三章 招かれざる客
い、愛しい!? それはどういう意味なのか?
普通にとればやはり恋人などに対する言葉だろうが、家族に対しても使うだろう。
自分も祥護に対してそう思うときがある。とは言え『愛しい』よりは大体『可愛い』の方だが。
しかし、今の感じではどうみても前者の恋人……、とかに対しての意味の方が強い気がする。
自分は一体この人の何なのだろう。
まずはそれを第一に訊くことにしたが、それよりも早く氷蓮が口を開いた。
「まだ思い出してはいないのだな……。それとも、思い出したくないのか……?」
「え? え? もう一度言ってもらえますか? よく聴こえなかったので……」
まだ頭がパニックを起こしている時に小声で言われたのでよく聴き取れなかった。
氷蓮が薄い布の向こうで軽く頭を振ったようにみえた。
「いや、何でもない。氷月は私の姉の娘……、つまり姪だ」
「姪?」
氷蓮が彩音の心を読んだかのように、訊こうとした質問に答えた。
彩音にはその言葉が意外だった。
あれほどの言葉を言われたのだから、てっきり恋人か、それに近い間柄の人だと思ったのに違っていたとは。
(何で……?)
姪と言われた瞬間、拍子抜けしたと同時に、何故だか心の何処かが鋭い針で刺されたような痛みを感じたが、彩音がその理由を考える間もなく話は続く。
「そう。だが姉は氷月を産んで間もなく亡くなり、私の母、つまり祖母の元で育てられることになった。とても愛らしい娘で、私が母の元に氷月の様子を見に訪れると、子猫のように走り寄って来て。なかなか私の傍から離れようとしなくてな……」
その時のことを思い出しているのか、話す声はどこか懐かしさを含んでいる。
誰に話すでなく、遠い想い出を自分に語るような……。
「そして氷月が十になった時に、私の婚約者となった」
「え、ええっ!? 十歳で婚約!?」
彩音はびっくりして思わずまた声を上げた。
そしてまた朔夜に睨まれたが、そんなことは気にしていられない。
何せ実の叔父と婚約という、彩音の常識では考えられない話を聞いたのだ。衝撃は大きい。
氷蓮はそのまま話を続ける。
「正確には仮の婚約だがな。そして、氷月が十五の歳に正式に婚約……、『月命の儀』を交わした。それにともない、氷月は祖母の元を離れ私の居る皇華殿に移り住むことになった。この静欒を統べる、我が妃として、な」
彩音は話を真剣に聴いていたため気付かなかったが、側に控えていた朔夜の視線が動いた。何かを探るように全神経を集中し、部屋全体を見回す。
黒曜もそれに気付き、同じように神経を研ぎすまし、辺りを探る。
だが、異変を感じたのは一瞬のこと。
(気のせいか……?)
黒曜がちらと朔夜の方をみると、何事も無いように静かに控えていたが、まだ警戒をといてはいなかった。
もちろんその二人に気付かない氷蓮ではない。
少し言葉を止め、二人の様子を見、何事も無さそそうだと判断するとまた話を続けた。
「そして氷月が十八になる日、私との婚儀が執り行われた……、いや執り行われるはずだった、と言った方が正しいのか……」
氷蓮には似つかわしくないような、自嘲を含んだ言葉。
と、同時に彩音は朔夜から強い視線を感じたので、朔夜の方を見た。
「これ以上話すな」という牽制する様な表情とオーラが出ていた。
とはいえ、ここで言いなりになって話を止めたらせっかくのチャンスが無駄になる。また話をさせて貰えるかどうかもわからないのだ。
この話の続きは聞きたいが、朔夜の意も少しだけ汲んでやり、話題をずらすことにして、少し強引に別の質問を投げかけることにした。
さっき気になったことだ。
「あ、あの……」
「どうした?」
「一つ訊いてもいいですか?」
「構わない。何だ?」
「ありがとうございます。じゃあ、あの、たいしたことじゃないかも知れないんですけど、氷月さんのお父さんは誰ですか? お母さんは陛下のお姉さんですよね。そしたらお父さんて誰かなと。それだけなんで、す、けど……」
彩音の言葉がだんだん詰まっていった。
たいしたことない質問だと思った。
けれどもそれは大きな間違いだったのだ。この話を振った瞬間、場が凍りついたのを感じた。
『お父さんは誰か』
その言葉が氷蓮の胸を抉るように突いた。無意識に、痩せた白く細い手が胸元を掴む。その手は微かに震えていた。
「あの、どうか……、しましたか……?」
彩音が恐る恐る氷蓮に問うた。
あの質問から後、氷蓮は口を噤んでしまったからだ。
話題を変えようと振った問いが、まさか、場をより悪化させるとは。
(私、思いっきり地雷踏んだ……?)
後に控えている黒曜の顔をそろりと覗き込むと、今までみたことがないくらいに困った顔をしている。
朔夜の方は相変わらず冷たい表情だが、冷たさが普段の倍以上の雰囲気で彩音を責めているのがわかる。加えて怒気も発しているので、見るだけで凍死しそうだ。
黒曜には迷惑をかけて申し訳ないという気持があっても、朔夜に対してはそんな気持の欠片もない。
むしろ、朔夜のせいでこうなったという気持の方が強い。わざわざ話題を変えてあげたのに、責められるなんて割に合わない。
だったら進言でも何でもして自分で止めればよかったのだ等々、朔夜に対しての怒りが溢れる。
しばらくそんな悶々とした思考がループしていたが、それを遮るように、ようやく氷蓮が口を開いた。
「いや、何でもない……、気遣いは無用だ」
そう答える言葉とは裏腹に、言葉は重く、加えて少し声も震えていた。
彩音は申し訳なく思ったが、時間は戻せない。
重い沈黙はまだしばらくこの場を支配した。
沈黙を打破するためでもあるが、申し訳ない思いはあるので、彩音はとりあえず謝っておくことにした。
「こちらこそすいませんでした。変なことを訊いてしまったみたいで……」
「いや、お前が謝ることはない。何も悪いことなど訊いてはいないのだからな」
「え? だ、誰!?」
ここに居る全員が驚きを示した。
何故ならここにいる者ではない声が返事をしたからだ。
彩音は驚き、椅子から半分腰を浮かせて辺りを見回す。
朔夜は下げていた剣を抜き、主人を守るようにして姿の見えない者に対して構える。
黒曜は彩音を守るようにして、辺りを窺う。
だが、氷蓮は驚く様子さえみせなかった。
そして今までとはうって変わったような冷たい声で姿の見えない者に言葉を投げた。
「誰もお前など招いてはいないが……? 用があるなら姿ぐらいみせたらどうだ、晧緋」
『晧緋』
この名を聞いたとたん、朔夜の気が一瞬にして攻撃的になった。
黒曜も同じだった。彩音をより一層守るように、ぎゅっとその腕に抱きしめた。
「え、ちょちょっと黒曜?」
彩音が驚き声をかけたが「しっ、黙って」と言われとりあえず黙った。
「それは失礼。だが私はここに招かれて当然と思っているがな?」
「何を言うか!」
朔夜が声のする方向に向かって剣を向ける。
「朔夜、下がれ」
「ですが陛下……!」
「下がれ」
二度も言わせるな、という含みもある言葉を返された朔夜は一時身を引く。
だが剣先は晧緋から狙いをはずしてはいない。
「忠実な飼い犬をお持ちのようだな、氷蓮」
くっと軽い笑い声が空気を揺らした。
「晧緋、私はお前のために無駄な時間を割く気は無い」
「ああ、そうだったな。お前にゆとりというものはなかったな」
嘲笑うような声が響くと、氷蓮の前、寝台の足下の方の空気が揺れ始め、そして徐々に人らしきものが現れ始めた。
「これで文句はなかろう?」
そこには金茶色をした髪に、優しく甘い色をした琥珀の瞳。
すらりとした体躯を持ち、白いシャツに黒のパンツ、足元は黒のブーツという出で立ちの男。静欒では見ない服装だったが、彩音の住む世界ではありふれたものだった。
また、晧緋はとても美しかった。
容姿も確かに美しいが、それも合わせ晧緋の放つ気がとても美しいのだ。
濁りや澱みなどのない凛とした力強さに、溢れ出る躍動感。
静欒では感じることはないだろう美しさ、そう、ここにはない太陽を思わせるような男だった。
歳の頃は二十七、八ぐらいだろうか。
不敵な笑みをたたえ、視線は寝台に横たわる氷蓮に向けられた。
「不様だな」
氷蓮は答えず、ただ黙っていた。
「まあいい。俺が用があるのはお前じゃない」
晧緋は氷蓮から視線を外し、彩音の方へ向けた。
「氷月、お前を迎えに来た」
「ええっ!?」
彩音は唖然とした。
いきなり現れた見知らぬ男に、またもや朔夜と同じようなことを言われるとは。
「ちょ、ちょっとまって、一体皆して私に何の用があるっていうのよ! 私にはさっぱり解らない!」
それが今の彩音の正直な気持だ。
その言葉を聞いた晧緋がおや、というような顔をした。
「何だ、まだ何も知らないのか? まあ、それはそれで好都合だがな。ないことを吹き込まれても困るしな」
視線を氷蓮へと向け、くっと軽く口元を歪めた。
「黙れ。お前の方こそ、都合の好いことしか言わないのではないか」
沈黙していた氷蓮が、研ぎ澄まされた刃を突き刺すように言葉を発した。
そのあまりの鋭さと冷たさに驚き、氷蓮の方を振り向く。
今まで穏やかに話していただけに、その変わり様が信じられなかった。
「ふん、お前と一緒にするな。俺は真実しか言わん」
「貴様っ!」
朔夜の刀は正確に晧緋の喉元を捉えていた。
表情こそあまり変わらないが、その瞳は主人を侮辱された激しい怒りに満ちていた。
「朔夜!」
氷蓮の牽制する声ももう聞こえないのか、朔夜の足は晧緋に向けて踏み出されていた。
狙った喉元に刀を降りおろす。
「!?」
確かに捕らえたと思ったのに、握った刀からは何の手ごたえもない。
だが朔夜の眼前には、確かに晧緋の姿がある。
的を外してはいない。ただ、すり抜けたのだ。首から左腰へ。
「やはり幻影か」
確認すると素早く後ろに跳び退く。
「ああ、それぐらいはわかったんだな」
くっくっと、朔夜に視線を向けて嗤った。
「敵であれば、幻影だろうと何だろうと排除するまで!」
朔夜が再び剣を構え直し、その切っ先を晧緋に向ける。
だが、相手が幻影では剣で倒すことはできない。
先程と同じ結末を辿るだけだ。本体を叩かなければ。
そう思い、あらためて戦闘の体勢を整えようとした時、主人から声がかかった。
「朔夜、下がれ。お前の手には負えない。それに……」
「ですが陛下……!」
朔夜は氷蓮の言葉を遮り、なお食い下がる。
どんなに崇拝してもやまない主人の言葉でも今回のことだけは従えない。
自分のことを言われるのは構わないが、静欒の王である氷蓮のことを侮辱されたままでいられるほど朔夜の心は広くない。
たとえ主人が構わないと言っても、許せない。
そのやり取りをみていた晧緋が嗤う。
だがそれには全く興味は無く「それに?」と、氷蓮の言葉の後を継ぐ。
氷蓮はそれに応えるように「お前の始末をつけるのはこの私だ」
その言葉を聞くと同時に、晧緋の顔に挑発的な笑みが広がった。その言葉を待っていたとでもいうように。
「それでいい、そうでなくてはおもしろくない! もっと俺を楽しませろ!」
「貴様っ!」
朔夜が吼えた。
もう主人の命令でも牽制することはできなかった。
吼えると同時に晧緋に斬りかかる。
何らダメージのあたえられない幻影とわかっていても、斬らなければこの怒りはおさめられない。
晧緋からの反撃を予想していたが、その予想に反して晧緋はそのまま揺らめき消えた。
「今日の所はこれで退いてやろう、氷蓮。最高の舞台を用意してお前を葬ってやる。次に会うときが全ての終りだ。楽しみにしていろ」
晧緋はくくっと、楽しみでたまらないといった笑いを残し、消えた。
後には何事もなかったようにまた静寂が訪れたが、四人の心には静まらない漣を残していった。