八章 黒曜・三
氷蓮はゆっくりと立ち上がると、二人の側に来た。
黒曜はさっと朔夜から離れ、二人と距離を取る。
視線は黒曜に向けたまま、氷蓮は跪いたままの朔夜に声をかける。
「動けるか、朔夜」
「……も、う……」
朔夜は声も出せないのか、掠れた声でその言葉を出すだけで精一杯の様だ。
全身からは汗が流れ、おまけに小刻みに震えている。
今、この状態でいることも相当辛く限界なのだろう。
それでも倒れないのは、氷蓮の前でこれ以上の醜態は晒すまい、黒曜になど屈しまいとする朔夜の強固な意志だ。
氷蓮は胸元から人形をした紙を二枚取り出した。
その人形それぞれに軽く息を吹きかけると、それに向かって言葉を発する。
「我の従順な僕、我が呼びかけに応えよ。疾く出でよ、一位、二葉」
すると、氷蓮の持っていた人形がふわりとひとりでに宙に浮かび上がり、ぱっと発光した。
次の瞬間には二枚の人形は何処にもなく、代わりに二人の男女が氷蓮の前に跪いていた。
「「何用ですか、我が主」」
二人の男女がそう言うと、顔を上げ、氷蓮を見上げる。
二人の顔はまったく同じだった。
性別の違いで多少滲み出る雰囲気は違うが、それを除けば全く同じ風貌だ。
「ちっ!」
黒曜は忌々しげに二人の姿を見ると、この場をすぐに離れたが氷蓮は許さなかった。
「一位、黒曜を捕らえ、私の前に連れて来い。抵抗すれば痛め付けて構わない」
「はい。痛め付けるとはどの程度まででしょうか」
「死ななければよい」
「承知しました」
黒曜が部屋を出てから数分経っている。
この広い王宮、しかも夜に人一人を探すのはとても困難で危険だ。
それなのに何の逡巡もなく一位は黒曜を探しに音もなく部屋を後にした。
残された二葉はまだ跪いたまま、主からの命令を待っていた。
「二葉、朔夜の身体から毒を抜け。浄めは私がやる」
「承知しました」
二葉は立ち上がり、朔夜の側に来るとまた跪く。
朔夜は黒曜がいなくなったことで気が緩んだのか、ばったりとその場に前のめりに倒れた。
呼吸はますます荒く、身体の震えも一段と酷くなっている。
二葉は朔夜を仰向けにすると、朔夜の頭の右側に移動し、ぺたりと座る。
朔夜の顔は土気色になっており、誰が見ても命が危うい状態なのが窺える
二葉はそんな朔夜を無表情で一瞥した後、朔夜に顔を近づけ、口づけをした。
朔夜は見知らぬ他人が自分に触れていることを感じた。
見知らぬ他人に触られるなど不愉快だ。
しかも唇になど気持ちが悪い。
(私に……触れ……るな……)
押し退ける気力だけは辛うじてあるものの、身体は執拗に見えない何かに搦め捕られ続け、底のない闇の中にずるずると引きずり込まれでいく。
それでも今残された気力と体力を全て使って指をぴくりと動かした。それが精一杯だった。
それを最後に朔夜の意識は完全に闇に沈んだ。
氷蓮は朔夜に近ずき見たとたんに眉を顰め、嫌悪に顔を歪ませ、この場の空気までもが汚らわしいかの様にさっと右袖で口元を覆い、数歩後退る。
(あいつめ……)
朔夜の身体はどす黒く粘ついたような液体、コールタールの様なものが全身に絡みつき、堕ちろ堕ちろと言わんばかりに下へ下へと引きずり込むように、うねうねと這いずり蠢いていた。
だが、実際にはその様な黒い何かは見えない。
氷蓮だから見えるだけだ。
あとは術をかけた黒曜にも見えるだろう。
術を使える素養がない者がみれば、ただ苦しげに、今にも息絶えそうな朔夜が倒れているだけだ。
二葉が朔夜から唇を離すと、主である氷蓮に向き直り姿勢を正して報告する。
「主、解毒は完了しました」
氷蓮は朔夜の側に来、状態を確認する。
朔夜の呼吸はまだ弱々しいが、徐々に落ち着きを取り戻している。
身体も震えはおさまり、今は疲れでぐったりとしているだけのようだ。
顔色も良くなってきている。
何よりも朔夜に絡み付いていたあの黒い何かがきれいさっぱり消えている。
「ああ。お前も休め」
「はい」
二葉は返事をし、頭を垂れた。
同時に氷蓮が右手を前に出し、何言かを呟くと、出した右手で何かを握り潰すような所作をする。
すると目の前に跪いていた二葉が突然黒炎に包まれて燃えた。
黒炎は勢いよく燃え盛り、二葉の存在を消し去ると黒炎も嘘の様にすっと消えた。
後には燃え滓すらも残っていない。
「これ程の憎悪とはな。あの二人なら相応か」
氷蓮はそう呟くと、朔夜をそのまま残し奥の部屋と消えた。
部屋から戻って来た氷蓮の手には緑の葉が茂った木の枝を一本と、小瓶を二本持っていた。
二本の瓶には透明な液体がなみなみと入っていた。
「…………」
氷蓮は木の枝を朔夜の顔の上に持って行き、一本瓶を開け、中に入っている液体を枝に振り撒くと、次は歌うように呪文らしきものを唱えながら、左足を一歩踏み出し、次は右足を一歩踏み出しと、踊る様に動いている。
呪文を唱え終わると朔夜の側にしゃがみ込み、朔夜の頭を少し上向かせて、もう一本の瓶の中身を飲ませた。
一連の作業、「浄め」が終わると朔夜をそのままにし、また窓辺近くにある椅子の所まで戻り、座る。
ふ、と一息ついた所で朔夜の意識が戻り、目を覚ました。
朔夜はゆっくりと起き上がると、ぼんやりとしながらも辺りを見回した。
そして氷蓮の姿が視界に入ると、はっとした表情になり急いで立ち上がり、ぐらりとふらつき倒れそうになったがすぐに立ち直り、真っ直ぐに主の元へと行く。
椅子で休息をとる主の側に直ぐに跪き謝罪する。
「申し訳ございませんでした、氷蓮様」
深々と頭を下げ、心の底から詫びる。
「…………」
氷蓮は答えない。
ただ、深く椅子に座り、目を錘っていた。
朔夜は敬愛する主の怒りの深さを知る。
そう簡単に許してはもらえないかも知れない。自業自得だ。
それでも朔夜は謝り続けるしかない。
これからも主の側に置いてもらうために。
「此度は氷蓮様の制止も聞かず戦い、奴の術中に落ち、そのせいで氷蓮様のお手も煩わせてしまいました。どんなに詫びても詫び足りません。本当に申し訳ございません」
「…………」
(当然か……。それだけのことを私はしたのだ)
朔夜は自分の愚かさを恥じた。
犯した罪を悔いても時間は戻らない。
ならば許してもらえるまで謝罪するしかない。
ぎり、と唇を噛み、謝罪の言葉を発しようとしたとき。
「気は済んだか、朔夜」
氷蓮は目を開け、朔夜に言葉をかけた。
「!!」
朔夜は主の顔をしっかりと見つめ、返事をする。
「はっ! 誠に申し訳ございませんでした。二度とこのような醜態は晒さぬと誓います」
朔夜は氷蓮が言葉をかけてくれたことが嬉しかった。
まだ完全には許してもらえていないかも知れないが、それはこれからの働きで挽回してみせる、と改めて心に誓ったとき、気づいた。
『気が済んだ』
とはどういう意味なのか。
謝罪についてか、黒曜と戦ったことについてか。それとも両方か。
それについて氷蓮に尋ねようとしたとき。
「両方だ」
朔夜の心を読んだかのように、氷蓮が答えた。
「あれと戦ってもお前は勝てない」
その言葉にぴくりと眉を歪めた。
「絶対に勝てない訳ではない。正々堂々と勝負をすれば朔夜が勝つ可能性はあるだろう。だが、あれの身体能力は朔夜より高い。隙を突かれれば負ける。第一、あれはそんな勝負はしない。勝つためならどんな卑怯な手でも使う。わかるだろう?」
「…………」
朔夜は先程の戦いを思い出す。氷蓮の言う通りだ。
そして黒曜の性格も考えれば当然の結果だ。
「お前はまんまとあれの策略にはまったのだよ。お前は黒曜に呪詛返しを受けて負けたのだ」
「呪詛返し?」
朔夜は言われたことがわからなかった。
勿論、呪詛がどういうものかは知っている。
だが、朔夜は術士ではないからそんなことが出来るはずはないのだ。
「わからぬという顔だな」
氷蓮はちらりと朔夜に視線を流す。
「はい。私には術を使える素質はありません。それにそんなことをした覚えも……」
先程の戦いを思い出してみてもそんな行動していない。
「朔夜はもっと視野を広げた方がいいな。ま、あれの行動は予測出来ない事の方が多いが」
「はっ」
朔夜は己自信でも自覚した未熟さを改めて主にも指摘され、恥ずかしさと悔しさで今すぐにでもこの場を下がりたかったが、黒曜にどうやってはめられたのかを聞くまでは下がれない。
氷蓮はくすりと笑み、続きを話し出す。
「お前は気を込めた剣で符を斬っただろう。あれが呪文の詠唱になる。つまり、お前は自分の剣に黒曜に対する呪詛を纏わせたのだ」
「えっ!?」
朔夜は驚愕した。
まさかそんなことをさせられていたとは。
「黒曜は呪詛の事を知っている。なれば、呪詛を受けず倍にして返す。黒曜は血を触媒として返しを行った。つまり、朔夜に斬られたのはわざとということだ」
「!」
「あれの身体能力を考えればあれぐらい避ける」
「…………」
朔夜は話を聞けば聞くほど、どれだけ未熟で浅慮だったのかと痛感する。
しかも敬愛する氷蓮の口から告げられること程屈辱的なことはない。
一体何が静欒一の使い手だ、大将軍だ。あんな不様に負けておいて、と。
朔夜の心の中は敗北感、屈辱感、劣等感やらといった感情が轟々と嵐の様に吹き荒れ、氷蓮の声さえ聞こえていないようだ。
「…………」
氷蓮はそんな朔夜を一瞥すると、朔夜の背後の闇に視線を向ける。
闇の中からずずっ、ずずっ、と何かが引きずられているような音が聞こえて来た。
朔夜もはっとして、すぐさま氷蓮を守り、いつでも動ける体勢をとる。
その音が近づくにつれ、声も聞こえて来る。
「……っせ!」
その声の主はーー。
「黒曜」
激しい憎悪の篭った声音でぼそりと低く、朔夜は呟いた。




