五章 偽り・五
潔斎三日目。
今日の潔斎が終わった氷蓮が、清められた着物を身に纏い寝台に身を横たえ休んでいた。
傍らでは朔夜が茶を入れていた。
「どうぞ」
薄荷のような清涼感のある香りが漂う。
氷蓮はゆっくりと身体を起こし、何も言わずに茶を受け取ると一口飲む。
清涼感がきついが、体力回復を促す薬も兼ねているので飲まざるを得ない。元々弱っている身体に今回の儀式。これが負担にならないわけがない。
少しでも万全の体調で儀式に臨むため、無理をしてでも薬湯を飲むが、やはり飲みきれず半分ほど残った薬湯を朔夜に渡す。
朔夜はそれを枕元近くにある卓に置く。
「残りはまた後でお飲み下さい」
それだけ告げると、朔夜は一礼し部屋を後にした。
普段ならもっと何かと世話をし部屋に残るのだか、今回は拍子抜けするほどあっさりと去って行った。
朔夜としてはこんな状態の主を一人きりにしておきたくはないのだが、儀式前の精神統一のため、一人にして欲しいと先に告げられてしまえば逆らうことは出来ない。
後ろ髪をひかれつつ、部屋を去ったという訳だ。
氷蓮は昨夜のことを思い出していた。
「随分と変わったな、あれは」
以前の、まだこの世界にいた頃の氷月であれば、氷蓮に逆らうような行動や言動は決してしなかった。
それが今では氷蓮に意見し、言うことをきこうとしない。
人の性格や行動など、余程のことがなければそう簡単には変わらない。
(向こうの世界で何かがあったとしか考えられない、か……)
自分の知らない氷月の時間に何があったのか。それが知りたい。
自分の所有物である氷月の事で知らないことがあることなど絶対に許せない。
それに、氷月の力が失われた理由もそこにあることは間違いない。
氷月自身も言っていたが、今の氷月は氷蓮の役にはまったく立たない。
王族には王族しか持てない力があるのだが、それが氷月からはまったく感じられないのだ。
王族の力はその魂が持つもの。故に、彩音が氷月の生まれ変わりというなら、王族の力も持っていなければおかしいのだ。
それなのに今の氷月の魂や肉体から欠片ほども力は感じない。氷蓮がその力を感じ取れないということは有り得ない。
(だが、今の氷月が素直に話すとも思えない)
力もなく、以前の氷月の身体でもない。氷蓮に逆らい『氷月』という存在でしかない氷月。
本当に役に立たない。これなら以前の身体で死体で見つかった方がまだましだとすら思う。
歌蓮の面影が残る、あの身体――。
本来であれば、氷蓮の妻となるべき女性は氷月の母親であり氷蓮の姉、歌蓮であった。
この世界が昼と夜の世界に分かれたとき、時の王は王族の血を守るため、王の結婚は王族の血を持つ者で行うことと定めた。
この不安定な世界を支え、維持するためには王族の持つ力が必要不可欠なものだからだ。
だがその掟を破り、どこの誰とも知れぬ男との間に歌蓮は子をもうけた。
それが氷月。歌蓮は氷月を産んだ数日後に亡くなった。
氷月の父親が誰であったのかは歌蓮しか知らない。誰にも告げずに逝ったのだ。
(歌蓮!)
氷蓮は心から姉を想っていた。姉として、一人の女性として――。今でも歌蓮を愛している。歌蓮を想わない日など一日とてない。
だが、どんなに想っても歌蓮は還って来ない。その現実が氷蓮の心を苛み狂わせる。とても正気ではいられない。
(歌蓮! 何故だ! 何故お前がいないのだ……!)
溢れ出る怒りや哀しみ、抑えきれない破壊衝動が氷蓮の内で行き場を求め荒れ狂う。
「くっ……!」
氷蓮は強く握りしめた掛け物を引き千切る。中に入っていた軽く柔らかな綿が辺りに飛び散りふわりふわりと舞った。
肩で息をし、興奮している心を何とか落ち着けようと氷蓮は卓にある器を取り、残った薬湯を一息に飲み干した。
喉から胃にかけて清涼感が染み込んでいくとともに、心も少しずつ落ち着いてくる。
仕上げとばかりに軽く深呼吸をすると、寝台に横たわる。
(今は明日の儀式に集中しなければ……)
歌蓮のことから気持ちを逸らすために目を瞑り、儀式に使う術のシミュレーションをする。
(問題はないな。……何だ?)
手に柔らかな物が触れたので、目を開けて確認する。
(ああ……)
先程引き千切った掛け物の綿が手に触れたのだ。掛け物の役割を果たせないほど破けてはいないが、中身の綿はそれなりに飛び出し、辺りに落ちていた。
(だが明日になれば全てが終わる。そうすれば……)
「私の鳥籠から飛び出した小鳥。その代償がどれだけ高いものか思い知るといい」
氷蓮は小さく嗤った後、そういえばと何かを思い出したような表情をした。
「皓緋。奴にもそれ相応の報いを受けてもらわねばな」
この氷蓮の治める静欒に手を出したのだ。ただで済ませる訳などない。
「明日が楽しみだ」
考えただけで心が高揚する。万全の状態にするためにも、落ち着いて眠らなければ。
氷蓮は明日のことを想いながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
(とうとう明日か……)
彩音は椅子に座りぼんやりとしていた。
今日の潔斎は全て終わり、後は明日に備えて眠るだけなのだが、寝台に入っても落ち着かないので部屋の中をうろうろとしていたが、それでも落ち着かず今度は視界に入った椅子に座ってみたというところだ。
(明日の儀式さえ済めば、家に、祥護の所へ帰れる!)
この数日間、現実とは思えないことが自分の身に起きた。
異世界に引きずり込まれ、この世界を救ってくれなど、映画や小説等の中でしかありえないと思っていたことが突然起きた。
(こんなのありえないよね……)
本当は今だってこんな現実は信じたくない、夢だと思いたいと願っている。
だが、どんなに願ってもこれは夢ではなく現実だ。それは傍に祥護がいないことで思い知る。
どんなに離れていても、いつも傍に祥護の存在を感じていた。それがここでは何も感じられない。
(祥護、逢いたい。淋しいよ……)
ここにはいない祥護のことを想うと、思わず涙がこみ上げてくる。
「……っふ」
本格的に泣きそうになったとき、背後の方から自分を呼ぶ愛華の声が聞こえた。
「愛華、こっちだよ」
今の気持ちを誤魔化すように、無駄に声を大きくして姿の見えない愛華に返事をすると、気配がこちらに近付いて来る。
泣きそうになったことがばれないように、彩音は着物の袖で滲んだ涙を急いで拭った。
「あら、もう支度は終わってるみたいですね」
愛華が彩音を頭の上から爪先まで見る。
「うん。言われた通りにはしたよ」
彩音は腕を上げたりして、着ている着物を愛華に見せた。
「ええ、問題ありませんね。後は儀式までこちらでお待ち下さい。と言っても儀式は夜ですので、それまではかなりお暇でしょうから、ゆっくりお休みいただいて構いませんよ」
そう言うと愛華は彩音の手を取り、部屋の奥にある寝台へと導く。彩音は愛華の導きのまま、寝台へと横たわる。
「でも明日のことを考えると緊張しちゃって眠れなくて……。そうだ。愛華、何か話でもしない?」
「嬉しいお言葉ですが、潔斎で体力を消耗されているはずです。香を焚いておきますので、ゆっくりお休みください。気持ちも随分落ち着くはずですよ」
彩音を気遣うように微笑みながら、香の準備を調える。彩音は横になりながら、愛華の支度を見ていた。
ほどなくして、愛華の焚いた香がゆっくりと広がり始めた。
それは仄かに甘く、春の花のように優しい香りで、疲れた心にはひどく心地いい匂いだった。
横になりながら愛華とたわいない話をしていたが、だんだんと瞼が重くなり、話す言葉も途切れ途切れになり、十分もたたないうちに彩音は夢の世界へとおちていた。
「おやすみなさい、彩音様」
愛華はそっと掛け物をかけなおすと、静かに部屋を後にした。




