十章 迷宮・二
軽やかに歩く黒猫の後をただ黙々とついていく。
灯りのない暗い通路の石段を延々と下り続けていると、また知らない世界へ向かっているのではないかという考えが緋月の頭をよぎる。
なにせ案内人はかつての愛猫と似てはいても、実際は得体の知れない黒猫だ。信用できるものなど何一つないし、そもそもただの猫を信用すること自体が間違っているのだ。頭ではわかっていても、あの愛らしい仕種と温もりに触れてしまったからなのか、どうしても目の前を歩く黒猫を放っては行けなかった。とは言え、不安がないわけではない。どこまでも続く石段を下る中で、ついて行ったのは間違いだったのかと緋月が後悔し始めたとき。
正面から涼やかな音と空気が微かに流れてきた。
(この音は……)
先に進むにしたがって音の正体に確信を得た。
音がはっきりするにつれ、周りの闇も徐々に薄れていった。
(水の音だわ。こんな所に水が何故……?)
最後の一段を下りると、そこは開けた空間だった。
どこから灯りを取っているのかわからないが、この空間全体に淡い光が降り注いでいる。
その空間の中心と思われる所に、加工された石を組んで作られた大きな祭壇のようなものがあった。形は、ピラミッドの上部だけが無いような形だ。その頂上の中央には大きな木があり、その回りからさらさらと水が流れ落ちていた。
静かに聳える大樹の荘厳さと、心地よい水音に緋月は圧倒された。
祭壇の地下にまた祭壇があったとは知らなかった。
大樹の荘厳さにしばし心を奪われていると、黒猫がついてこい言わんばかりに一声鳴いた。
奪われていた意識が引き戻される。
「そうね、行きましょうか」
緋月はまた、進む黒猫の後を追った。
見たことのない石を規則正しく積み上げてできている迷路のようなこの場所を、黒猫は迷うことなく歩いていく。石畳の道には水路と常緑樹が規則正しく配されている。
五分ほど歩いただろうか。いつの間にか開けた場所に出た。
あの大樹のある祭壇のふもとだった。見上げた祭壇は想像通り高く、百段以上はありそうな石段の頂上から水がさらさらと流れ落ち、その中心に大樹が奉られるように聳えていた。
緋月がその高さに呆然としている横を、黒猫が軽やかに登って行く。
「まさかこれを登るの……?」
「にゃ」
黒猫は軽く後を振り返り、そうだとでも言うように短く鳴き、緋月を見下ろしていた。
今まで歩き通しの上、最後にこれでは流石にぼやきたくなる。
とはいえこの身体ならなんということもなく、登れるだろうという確信があった。
悔しいがこの身体に移ってから不便は何一つなかった。それどころか深い暗闇でも、見誤ることのない目。疲れをまったく感じず、違和感なく軽やかに動く使い勝手の良い身体だ。
ただ、それ故に感じる思いもある。
不確かな自分の存在――。
他人に生殺与奪を握られた惨めな命。
何一つ自分の思い通りにならない己の存在。
その様な中でもたった一つだけ、自由に出来るものがある。
それは心、思い。
それだけは奪われていない唯一のもの。
そしてその心が想うものは――。
氷蓮に逢いたい。
傍にいたい。
他の誰をも見ずに私だけを見て、想い、愛して欲しい。
ただ私だけを――。
だけどここに来た理由は、氷蓮の命を己の手で奪うためだ。
皓緋や他の誰でもなく、自らの手で。
自分の意思など関係なく、他者に奪われるこの命。それならば、自分を軽んじた氷蓮を、皓緋を、せめてもの反抗として自分自身で散らせようとここまで来たのに。
それなのに。
心から溢れる想いは憎しみや恨めしさよりも、恋慕う狂おしいほどの愛しさ。
何故、何故――?
そんな想いはこの世界を離れた日に、一緒に捨てたはずなのに。
この世界にまた無理矢理引き戻されても、心の奥深くに沈めたその想いは、浮かび上がることはなかったはずなのに。
何故――。
抑えきれない切ない思いでぐちゃぐちゃになると、のろのろと登っていた足も、心と呼応する様に止まった。
心を落ち着けようと俯いてしまった顔を上げ、聳える大樹を見上げると、大樹の背後から人が出てきた。
その人影を見た瞬間、身体は緊張で固くなり、緋月の顔から一切の表情が消え、ひとつだけ、言葉が零れた。
「氷蓮……」
緋月の場所からでは、大樹の側にいる人の顔など判別出来ないぐらいの距離がある。
顔どころが、人がいるかいないかの判別が出来るか出来ないかの距離なのだ。
緋月が今その判別が出来るのは双子の与えた身体だからだ。
だが驚くことに、氷蓮も緋月のことがわかるのか、緋月を手招いている。
その瞬間。
緋月の心はあまりの嬉しさに張り裂けた。
氷蓮が、私の愛しい人が、この私を呼んでいる。
そう思うだけで緋月の身も心も歓喜で震え、理性も何もかもが吹き飛び、ただ愛しい男の元へと走り出した。




