六章 逢いたい人・二
氷蓮は彩音が向かいへ来ると軽く一呼吸おき、足下の呪紋の描かれた円陣に手をかざして呪文を唱え始めた。
彩音は正面に立つ氷蓮をじっと見ていた。
今にも倒れてしまうのではないかというような痩せたその姿に、下から淡く照らす灯火がさらに儚さを強調するように暗い陰をつくる。
低く、だけどよく通る凛とした声が流れ、それに呼応して呪紋が徐々に光を放ち始めた。
氷蓮が左腕を上げると同時に、場の四隅に設置してある一メートル程の幅と高さをした丸い鏡がぼんやりと光り始めた。
左腕を降ろし今度は右腕を上げると、右側の鏡だけが光り始めた。
氷蓮はそのまま言葉を紡いでいく。歌うように滑らかに。
だが、氷蓮が呪文を唱えるごとに、祭壇の下に控えている愛華の表情が変わっていく。
「違う……。この呪陣は『結界強化』のものじゃない。これは『魂戻し』の……」
本来行なわれるべき術は静欒の結界を強化するもの。
結界を強化し、何ものにも侵されることがないよう盤石にすること。
だが、今唱えられている呪文や術の構成・布陣は『結界強化』のもので間違いないはずなのに、何故起動するべき『結界強化』の術が起動せず、起動するはずのない『魂戻し』の術が発動しているのか。
愛華は祭壇に上ると、もう一度祭壇全体を見直す。呪具や石畳に書かれた呪紋等に問題はない。次は鏡を見る。鏡にも特に不審な所はない。次は、と思ったそのとき。
「!?」
氷蓮の言葉に呼応して鏡が光り、その中に文字が浮かんだ。浮かんだ文字は中央を照らし、書かれた文字と重なったその瞬間。円陣の文字が『魂戻し』の術式へと書き換えられた。他三つの鏡も同じ様に文字が浮かび、円陣の文字を書き換えていく。
「信じられない……。術の構築式を書き換えながら術を発動させるなんて……」
愛華は呆然とした。
普通ならそんなことは出来ない。
実際唱えられているのは『結界強化』の呪文だが、呪具や石畳に配置された呪陣の構築式は『魂戻し』に書き換えられている。
だが、それだけでは不完全だ。鍵となる呪文を唱えなければ術は完全に発動しない。氷蓮が唱えているのは『結界強化』の呪文だ。
それなのに『魂戻し』の術がちゃんと起動しているなど有り得ないが、今目の前でその有り得ないことが起きている。
「一体どういうこと……?」
愛華はその謎を解こうとするように、氷蓮の一挙手一投足を見逃すまいと食い入るように見続けようとしたが、視界の端に入って来た彩音を見たらそれどころではなくなった。
「彩音様!」
気づけば彩音は膝まずき、苦しそうに息をし、何とか気を失わないように耐えていたが、氷蓮が呪文を唱えるごとに彩音の苦しみの表情が強くなる。
そして書き換えられる事に、円陣の中央にいる彩音の苦しみの表情が増していく。
「彩音様!」
愛華が声を上げる。そのまま氷蓮の方へ向き直り「お止めください!陛下!」と、中止を請う。
本当ならすぐにでも呪文の詠唱を止めさせて、彩音を呪陣から出したい。
だが半端に術を妨げれば、その反動で氷蓮と彩音の身に何が起こるかわからない。
愛華はただ外から詠唱が終わるまで、焦燥しながら見守るしかない。
氷蓮は愛華の言葉など構わずに呪文を紡ぐ。彩音は苦しさのあまり、もう呼吸もうまく出来ないようだ。喉に手をあて、何とか呼吸を整えようとする。
「……!!」
詠唱が終わったとき、彩音は声にならない短い呻きを発したと同時に、糸が切れた操り人形のようにばたりとその場に倒れ込んだ。
「彩音様!」
「寄るな!」
愛華はすぐさま彩音に駆け寄り抱き起こそうとしたが、氷蓮の鋭い一声で制され、動きが止まる。
氷蓮はゆっくりと、目の前で倒れている彩音の側まで来ると膝まずき、彩音を抱き起こす。
頬に纏わり付いた髪の毛をそっと払うと、優しい声音で「氷月」と彩音を呼ぶ。だが彩音は反応しない。ぐったりとしたままその目は開かない。
もう一度、今度はその胸に抱きしめ、耳元で呼ぶ。
「氷月」
今度はその声が届いたのか、彩音の指先がぴくりと動いた。そして、ゆっくりと瞼が開く。
その目は先ほどまでとは違い、ひどく虚ろなものだった。
彩音は辺りを見て状況を確認すると、ゆっくりと自分の身体から氷蓮を遠ざける。
氷蓮はそれに逆らわらず、彩音をその腕から逃がす。
彩音は氷蓮と向かい合う形で座る。
しばらくの間、無言のままじっと氷蓮を見つめる。
数分程たっただろうか。
「氷蓮……」
ぽつりと、向かいに座る男の名を呼ぶ。
「氷月」
氷蓮は細い腕を伸ばし、彩音の頬に触れようとしたが、彩音は避け、その場に立った。
「何故私を呼び起こしたの? あのとき、私はこの世界にはいない者、こちらには戻れないと言ったよね……?」
「彩音……様……?」
愛華が驚きの表情とともに目の前の少女、彩音――、氷月を見る。
氷月は感情の消えた瞳を氷蓮に向けた。
「これ以上私に何をさせたいの……? 私はもういない、生き還ることなんて出来ないのよ……!」
氷月は声を荒げた。氷蓮も立ち上がり、今度は氷蓮が氷月を見下ろした。
「氷月、前にも言ったがお前は生きている。今、ここにいる」
「生きてない! この身体は私のものじゃない! 彩音のものよ!」
「そうだ。お前の身体ではない。では何故、その身体に降りてこられる? その魂に王族の力があれば可能だろう。だが、お前の魂には力がない。本来、魂と王族が受け継ぐべき力は分かれることはない。あるとしたら何らかの外的要因しか考えられない」
反論しようとした氷月の表情が一瞬強張った。氷蓮はそれを見逃さない。
「やはりな」
氷月の顔から徐々に表情が消えていく。
「だが、今のお前はその理由を私に言うことはないだろう。故に、私は考えてみたよ」
柔らかく氷蓮が微笑む。その微笑みに氷月の表情は一気に色を失い、背筋が凍った。氷蓮がこの表情を浮かべるときは、いつも残酷なことが起こる。
だがここで素直に訊き返しては何かあったと肯定するようなものだ。いや、何を言ってももう無駄だろう。シラをきっても氷蓮は確実に何らかの確信をもっている。わかっていても氷月はシラを切ることを選んだ。
きっ、と虚ろだった瞳に精一杯の気力を込めて氷蓮に言い放つ。
「何を言っているの? 私は存在を無くした。力が無くなったって不思議じゃない」
氷蓮は氷月の態度が意外だったらしく、少しおやという表情を浮かべたが、さほど気にせず「では別の者に話を訊いてみよう」と、言うが早いか、氷蓮はまた中央に移動し、すっと右手を上げ、空に何か文字らしきものを書くと、石畳に描かれた円陣と対をなすように氷蓮の頭上に黒い円陣が浮かびあがる。
その円陣を見て愛華が驚きの声を上げた。
「えっ!? あれは……『魂戻し』の呪陣!? でも……少し違う……? いえ、それよりも氷蓮様はいくつ同時に術を起動させていたの!?」
信じられないという表情で愛華が氷蓮を見る。
それなりに力のある者なら、簡単な術であれば同時に起動・発動させることはできるだろう。
だが、今回の術は秘術と呼ばれる類のものだ。術を一つ起動・発動させるには高度な知識、呪文変換を処理できる能力、それを行使する精神力が必要になる。
一つ行使すれば二~三日は寝込んでしまうようなレベルのものを同時に発動させていたとは。あの今にも倒れそうな細い身体で……。
下手をすれば、術の展開中に命を落としてもおかしくないほどの負荷だ。
(そんな無理をするのも全て氷月様のため……)
愛華はゾッとして思わず両腕で自分の身体を抱きしめた。
そんな愛華の考えなど知ることもなく、氷蓮は発動させた円陣の外に出ていた。すると入れ替わるように空中で発動した円陣から、何かが落ちてきた。それはどすっという鈍い音をたてた。
「って~~」
落ちてきたものは少年だった。その少年を見た瞬間、氷月は全身が凍った。驚愕の表情になり、震える両手で口元を覆った。覆った口元から掠れた声で「祥護……さん」と。




