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五章 偽り・四

潔斎二日目。

今日の勤めを終えた彩音は、昨日同様寝台に突っ伏してから、右を向いたり左を向いたりと寝台の上でごろごろとしていた。

疲れてはいるが昨日ほどではない。

「あと二日か……」

儀式が終れば家に帰れる。

今回の儀式の後、続けて彩音を元の世界に戻す術も行うとは言っていたが、氷蓮の体調を考えると無理だろう。

その氷蓮も今は神殿に入り、儀式のために彩音同様潔斎をしている。

氷蓮は王専用の儀式場があり、そこで潔斎をしているので、儀式当日まで彩音と会うことはない。

(本当に帰れるのかな……)

彩音は不安だった。

氷蓮は氷月を諦めず、ずっと捜していたのだ。たとえ死んでいたとしても、その亡骸を手に入れるまで捜していただろう。その執着ぶりを考えると、どうしても疑ってしまう。

(そもそも、今回の儀式も本当に静欒の護りを強化するものなのかな……)

彩音に嘘をついて、本当は違う事をするのかも知れない。

(でも愛華は確かに結界強化の術だって言ってたし……。けどもし、愛華が嘘をついていたら……? ううん、愛華はそんなことはしない!)

彩音はすぐに否定する。

(こんなに疑ってばかりじゃ何も出来ない。もし騙されたら、その時考えればいい。どうせ何も出来ないんだし)

彩音の頭はまだぐちゃぐちゃしていて、今までの事をうまく整理出来ない。

(何が正しいのかなんてまったくわからない。もしかしたら、あの晧緋という人の言葉が正しくて、氷蓮のやろうとしていることのほうが間違っているのかも知れない。でも、氷蓮はこれさえ済めば帰すと約束してくれた)

今の彩音は、その約束を信じて行動することしか出来ない。

「考えすぎても仕方ないか……。明日も早いしもう寝よう」

そう言うと彩音は掛け物をかけ、眠りについた。


暗闇に包まれ、物音一つしない深夜。

彩音の眠る部屋に人影が現れた。その影は少しふらついてはいたが、迷いなく彩音の寝台の側まで来、天蓋の薄布を捲った。

「氷月、起きろ」

影は氷蓮だった。

氷蓮は彩音の枕元に腰掛け、さらに彩音――、氷月を呼び起こす。

「起きろ。起きぬと言うのであれば、……そうだな」

氷蓮の細い腕が彩音の頬をゆっくりと撫で、そのまま首へと移動し止まった。

その痩せた指は彩音の首をやんわりと掴み、それからじわりじわりと首を圧迫し始めたその時、彩音は目を覚まし、氷蓮の腕を思い切り払いのけ、起き上がって距離をとった。

彩音は首を押さえながら、はぁはぁと荒い息をしながら氷蓮を睨みつけ、毛を逆立てた猫のように強い警戒を示していた。

「ほう。私に対してそのような目を向けるか」

不快、というよりは感嘆のこもった言葉だ。

彩音は首を絞めかけられた驚きと怖ろしさで緊張している。

眠っていた所、いきなり寝込みを襲われ、しかも起きないからといって首を絞めかけられた。普通では考えられない行動だ。

しばらくの間、二人はお互いを観察していたが、荒かった彩音の呼吸も徐々に落ち着き始めた頃、氷蓮が場の沈黙を破るようにすっと右手を彩音に差し出した。

「氷月、こちらへおいで。この前の話の続きをしよう」

だが彩音は沈黙を守ったまま、氷蓮と距離を取るようにじりじと後退する。

「氷月、こちらへ来い。私との話を拒否するというのなら……」

彩音がびくりと震え、よりいっそう身を固くする。先程、起きないからといって首を絞めかけられたのだ。次は何をされるのかわからない。

氷蓮は手を差し出したまま何もせず、ただ柔らかな微笑みを見せた。

だが、その表情はとても恐ろしかった。表情こそ微笑んでいるが、目は笑っていない。

むしろ凪いだ湖のように穏やかだが、その奥には暗く深い闇と底知れない冷たさを感じる。

彩音はこれ以上氷蓮の言葉を拒否するのは危険だと感じ、少しだけ氷蓮の方へ寄った。

「いい子だ。もっとこちらへ来い」

彩音は寝台の端にいたが、距離を測りつつ、ゆっくりと氷蓮の方へと寄るが、枕の所まで来ると止まった。

「……話しをするならこれでいいわよね、氷蓮」

彩音は警戒を解かず、枕一つ分の距離をとり、氷蓮へ話しかけた。

氷蓮は不服そうだが、これ以上時間を割くのも無駄と判断すると、差し出した右腕を下ろし、話しを始めた。

「あの時は話しが途中で終わったからな。あらためてお前と話しがしたいと思い、今宵訪れた」

「……私は何もないわ。この前話した以上のことはない」

彩音――、いや、氷月はそう言った。

「お前には無くとも私にはある。私の問いに答えればいい」

「…………」

「何故私を裏切った」

氷月の肩がぴくりと小さく揺れ、氷蓮から視線を逸らすように俯いた。

「裏切ってなんかいないわ」

「では何故あの時、私の手を掴まなかった。あの距離であれば、お前が力を使い、いや使わずとも少し手を伸ばせば私の手に届いた。それなのにそうしなかったのは裏切りと捉えられても仕方あるまい」

「…………」

氷月は俯いたまま、何も話さない

その態度に業を煮やした氷蓮が身を乗り出し、氷月の顎を掴み上向かせた。

「!」

俯いていたせいもあるが、突然のことだったので氷月は避けることも出来ず、気づけば氷蓮と視線を重ねていた。

「私の目を見て答えろ」

氷蓮の声は冷たく抑揚もなかったが、怒気を含んでいるのは明白だった。

氷月は視線を動かせなかった。

氷蓮の深い藍色に少し紫がかった瞳が美しかったからだ。今はやつれているとはいえ、怒気も纏い凄艶さも加わり、目が離せないのだ。

幼い頃からこの瞳に見詰められるといつも見惚れてしまうのだ。そして今、こんな状況でも気を取られ、答えられないままぼうっとしていると、苛立つ氷蓮が顎を掴む手に力をいれた。

「……!」

氷月は痛みに眉を顰めた。

「答えろ、氷月」

氷月は気を取り戻した。見惚れている場合ではない。氷月は自分の顎を掴む氷蓮の腕に自分の手を置いた。

氷蓮は意図を察して力を緩めた。話すには支障ない程度に。氷月としては離して欲しかったが、今の状況では無理だろうと諦めた。

すっと息を吸い込み、吐く。自分の思いを話すなら今がチャンスと、意を決して口を開く。

「私はっ……、氷蓮のことが好き! 好きで好きで、自分でもどうしようもないほど貴方が好きで……。幼い頃から好きだった貴方の妻になるはずだったあの日、私がどれだけ嬉しかったのか、貴方は知らないでしょう……?」

氷月は婚礼の時を思い出していた。思い出せば出すほど、感情が溢れ、声も大きくなる。

そして、自分の顎を掴む氷蓮の腕をぎゅっと力を込めて掴んだ。その瞳には涙も滲んでいた。

「それなのに、突然表れた空間の歪みに為す術もなく落ちた私の気持ち……。それを貴方はわかると言うの? 氷蓮!」

滲んだ涙は溢れて頬を伝い、氷蓮の腕にも落ちた。

氷蓮は少し驚いていた。

氷月は大人しく、従順な少女だった。どんな時でもあまり感情を表に出すことはなく、物静かな少女だった。

そんな氷月が今、こんなにも感情を露わにして、自分の気持ちを吐露している。また、演技が出来るほど器用な性格でもない。ましてや氷蓮にそんな演技など通用しない。

故に、氷蓮は氷月の言葉を信じることにした。

氷蓮は氷月の顎を掴んでいた手を離し、その手で流れる涙を優しく拭った。拭い終わるとその手を背中に回し、自分の胸へ引き寄せた。

氷月も逆らわず氷蓮の胸に顔を埋め、泣いた。氷月は恋しい男の腕の中で優しく慰められて幸せだった。

氷蓮にぶつけた気持ちは嘘ではない。本当の気持ちだ。だが、恋慕う気持ちと同時にこうも思っている。氷蓮といるのが辛い、哀しい、苦しい、心が痛い。

氷蓮の本当の気持ちを知ってしまったからだ。いや、本当は薄々気づいていたが、認めたくなかったので目を逸らしていたのだ。

だが、婚儀の前日、氷蓮と祖母の会話を偶然聞いてしまった。その話しを聞いてしまってはもう目を逸らし続けることは出来ない。

だからあの時表れた空間の歪みに身を委ねたのだ。

(あぁ……、ずっとこの腕の中にいたい。だけどそれは許されないし、私も惨めになるだけ。彩音のためにも……)

氷月は氷蓮の胸に両手を添え、ゆっくりと身を起こし、幸せだったささやかな時間を自ら絶った。

そして氷蓮の目を見る。

「氷蓮、逢えて嬉しかった。本当よ。でももう……、私を起こさないで。私はもうこの世にはいない。今は『香月彩音』として生きているの。だから……」

「駄目だ」

氷蓮は氷月の手を取り、逃がすまいとまた自らの胸に引き寄せた。

「氷蓮……」

「氷月、お前は今ここにいる。それなのにいないなどと言うことは許さない。お前は氷月だ。彩音という少女ではない」

「ありがとう。でも私のことを想ってくれるのなら、彩音のことも同じように想って。この世界から消えた時に私は存在しない者となった。だからもう、私を起こさないで。お願い……」

決めたこととはいえ、別れを告げるのはやはり辛く苦しい。氷月の瞳からまた涙が零れた。

氷蓮は言葉を継ごうとしたが、氷月の意思が固いことを悟ると何も言わず、氷月から離れ、寝台から降りた。氷月はどうしたのかと思い、名を呼んだ。

「氷蓮?」

氷蓮はこうと決めたことは何があろうと自分の思い通りにする。今とて彩音を否定し、氷月の意思など無視しようとした。

それなのに、何も言わずに立ち去ろうとする。何が起こるのか想像もつかず、氷月は戸惑った。

氷蓮は氷月を振り返ると「お前の気持ちはわかった。まだ話したいことはあるが、時間のようだ。迎えが来た」と言い、視線を部屋の入口へと向ける。

ここからでは見えないが、おそらく朔夜が来たのだろう。

「お前とじっくりと話すことも儘ならないとはな」

氷蓮は苦笑し、未練のある表情をしながらも、ゆっくりと歩き、あっさりと部屋を後にした。

氷月は何も言わず、ただ氷蓮の背中を見送った。

部屋から氷蓮の気配が完全に消えてもまだ、氷蓮の歩き去った空間を見ていた。

(このまま終わるはずはない)

そう心の中で思いながらも、氷蓮の言う通り話すことも儘ならず、すれ違ってばかりいては何一つ問題は解決しない。氷蓮の行動がつかめない以上、今はただ彩音の中で見守るしかない。

「氷蓮……」

ぽつりと呟くその声は、涙と悲しみで震えていた。

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