあればいいのだ。


「…………」

緋月は何も言えなかった。

何を言っても愛しい相手の心には届かないし、響かない。

ただ、自分の心が壊れるだけ。

「ふ。もう言うことはないか、緋月」

もう氷蓮を見続けることが辛くなり、ゆるりと顔を俯けた瞬間。

緋月は声をあげる間もなく誰かの腕に引っ張られ、そのままきつく抱きしめられた。

「ははっ。緋月、傷付いた? 傷付いたよね! そんな風に顔を背けるときはいつも傷付いたときだもんね!」

あははははっ、と高笑いをしながら誰かが言う。

「ああ、ああ。嬉しい、嬉しいよ緋月! ようやく君に逢えた。ずっと、ずーっと君が帰ってくるのを待ってたんだよ。緋月、緋月……。僕の緋月。もう絶対に離さない、離れないからね」

誰かの腕は緋月をより強く抱きしめてきた。

その腕は、今、自分の心傷つけ、壊した男。


氷蓮だった――。

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