三章 氷月・五
落ち着いたのを見計らうと、寝台の主――、この闇の世界、静欒という世界を統べる皇帝・氷蓮が話し始めた。
「氷月……。本当によく帰って来てくれた……」
「…………」
『氷月』
そう呼ばれたことで、彩音は下を向き、押し黙った。
同じ言葉を言われる度、彩音は嫌な気分になる。
『帰って来た』何て言われても、彩音はこの世界は初めてだ。
見たこともなければ、聞いたこともない。
この世界の存在すら、ここに来て初めて知ったのに。
それなのに、ことあるごとに自分の知らない、おそらく自分そっくりであろう人物に間違われる。
不愉快だった。
寝台にいる人、氷蓮以外にそう呼ばれるのは。
確かに、氷蓮に『氷月』と呼ばれても不愉快な気持はある。
だけどそれ以上に、氷蓮に対してだけは自分が『氷月』であることを否定してはいけないと思うのだ。
否定して氷蓮を哀しませて、傷つけてはいけないと強く思うのだ。
何故かはわからない。
その理由のわからなさがまた彩音の混乱を深める。
姿は薄布の向こうでよくわからないが、彩音に逢えて心の底から嬉しそうな雰囲気は感じる。
だが、彩音の様子に気付いたのか、氷蓮が心配そうに声をかける。
「どうした? 気分がすぐれないのか……? それならば無理をする必要はない。黒曜、氷月を……」
彩音がはっと我にかえる。
「ち、違います、大丈夫です。ちょっと緊張しただけです! ひれ……、じゃなくて黒曜。大丈夫だから気にしないで」
急いで何でもないことをアピールして、黒曜を下がらせる。今ここで別室にでも移されてはたまらない。まだ肝心な話は何一つ出来ていないのだから。
「そうか……? ならばよいのだが……」
早く本題に入らないと、余計な気遣いのせいでいつ退室させられるかわからない。それに、氷蓮も身体の具合がいつ変わるかわからない。
彩音は一呼吸おくと、氷蓮に切り出した。
「あのっ……!」
「…………」
「そ、その……」
「…………?」
ききたいことを訊ねようと意気込んだはいいが、何からきけばいいのかわからなくなり、言葉がもたつく。
そのことを気配で察したのか、氷蓮はくすりと微笑すると優しく彩音に言葉をかけた。
「あらためて、おかえりと言ったほうがいいかな……? 氷月」
声をかけられ、何から訊くのが一番いいのか悩んでいた彩音がはっと氷蓮の方を見る。
「まだ記憶は戻っていないのか……? 愛しい氷月」
続いてどこか切ない想いを含んだ、想像もしていなかった言葉をかけられ、彩音はぎょっとした。
「え、ええっ!?」
素っ頓狂な声をあげ、思わず椅子から身を乗り出しそうになった。
反対側に控えている朔夜には、殺意さえ感じるほどきつく睨まれた。