四章 氷蓮の思惑・四
氷蓮はおとなしくなった彩音を抱きしめ、その髪を優しく、優しく撫でていたが不意にその手を止めた。
彩音がゆっくりと氷蓮の腕の中から起き上がり始めたのだ。
「氷蓮……」
そう呟くと、涙で潤んだ瞳で氷蓮を見つめる。
「氷月……。ようやく思い出したか……」
氷蓮はこの上もなく柔らかな眼差しを彩音に向け、その頬にそっと手を添え、細く痩せた指が彩音の頬を撫でる。
彩音――、いや、今は氷月である少女は氷蓮をしばらく見つめていたが、ゆっくりと視線をはずし、俯いた。
「どうした、氷月。もっとよく顔を見せろ……」
氷蓮が頬を撫でていた指を氷月の顎へと移動させ、顔を上向かせようとした。
だが氷月はふるふると頭を振り、その手をそっと払った。
俯いたまま、氷月が細い声で氷蓮に言葉を放った。
「何故……、今さら私を呼び戻したの……?」
「愛しい者を呼び戻すのに理由がいるのか? お前に逢いたかった。捜し続けたぞ。お前が私の手を振り払い、別の世界へ逃げた日からな」
氷月の身体がぴくりと震える。
「逃げてなんかいない……。それに氷蓮の手を振り払ってもいない。ただ……」
「ただ?」
「ただ……、氷蓮の手が間に合わなかっただけよ……」
しばらくの沈黙の後、氷蓮が「そうか……」と呟いた。
「過去のことはもういい。それよりは今だ。今、この静欒を、世界を、晧緋から守れるのはお前しかいない、氷月。この世界の者は誰一人として陽の光りなど望んではいない。どこまでも深く、静謐な闇の中で暮らす事を望んでいる」
氷月がゆっくりと顔をあげ、氷蓮を見る。
「そして全てが片付いた後、あの時の続きを。今度は婚約ではなく結婚の儀を執り行う」
氷月はその言葉を聞くと、哀しげに目を伏せた。
「そう……。でも残念ね。今の私にそんな力はありません。確かにここから去る前の私になら、この世界を救う力があったかも知れない。でもあちらの世界へ転じた際、私は持っていた力を全て失った。わかるでしょう? 今の私は香月彩音という何の力もないただの少女です。氷蓮にも、この世界にも何の役にもたたない無力な子供。……だから結婚もしません。もう……あの時には戻れないもの……」
「…………」
実際、確かに氷月の言う通りではあるのだ。
今の氷月からはまったく力が感じられない。
氷月の話をそのまま信じるなら、少なくともこの世界を救うことなど出来はしない。
だが、その話をまるまる信じることが出来るほど、氷蓮は愚かではない。
何か隠している。
幼い頃から大事に見守ってきたのだ。それぐらいのこと、見破るのは容易い。
とりあえず、この場は氷月の言うことを信じたふりをしておくのが最善だろう。
「わかった。お前がもうこの世界に、私の傍にいたくない――というのであれば、近いうちにあちらの世界へ送ろう」
「ありがとうございます」
氷月はそれだけ言うと、氷蓮の腕の中から抜け出し、部屋を後にした。
氷蓮は氷月が部屋を出ていった後、今までこの腕の中にいた少女との短い邂逅の余韻に浸っていた。
氷月が氷蓮の元から居なくなって二十年余り。
ようやく自分の手の中に戻って来た。
来る日も来る日も、捜して捜して――。
自分の命を削りながら、ようやく見つけたのだ。手放すはずなどないだろう!
高揚した心を少し落ち着かせるため、氷蓮は寝台から降り、窓辺へと行く。
外には静かな闇の中、淡く月が輝いていた。
「さて……。事は早めに進めなければならないようだ。氷月、お前は誰にも渡さないし、帰さない。まずは自分が誰のもので、どういう立場にあるのかということを思い出させてやろう」
くくっと氷蓮は愉しそうな声を漏らした。その表情は今までの優しさなど欠片も見えない酷薄なものだった。




