五章 偽り・三
「う……、疲れた……」
一日目の潔斎が終わり、彩音は倒れ込むように寝台へ突っ伏した。
愛華とお茶を楽しんだ後、潔斎についての説明を受け、そのまま潔斎を始めた。
まずは身を清めるということで、神殿地下、つまり王宮の地下ということにもなるのだが。そこには泉があり、この泉は聖なる人から祝福を受けたと言われ、静欒で最も清浄なる水と言われている。
その水で儀式の日まで身を清める。本来なら真水のままで行うとのことだが、本人の体調等も考慮して、その水で沸かした湯で行う場合もある。彩音はもちろん湯の方だ。
湯といっても入浴ではないので、熱くもなく冷たくもない温度、ぬるま湯で行う。頭の先から爪先まで、全身しっかりと沐浴をする。これを一日三回、大体一時間程行う。
その他、食事内容や部屋から出ることは禁止等々あるが、何とか言われた通りきっちりこなした。
彩音は仰向けになり、柔らかな掛け物を肩まで引っ張る。
「疲れた……。けど、この儀式さえ済めば……」
目を瞑り、あの時のことを思い出す。
氷蓮とあらためて話をし、静欒を救う手助けを断った日。
あの日、氷蓮と話をしていたのは覚えている。そして次に気づくと、離宮であてがわれた部屋の寝台の上だった。
「え……?」
起きて、辺りを見回した。
「え、あれ? あれ?」
彩音は焦った。
自分は何故ここで眠っていたのか。確か氷蓮の部屋へ行き、話をしていたはずだ。
辺りを見回してみたが、人の気配はない。
彩音は落ち着いて、今までのことを思い出してみた。
氷蓮と話をして、自分には何の力もない、静欒を救うなんて出来ない、だから元いた世界に帰してくれと言った後、いきなり氷蓮に抱きしめられて……。
「う……」
彩音の頬がうっすらと赤くなる。
(何で私なんかを……。違うか。氷月さんか)
そう。氷蓮が抱きしめたのは、氷月さんであって私ではない。
そうとわかっても彩音も年頃の少女だ。そんなことをされれば、多少なりとも意識してしまう。
(ま、まぁ、そのことはとりあえずおいといて)
彩音は心を落ち着け、本来の目的に戻る。
抱きしめられた後。その後の記憶がない。
何度思い返してみても、やはり抱きしめられた後、自分がしたことを思い出せない。
(そういえば、嬉しくなって、だんだん眠くなっていったような……?)
しばらく記憶を探ってみるが、やはりここまでのことしか思い出せない。
ということは、あのまま氷蓮の腕の中で眠ってしまったということか。
(もうそれしか考えつかない……)
結論としては、話に行ったが、途中で、しかも氷蓮の腕の中で眠ってしまった。その後、誰かが部屋まで運んでくれた、と。
運んで来たのは多分黒曜か朔夜のどちらかだろう。出来れば黒曜であって欲しいが。
「は、恥ずかしすぎる」
彩音は羞恥のあまり掛け物を頭まで引っ張りあげ、すっぽりと全身を隠した。
(一体どこの幼児だ! 大事な話の途中で、それも、う、腕の中で寝ちゃうなんて……)
思い返せば返すほど恥ずかしくなり、自分を隠すために掛け物を引き寄せずにはいられない。さながら蓑虫のようだ。
しばらくすると、息苦しくなったのか掛け物から頭だけを出した。
「ふわぁっ」
彩音は大きく深呼吸した。
少し落ち着いた時に、部屋の入口の方から黒曜の声がした。
「彩音~、起きてる?」
「起きてるよ」
寝台からは出ず、寝たまま答えた。
(一体何だろう? まあ、大体予想はつくけど……)
しかし、何故こうも訪れるタイミングが悪いのか。
前回は寝込みを襲われ、今回もそれに近い状態。
愛華ならともかく、男の黒曜の前に寝巻き姿のまま出る気などない。
彩音は何かあっても対応できるように、気持ち程度だが髪の毛と寝巻きを簡単に整え、黒曜を待った。
もちろん寝台からは出ず、薄布越しの会話で済ませるつもりだ。
黒曜が寝台近くまで来て止まった。
「彩音、話しがあるんだけどいい?」
「いいよ」
黒曜はこの前のように寝台の中にまでは入って来ず、その場でそのまま話始めた。
この前、彩音が怒ったことがそれなりに効いているようだ。
「昨夜のこと、覚えてる?」
「昨夜のことっていうと、氷蓮との謁見のこと……?」
「そう。彩音、謁見中に寝ちゃったんだってね」
黒曜がくすっと笑う。
「う……」
やっぱりそうだったのか。恥ずかしさで、また体温が上がる。
「だから僕が陛下に呼ばれて、彩音をここまで運んだんだよ」
(なーんて。嘘だけど)
黒曜は心の中で呟く。
昨夜、朔夜に呼ばれて離宮の氷蓮の部屋に行くと、いきなり「本当の氷月と話した」と氷蓮に言われた。
「え……?」
黒曜はぽかんとしたが、すぐにその意味を理解した。
そして寝台にいる氷蓮に「氷月はどこ!?」と、飛びかからんばかりの勢いで居場所を教えろと詰め寄った。
興奮して落ち着きなく、きょろきょろと辺りを見回しながらまた氷蓮に訊く。
「ねぇ、陛下! 氷月は何処!?」
答えない氷蓮に焦れて、天蓋の薄布を強引に捲ろうとした時、剣の鞘で手を叩き落とされた。
「てっ!」
黒曜が叩き落とした主を睨む。
「何するんだよ、朔夜!」
「それはこちらの台詞だ。陛下に対して無礼な行動は許さん」
ガラスのように温度の感じない冷たい目で、朔夜は黒曜を睨む。二人が睨み合って黙ると、氷蓮が黒曜に向かって言う。
「黒曜、氷月に伝えろ。儀式に立ち会えば元の世界に返す、と」
「陛下!?」
黒曜が驚きの表情で、薄布の向こうにいる氷蓮を見る。
あれほど待ち望んだ氷月を、こんなにもあっさりと帰すのか!?
黒曜は到底納得など出来はしないと氷蓮に食ってかかる。
「お言葉ですが、氷月が帰って来るのを待ち望んでいたのは陛下だけではありません! 僕だって、ずっとずっと待っていたんです! それを……!」
「黒曜」
氷蓮がこれ以上聞く気はないとばかりに話を断ち切った。
「お前は私の言葉をただ氷月に伝えればいい。行け」
「陛下!」
だが、薄布の向こうからは何の反応もない。黒曜もこれ以上は無理だと悟ったのか、苛立ちながら諦めて部屋を出て行った。
(一体どういうつもりなんだ、陛下は)
そしてそのまま、彩音の部屋へ来て今に至る。
「陛下からの伝言。元いた世界に帰してあげるかわりに、儀式に立ち会って欲しい、だって」
「えっ!? 本当に!?」
彩音は驚きのあまり、寝台から飛び出し黒曜の前に立つ。
黒曜は苦笑しながら答える。
「本当」
「嬉しい……! やっと、やっと帰れる!」
彩音は喜びで興奮している。
黒曜はそんな彩音の姿を見ていると、とても憎らしくて妬ましい思いが心の底から溢れ出す。
(どうしてそんなに嬉しそうなの、氷月。僕を置いてまた何処かへ行くの? いつまでも一緒だって言ったのに! 何で……! ううん、逃げるなら、追いかけて、捕まえて。もう何処にも行かせない。何処にも……)
黒曜は両腕を上げ、彩音の肩を掴もうとしたその時。彩音が顔を上げて黒曜を見る。
「ねぇ、帰るには儀式に立ち会えってことだけど。儀式って何? 氷蓮にも言ったけど、私、何も出来ないよ?」
黒曜ははっとして、彩音の肩を掴もうとした両腕を下ろした。
「あ、あぁ。僕も詳しいことは聞いてないんだ。内容はまた後で」
「そっか」
さっきまでの勢いは何処へやらというぐらい、今の彩音は感情が沈み、そのまま沈黙した。
「どうしたの?」
「うん……。もし、その儀式に出ないって言ったら……どうなるの?」
「彩音の望みが叶わないだけ」
黒曜からは当然のようにその答えが返ってきた。
「だよね……。選択肢はないってことか」
彩音は元いた世界に帰りたい、ここに来る前の生活に戻りたい、何より祥護に逢いたい。
あんな別れ方をしてしまったのだ。今、この瞬間もひどく心配しているに違いない。
早く帰って安心させたいし、自分も安心したい。
だから『儀式に出ない場合はどうなるの』か、なんてことを訊く事自体が間違っているのに。
でも何故だかわからないが、どうしても確認しなければいけないような気がしたのだ。
「で、どうするの。彩音?」
「もちろん立ち会うよ」
今度ははっきりと答えた。
「わかった。陛下には僕から伝えるよ」
「いいの? 私が自分で伝えた方が……」
「陛下の具合もあまり良くないし、儀式の準備もしなければいけないから」
黒曜は小さく首を振り、彩音の申し出を断る。
彩音もそう言われると引かざるをえない。
それに正直今、氷蓮とは会いたくない。昨夜の事を思い出すと、どんな顔をして会えばいいのかわからない。
「じゃあお願いするね、黒曜」
彩音は頭を下げた。
「まかせて。彩音はゆっくり休んで。また明日も潔斎なんだから」
「わかった」
おやすみ、と言って黒曜は部屋を後にした。
彩音は掛け物をかけ直し、大きく深呼吸をした。
(何があろうともう後には引けない。私はどんなことをしてでも元いた世界に、祥護の所に帰るんだから!)
不安や心配はあるけれども、それらを忘れるように目を瞑り、明日の潔斎へ備えるべく彩音は眠りについた。




