一章 日常崩壊・二
思わず立ち止まるほどの、夜空と月。
「え?」
祥護の言葉で後ろを向き、空を見上げると、そこには怪しく輝く円く大きな月があった。彩音は月を見た瞬間、足が竦んだ。
誰かに両足をがっしりと掴まれたように、動けなくなった。
緋かった。風が雲をさらった夜空には緋い月があった。
血に塗れたように濡れた月。
物心つく前から、私は満月が嫌いだったらしい。
決まって夜泣きのひどい日は満月だったとお母さんがよく言っていた。
大きくなってからも、どうしても満月の晩は外に出るのが怖かった。
満月の日でも、月さえ見えなければ何も怖くはなかった。
とにかく満月が怖くてたまらない。
理由なんてわからない。ただもう、本能的に満月が怖いのだ。
夜遅くなって帰宅するときも、満月の日だけは不安で不安で怖かった。
そんなときは絶対に美貴と一緒に帰るか、祥護を呼び出して迎えに来てもらったりしていた。
だけど今。その嫌いな満月が眼前にあり、その光を浴びている。緋く濡れた月に見入られたように、彩音は目を逸らすことが出来ない。
「つっ……!」
突然、耳鳴りがした。頭の奥からわきあがるキーンとした音。彩音が頭を抱える。
「おいっ、彩音!? どうかしたのか!?」
祥護が彩音の肩に手をかけようとした瞬間。
「いてっ!?」
バチン! と何か、そう、電気に触れたように一瞬手に痛みが走り、その勢いで軽く後ろへとよろけた。
「いって~。一体何なんだよ!?」
右手をさすりながらもう一度、頭を抱えアスファルトにしゃがみこんでいる姉の側へと寄り肩に手をかけようとしたが、今度も姉に触れる前にバチン! という衝撃とともに弾かれ、よろめく。
「ってぇ……。いったい何なんだ!? おい、彩音、大丈夫か!?」
祥護はまた彩音の肩に手をかけようとしたが、今度はほんの少し手を出した時点で弾かれた。
「なんだよこれ……。おい、彩音! 聴こえるならこっち向けよ、彩音!」
見えない壁のようなものが、いつの間にか姉弟の間に現れていた。
彩音と祥護の間は、ほんの一歩分だけだが距離が出来てしまった。
祥護はいいようのない恐怖と不安がこみ上げてきた。
一体何が起きてるんだ? この訳のわからない現象は? いろいろな疑問がわきあがるが、それをぐっと呑み込み、あきらめず彩音へ腕を伸ばす。
彩音を助け、護ることが出来るのは今ここにいる自分だけなのだから。
「くそっ! 彩音! 聴こえないのか!? 彩音!!」
祥護は目の前でしゃがむ姉に叫ぶ。
何とかその壁を壊し破ろうと手で叩いたり、体当たりしたりと何度も何度も試みる。
が、壁はびくともせず、代わりにその腕にはいくつもの傷がつくだけだった。
ほんの少し、あと一歩。
目の前の見えない壁さえなかったら。
もどかしい。もどかしくてもどかしくて、どうにも出来ない自分が腹立たしい。
一方、彩音は頭をかかえてしゃがみこんだままだ。
「痛……い! 何なの……!?」
まだ耳鳴りはやまない。それどころかますますひどくなる一方だ。
(なんでこんな目に……!?)
痛む頭を抱えつつ何とか立とうとした、その時。
頭の中で映像が見えた。
「え……?」
見えたのは、暗い闇の中に沈む見たことのない都市。
「何……?」
考える暇もなく、また別の映像があらわれる。今度は少女だ。
黒い子猫を抱き、哀しそうな表情で涙を流している。
「何なの、これ!?」
何故こんな映像が突如表れたのか考えようとしたが、今までのものとは比べものにならない程の耳鳴りとめまいが襲った。
「痛っ……!!」
何とか立ち上がりかけていたのに、あまりの痛さにまた膝がくずおれ、左手をアスファルトについた。
だがその左手は、固いはずのアスファルトにずぶりとのみ込まれた。
「え、何っ!? やだっ……!!」
急いで左手を引っ込め逃げようとした。
怖い、怖い……! 早く祥護の側に行きたい。
心は恐怖と焦りで乱れ、身体は頭痛やめまいなどパニックを起こしいうことをきかない。
そして立ち上がることも、這うことも出来ないまま、身体がずぶずぶとアスファルトに沈んでいく。まるで底なし沼に落ちていくように。
「彩音!?」
祥護は驚愕に目を見開いた。
姉が、沈んでいる。
沈むはずのない固いアスファルトの中に。
何故、アスファルトが人を呑むのかとか理由はどうでもよかった。
姉を助けなければ。目の前でもがきながら沈み、這い出ようとする姉を。
祥護は先程以上に見えない壁を殴ったり体当たりをしたりして、姉の元へ行こうとするが、壁は一向に壊れず越えられない。
目の前ではもう胸の辺りまで沈んでいる彩音がいるのに。ただ、ただ、その様を見ていることしか出来ない。
「くそっ……!!」
みえない壁に渾身の力で両の拳を叩き付け、叫ぶ。
「彩音ー!!」
口元までアスファルトに沈んだ彩音も苦しげに叫んだ。
「祥護……!」
その言葉を最後に、彩音は沈んだ。
彩音が最後に見たものは、腕を傷だらけにし、必死に自分の名を呼ぶ弟の姿。
そして、血に塗れたような緋い月だった。