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四章 氷蓮の思惑・三

彩音は一人、氷蓮と向かい合っていた。

部屋には氷蓮と彩音、二人だけ。他には誰もいない。

最初、彩音は愛華に同席を請うたが、氷蓮が許可しなかった。

愛華は氷蓮の臣下。

いくら彩音が同席を請うても、主が許可しなければ側にいることはできない。

入口の扉の前に佇んだままの彩音を、氷蓮は自分の側まで来るように言った。

彩音は氷蓮の側には行きたくなかった。

何故行きたくないのか、相変わらずわからないのだが、感情がそう訴えるのだ。

『氷蓮には近寄りたくない』と。

だが氷蓮はそんな彩音の心中など知る由もない。

「来なさい」

扉の前で躊躇している彩音を再度呼ぶ。先程より強く。逆らう事は許さない、そういう強さのこもった声音だった。

彩音はその声にびくりとし、蛇に睨まれた蛙のごとく逆らう事もできず、仕方なくその言葉に従う。

昨日と同じ場所に用意されていた椅子に彩音は座った。

相変わらず部屋には香が強く焚きしめられ、その匂いがつらい。

無意識の内に着物の袖で、鼻と口元を被う。

氷蓮がそれに気づき声をかけた。

「香の匂いがきついだろうが、しばらく我慢してもらえるか?」

言われ、自分が無意識の内に袖で鼻と口元を被っていたことに気づき、あわてて手を膝の上に置いた。

「いえ、私の方こそすいません」

「気にする事は無い」

氷蓮がかすかに微笑した。

そして彩音の緊張をほぐすため、ほんの少したわいもないことを話し、さりげなく本題を氷蓮が切り出した。

「氷月、お前にこの靜欒さいらんを救ってほしい。いや、救うためにお前は帰ってきたのだ」

「…………」

氷蓮が言うには、この世界も、彩音がいた世界のように元は一つだった。

だが、ある時を境に世界は二つに別れた。

夜の世界と、昼の世界。

世界が別れて不自由な事もあったけれど、人々はそれなりにうまく適応し、生きてきた。

これからもそのまま、何も変わらず穏やかに生きて行く。

だが、その穏やかな生活を壊し、人々を不安と混乱に陥れようとする者がいる。

それが、晧緋こうひ

遠い昔に別れた片割れの、昼の世界の王。

晧緋は世界を一つに戻し、その世界の王になろうとしている。だからそれを阻止して欲しい。

それは氷月にしかできないことだから、と。

そう、氷蓮が彩音に話す。

彩音は黙って話を聞いていた。

だから私をこちらの世界に呼び戻したのか。この世界を救い、守らせるために。

知る人もいないこの世界、ただ一人きりで、自分にとっては何の関わりもないこの世界を、この人は私に守れと言うのか。そんなこと、承諾できるわけがない。

私には何の力もないのに。

彩音は膝に置いた手を、ぎゅっと握りしめた。

「できません……」

俯いたまま、彩音は氷蓮に答えた。

一呼吸おいてから顔を上げ、薄布越しに氷蓮を見据えて、あらためて答える。

「私にはできません。陛下の言う事は大体わかりました。でも、私は『氷月』ではないし、そんな記憶もない。ましてや世界を救える力なんてない……。人違いです。私は氷月じゃない、香月彩音です。私は早く帰りたい、自分のいた世界に、場所に、少しでも早く帰りたいんです! お願いだから帰して……」

帰りたい、帰りたい。

家に帰りたい、両親に会いたい、友達に会いたい、祥護に逢いたい……!

祥護!!

最後は涙ぐみ、声が震えた。

彩音は滲んだ涙を右手の甲で拭い、氷蓮の言葉を待つ。

寝台にもたれていた氷蓮が、薄布の向こうから腕を伸ばし、彩音の右腕を掴んで寝台へと引きずり込んだ。

「きゃっ!」

彩音はバランスを崩し、氷蓮の膝の上に倒れた。一瞬何が起こったのかわからなかった。

まさか氷蓮が自分を寝台に引きずり込むとは予想もしていなかった。

氷蓮は彩音の右腕を掴んだまま離さず、そのまま上に強く引き上げた。

「痛いっ……!」

それは臥している人の力とは思えない程の力だった。

彩音が掴まれた右腕を振りほどこうともがいていると、いつの間にか背中に回されていた氷蓮の右腕が、彩音を抱き寄せた。

「!?」

想像もしない展開に彩音は頭の中が真っ白になった。

(え、え!?)

予測不可能な出来事の連続に彩音の思考が追い付かず、結果、何の抵抗も出来ないまま、氷蓮の胸に顔を埋めるという状況になった。

「氷月……、お前は氷月だ。誰が何と言おうと、たとえ……お前自身が覚えていなくとも私にはわかる。私がお前を間違える事などありはしない」

今、自分の腕の中にいる大事な少女を強く抱きしめながら、心の底からの言葉を吐き出した。

氷蓮の痩せた身体に抱きしめられながら、彩音は涙を流していた。何故涙が流れるのかわからない。

ただ、心の何処かが今の言葉を聞いて喜んだのは確かだ。

そしてその喜びが、徐々に心の全てに広がるとともに、彩音の意識は薄れていった。

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