九章 すれ違う想い・四
誰かが呼んでいる。
何度も何度も自分のことを呼んでいる。
(祥護……?)
男の人の声だったからそう思ったけど違う。
祥護の声は低くないし、甘くない。
(あれ、じゃあ……)
そう思って眠くて重い瞼を頑張って開けるとそこには必死に私の名前を呼ぶ皓緋がいた。
(皓緋だったのか……)
私はぼんやりした頭で思った。
その後皓緋が自分が誰だかわかるかと訊いてきたので「皓緋でしょ」と答えると心底嬉しそうな感じの笑顔を見たのを最後に記憶がない。
そして今、目を開けるとそこは見知らぬ部屋のベッドの上で、左隣には皓緋が気持ちよさそうに眠っていた――。
(え、え!? ええっ!?)
彩音はこの世界に来た時と同じぐらいに、物凄く動揺していた。
それも当然だろう。
自分にのしかかるような重みに苦しさを感じたので、退けようと寝ぼけまなこで見たものは、隣で気持ちよさそうに眠っている皓緋の寝顔。
さらによく見れば、彩音は皓緋に抱き込まれていた。
重苦しかったものの正体は、皓緋の左腕。
添い寝をされているような状態だった。
「な、何で!?」
彩音は何故今、自分は皓緋と一緒のベッドにいるのかがわからず頭がパニック状態だ。
「と、と、とにかく、ベッドから出ないと……」
とんでもないこの現実から逃避するべく、彩音は自分を拘束している腕を退かそうと持ち上げた時、視界に眠る皓緋の顔が入り、ドキリとした。
寝顔がとても綺麗だったからだ。
つい手を止めてしまうほど見惚れている。
(あ……、睫毛も紅いんだ)
深みのある紅い睫毛が切れ長の目を美しく縁取り、起きているときは鋭く強い目が、今は優しく感じる。
口も少し開いているが、固く結ばれているときよりも 何だか艶かしく感じる。
さらりとした金茶色の髪の毛が額や枕に流れ、それが白い枕やシーツに映え、宝石のように輝いて見えた。
彩音はその輝きに触れてみたくなり、そっと皓緋の耳元辺りに手を伸ばしたが、のしかかる皓緋の腕の重みではっと我にかえる。
(違う! 何しようとしてたの、私! そんなことより腕を退かさないと!)
伸ばした腕をそっと戻そうとしたとき。
眠っているはずの皓緋に腕を掴まれた。
「ひゃっ!」
彩音は心臓が飛び出るのではと思うぐらい鼓動が跳ねた。
「何だ、触らないのか? ほら」
皓緋は意地悪そうな笑みを浮かべると、掴んだ彩音の右手を自分の左頬に触らせる。
「え、ちょっ、やだっ!?」
彩音は何が何だかわからないまま、右手は皓緋の頬に触れていた。
「あ……」
頬――、肌は意外にも滑らかで、触れた指先からほんのりと温かい熱が伝わる。
そして右手にかかった髪の毛も、思った通りさらさらで気持ちいい。
(祥護も肌はすべすべだったけど、髪の毛はもう少し固かったな……)
そんな思いがふっとよぎった次の瞬間、彩音の頬を涙が伝った。
「彩音……」
皓緋が驚いて目を見開いた。
「え? あれ……」
彩音は自分自身でも突然の涙に驚いた。
「あ、ご、ごめん。私も驚いた」
彩音は慌てて涙を拭こうと皓緋に掴まれている腕を引き戻そうとしたが、逆に皓緋にそのまま引っ張られ、皓緋に抱き込まれた。
「きゃっ!」
「彩音、泣きたいなら我慢するな」
「は、離して! 大丈夫だから!」
そう。私は大丈夫だ。祥護を取り戻すまでは泣かないと決めたのだから。
泣かない、と……。
だがそんな決意とは真逆に、声は言葉にならず、涙も止まるどころかさらに零れた。
「……っ!」
(駄目だ!)
涙は止まらない。
祥護に逢うまで泣かないと決めても、こんな風に不意に思い出すと、やはり心が淋しくて、逢いたくて、どうしても感情をコントロール出来なくなる。
「わ、私、自分の部屋に戻るから!」
これ以上、みっともない姿を晒す前に、と。
彩音はぐいっと力いっぱい皓緋を押し退け起き上がり、急いでベッドから出ようとしたとき。
「きゃっ!」
彩音はいきなり後に引っ張られ、驚いて声をあげた。
「離してっ!」
こんな状態の彩音を皓緋が逃がすはずもない。
彩音は自分を後から拘束する腕を剥がそうともがくがびくともしない。
あまりの強固さに彩音の指の方が痛みだし、どう抵抗しようが皓緋が離してくれないだろうこともわかってはいたので、これ以上の抵抗をやめた。
彩音は俯いたまま、皓緋に見せるように、皓緋の腕を掴んでいた手を自分の膝の上に置いてぼつりと言った。
「……痛い」
「そうか」
皓緋は腕の拘束は解かず、それどころかさらに自分の方へ引き寄せる。
まるで身体の中にしまい込むかの様に。
彩音はさらに密着したせいで皓緋の体温がより背中から伝わってきた。
その温もりが余計に祥護を思い出させ、辛うじて残った理性も壊れた。
「皓緋の、せい、で……涙が出たの。淋しくて……泣いた、とかじゃ、ない、んだから、ね……」
嗚咽で途切れながらも彩音は言う。
泣いたのは皓緋のせいだ、自分は何ともないと。元気だと。
無論こんなことは言いがかり。ただの責任転嫁だ。
彩音もそのことは理解している。
でも、祥護を取り返すと決めたものの、そのための行動を自分自身はまだ何も起こせていない。
皓緋に体術を教えてもらう約束はしたがまだ待たされてる。待たされてはいてもその間に何か他のことが出来たのではないか。
今の彩音はそんな焦りや自分自身に対する苛立ちが混ざりあい、どうしようもない程、ぐちゃぐちゃな気持ちだった。
引き換え、自分とは違い、何でも出来る皓緋のことが羨ましく妬ましかった。
だからこそ、彩音は皓緋の前ではどうしても認めたくなかった。
無力で我儘な子供の自分を。
当然、皓緋も彩音の八つ当たりだということはわかっているが、何も言わずただ受け止めた。
「……そうか」
「そう、よ。皓緋が、腕、はな、して、くれないっ、から……! だから、指っ、が、痛く、て……っ……痛っ……」
もう言葉は出せなかったが、出せない言葉の代わりに、溢れる涙が彩音の心を語っていた。
「彩音……」
皓緋は無力な自分が腹立たしかった。
俯き、身体を縮こまらせ、声を殺しながら泣く彩音の姿がとても痛々しくて、見ているだけで自分の心も乱された。
(なんだ、これは。こんな感情、俺は知らない……!)
そう、初めてだった。
こんな対処に困る様な気持ちを感じたのは――。
今までは誰が泣いていようと何も感じなかった。
それが身内であろうが民であろうが、皓緋には何の感慨も湧かなかった。
だが、何故か彩音だけは違う。
彩音の見せる表情や感情、言葉は皓緋の心に響くのだ。
どうすれば彩音は泣き止むのか。
もっと強く抱きしめればいいのか? それとも腕を緩め、優しく包み込む様に抱けばいいのか。
他にも慰める言葉をかけ、心を慰撫すればいいのか――。
わからない。
どれも正しくて、どれも違うのかも知れない。
間違った行動をして、さらに彩音を泣かせ、傷つけてしまうのではないのだろうか。
そんなことは絶対にしたくない。
そう考えると、皓緋は何も出来ず、ただ彩音を抱きしめることしか出来なかった。
どのぐらいの時間が流れたのか。
彩音はようやく泣き止んだが、しばらくは無言のまま、皓緋の腕の中で静かにしていた。
皓緋も言葉はかけなかったが、抱きしめていた腕を解いた。
壊れ物を扱うかの様に、そっと右手で頭に触れた。
彩音は触れられてぴくりと身体が反応したが、拒むことはなかった。
皓緋はほっとし、また優しく触れ、ゆっくりと頭を撫でた。
その時、まだ少し赤みが残る彩音の手が視界に入り、皓緋は無意識に空いている左手を彩音の左手に重ねた。
その痛みを癒してやりたいと、そう思って――。
だが皓緋はっとした。
「すまない」
短く言って、左手を離そうとした。
過剰に触れすぎても彩音が嫌がるだろうと思ったからだ。
今までの皓緋からは考えられない行動だ。
だがさらに予想しないことが起こり、皓緋の鼓動が大きく跳ねた。
彩音が戻そうとする皓緋の指先をきゅっと握ってきたからだ。
たかがそんなことでこんな反応をする自分に驚き、動揺しつつも、密着している彩音にこの鼓動を気づかれたのではと思うと、羞恥でみっともない気持ちになる。
「彩音?」
そんな気持ちを隠すように皓緋は彩音に声をかけ、離そうとした左手をまた彩音の手の上に重ねた。
彩音は握った指先を離すとぽつりと言った。
「…………ありがとう」
「っ……!」
皓緋は彩音の頭を撫でていた右手をいきなり自分の顔にあてた。
どうしようもない程、嬉しくなり、顔が緩んだからだ。
たった一言。
それだけなのに、彩音がくれたその言葉で全身の細胞まで嬉しさで緩んでしまったような感じだ。
「ああ」
声が嬉しさで上擦ってしまったかも知れない。
今は何をしても自分らしくなくなる。
これ以上の醜態を晒す前にこの部屋を出よう。
多分、彩音にもその方がいいはずだ。
皓緋は彩音から身体を離し、ベッドから降りた。
「彩音、俺はやることがあるからもう行くが、お前はまだしばらくここで休んでいけ。部屋にあるものは好きに使って構わない」
皓緋はソファーに放ってあったシャツを着ながら彩音に言う。
彩音は振り向かず、ただこくりと頷いた。
返事を確認すると皓緋は足早に部屋を出て行った。
彩音はドアが閉まる音を聞いた後、ゆっくりと後を向いた。
そして皓緋がいないことを確認すると両手で顔を覆った。
(はっ、恥ずかしい……! 何やってるのよ私!!)
彩音はつい先程までの有様を思い出すと、あまりの羞恥心から顔を隠し、足もばたつかせた。
(何でこんなことに……)
祥護が傍にいなくて淋しくて、辛くて……。
両親もいない、友達もいない。ここには私の知っている人は誰もいない。
頼ることも出来ない、相談することも出来ない。
だから不安で、心が弱くなっているのはわかっている。
そんな時、自分を心配してくれる誰かがいたら、悔しいけれどつい甘えたくなってしまうのは仕方ない。
(でもだからってあれは……)
家族に対する慰めというよりは、まるで――。
先程のことを思い出す度に、彩音の体温が上がり、落ち着いていられなくなる。
「次、どんな顔して会えばいいのよ……。うぅ」
彩音はもうどうすればいいのかわからなくなったが、とりあえず涙に濡れた顔を洗おうと思い、ベッドから降り、水とタオルを見つけようと部屋の中を探し始めた。




