八章 黒曜・一
時は昼の世界にも、夜の世界にも等しく流れている。
皓緋達が商人達との出会いという新しい流れが出来た様に、氷蓮達にも新しい流れが始まろうとしていたーー。
深い闇に包まれた夜の世界、静欒。
この世界を統べる皇帝、氷蓮は離宮の自室にいた。
椅子に深く身体を預け、窓の外を眺めながら今後の戦略を考えていた。
(これからどうするか……など、考えるまでもないか。なすべきことは決まっている。邪魔な要素をどう排除するかだ)
皓緋達は必ずこちらを攻めに来る。
世界を一つにするのには、こちらで術を発動させなければならないからだ。その上、発動場所も決まっている。こちらはそこで罠を張って待てばいいだけーー。
後は向こうがどの程度の戦力で来るか、だ。
(まあ、どう来ようが地の利はこちらにある上、氷月の力は私の中にある)
負ける理由などない。
氷蓮はそう完結すると、卓の上に置いてある燈の光に照らされた左手を見る。
(この身体にも大分慣れたな)
左手を上げると軽く握ったり開いたりを繰り返す。
違和感もなく、反応速度も問題ない。
以前なら『手を握る』という動きですら、身体がその通りに行動するまで少しの時間差があった。
元々他人の身体だから当たり前なのだが。
(調子も良い。少し外に出て、気分転換でもするか)
氷蓮は椅子から立ち上がると、軽く伸びをした。
「さて、せっかくの若い身体だ。もっと満喫するのも悪くない」
氷蓮は上衣を脱ぎ、動きやすい格好になると朔夜に気づかれないよう窓を開け、露台から部屋をそっと抜け出した。
散歩先は皇華殿。
氷蓮の本来住むべき場所。
今は月のない夜で、辺りは暗い。灯も仄かに灯っている程度だ。そもそもこの世界で夜に出歩く者はいない。夜は魔物が出るからだ。もし、夜に出歩く者がいるとすれば、余程腕に自信がある者か自殺志願者だろう。
そういう事情もあり、衛兵は夜は定位置から基本動く事はない。
それ故、氷蓮は誰にも気づかれず自室に来る事が出来た。もっとも、衛兵如きに見つかる程、身のこなしが鈍い訳はない。自室に戻る事など容易い事だ。
久しぶりの自室に入ると、そこには氷蓮の影武者、黒曜がいた。
黒曜は椅子に座り、楽しそうに何かをしていた。
「お前、またそのような遊びを」
背後から近づき、嫌悪感の混じった口調で氷蓮が言う。
「別にいいじゃん。僕の楽しみにケチつけないでよ」
氷蓮がいたことに驚いた様子もなく、それよりも苦言をされたことに黒曜は機嫌を悪くした。
卓の上には深さはないが大きな箱があった。その中には土が敷いてあり、森や川等もあり、小さな人の人形や動物もいた。箱庭だ。
その箱庭にいる人形達はどういう仕掛けか箱庭の中を走りあちこちへと移動、いや、何かから逃げ回っていた。
その逃げ回る人形を追い詰めている物、それは氷蓮そっくりの人形だった。
人形の氷蓮は、怯え、逃げ惑う人や獣を逃げられないような場所へ追い込み、じわじわと嬲り、殺している。
「あははっ! すごいしぶとい! こいつ、両足を無くしてやったのに、まだ這いずって逃げようとしてる! どうやっても逃げられないのにね~」
確かに黒曜の言う通りその男の人形には逃げ場はなかった。
男の正面は箱庭の端、つまり塀になっている。
左右は茂みだが、人が隠れられるほど茂ってはいない。
男は鬼気迫る形相で塀をガリガリと爪を立て引っ掻く。
何とか立ち上がって逃げようとするがそれも出来ない。
何故なら、断たれた足の長さが違うからだ。
右足は膝から下、左足は足の付け根からないからだ。
男は何度も何度も立とうとするが立てない。
その度に塀にしがみつこうとして爪を立てるが、バランスが悪くて立てない。
そんなことをずっと繰り返したのだろう。
塀は引っ掻き跡と爪から流れたであろう血が酷くこびりついていた。
そんな男の様子を、鼻歌まじりに愉しそうに眺めながら、黒曜の操る氷蓮の姿をした人形がじわりじわりと男との距離を詰める。
男は黒曜が一歩一歩と近づく度に狂乱し、逃げようとさらに塀にしがみつき、がりがりと爪を立てるが、よく見るとそれは爪ではなかった。肉から露出した骨をたてていたのだ。もう爪などとっくにすり減り、剥がれ落ちていたのだ。
この男はどれ程の恐怖を味合わされ、肉が落ちる程、逃げようともがき足掻いて塀を引っ掻き続けていたのだろうかーー。
「みっともないなぁ。でも、それでこそ遊び甲斐があるってものだけど。じゃあ次は、塀を引っ掻けないように腕、うーん、指かなぁ」
と言って、箱庭の黒曜が剣を抜いた時。
「いい加減にしろ」
背後から冷たい一声が飛んで来ると同時に黒曜が声をあげた。
「痛っ!」
黒曜は何かに弾かれたように身体をしならせたが、すぐに背後に立つ氷蓮を睨み上げた。
「酷いじゃないか! いきなり切るなんて! 反動が返って来ただろ! しかもいいところで邪魔しやがって……!」
黒曜は怒気も露わに氷蓮にくってかかる。
「私の姿では止めろ。不快極まりないと、何度言えばお前は理解するのだ」
氷蓮は腕を組み、冷ややかに黒曜を見下す。
黒曜はむっとしたようで、椅子から立ち上がり、また言い返す。
「うるさいっ! 今は僕の姿でもあるんだ! それに毎日毎日つまらない政務をやってるんだ! これぐらい遊ばないとやってられないよ!」
罪悪感など微塵もないようで、逆に不満や文句を氷蓮相手に怯まずぶちまけた。
まるで子供の癇癪のようだ。
対して、いつものことなのか、氷蓮はただ冷ややかに黒曜を見上げ、静かに、だが確実に怒気を孕んだ声音で返す。
「私の影はただの人形でよい。分もわきまえない振る舞いをこれ以上行うというのなら……」
「わかった、わかったよ!」
黒曜は一瞬びくりと身を竦ませると氷蓮の言葉を遮り、降参という風に両手を上げた。流石にこれ以上氷蓮を怒らせるとまずいと察したのか、踵を返し、そのまま窓辺に行くと腕を組んで壁によりかかった。
「で? 一体何の用事? そんな姿でわざわざここまで来たんだから」
黒曜はふて腐れながらも問う。
祥護の姿なのに、わざわざ本人自ら皇華殿までやって来たのだ。
重要な用事があって来たのに違いない。
氷蓮は黒曜の座っていた向かいの椅子に座った。
「いや、特にない。しいて言えばお前の様子を見に、だ」
「はぁ!?」
黒曜は素っ頓狂な声を出した。
「そんなことのためだけに、わざわざ離宮から出て来たの!?」
「ああ。そうだ」
黒曜は唖然とした。
あの氷蓮が自分の様子を見るだけというくだらない用事、いや、用事にすらならない事で離宮から出て来るなどありえない。
他にも用事があるのに違いない。
そう思って再度問う。
「あ、じゃあ愛砂に用事があったんでしょ?」
そうだよね? と詰問するように訊く。
「いや。愛砂に用などない。元々誰にも用などない。ただの散歩だからな」
氷蓮はさらりと答える。
「はぁ!? 散歩!? 氷蓮が!?」
黒曜は先程よりさらに素っ頓狂な声が出る。
「何だ、私が散歩することがそんなにおかしいのか?」
氷蓮が黒曜の声の大きさに眉をしかめる。
「おかしいに決まってるじゃん! 僕がここに来てからずっと王宮か離宮のどっちかに引きこもったきり、絶対に出て来なかったじゃん! 出て来たとしても、朔夜が無理矢理引っ張り出した時だけでそれもほんのちょっと。五分ぐらいで」
「そうだったか?」
氷蓮は考えるように少し首を傾けた。
「そうだよっ!」
「そうか」
適当に流すように氷蓮は返事をする。
(そうか。思えば歌蓮を亡くしてから外に出ることなどなかったな……)
右側の窓辺の方へ視線を向けると、何かを思い出すような眼差しで外の闇をぼんやりと眺めた。




