三章 氷月・四
案内された部屋はとても広かった。だが、部屋は広さに似合わず殺風景だった。
大きな寝台、最低限の調度品、それだけしかなかった。
調度品は地味な造りだったが、質は高級なものだとわかる。
部屋の内装も王宮のものとは違い、派手さはなく落ち着いた雰囲気でまとめられていた。
その部屋の中央、天蓋のついた寝台の傍に朔夜が静かに控えていた。
「おまたせ。連れて来たよ」
朔夜に言ったのではない。寝台に横になっている人に向かってだ。
姿は見えない。
距離があるせいと、部屋が薄暗いせいもあるのだが。
寝台を覆う薄布の向こうから「ありがとう」と返事が一言。
その声は柔らかいがよく通る声だった。だが、その声は風邪をひいているのだろうか? 少し掠れていた。
彩音ははっとして、隣に立つ氷蓮の袖を握りしめた。
「ん? どうしたの、彩音」
氷蓮が隣に立つ彩音を見る。
彩音は袖を握りしめたまま、じっと寝台のほうを凝視していた。
(この声、どこかで聴いたことがある……?)
聴いた瞬間、確かに心が嬉しいと感じた。だが次の瞬間には苦しさ、悲しくて苦しいという気持ちが心が支配した。
私は、この人に逢ったことがあるのだろうか……?
そうでなければこんなに嬉しかったり悲しかったりと、感情が動くはずがない。逢ってみたい、だけど逢いたくない、そんな相反した気持がまた彩音の中で起りそうになった時。
急に目眩を起こし、膝が折れた。
「彩音!?」
氷蓮が素早く彩音を支える。
「ごめん……、大丈夫。多分、匂いのせいだと思う……」
彩音は氷蓮の腕の中で体勢を戻しながら言う。その言葉で氷蓮がほっとしたような表情を浮かべた。
たいした変調ではなかったためだろう。
「そうか、彩音は初めてだからね……。この香は少しきついかもね。僕達は馴れてるからそんなには気にならないけど」
「え……?」
これがあまり気にならないと言うのなら、それは相当鼻の感覚が麻痺しているのかもしれない。
そう思わざるを得ない程、部屋中に充満した香の薫りはきつかった。
この部屋の香は異常な程焚きしめられていた。鼻腔どころか煙で目も沁みそうな気さえする程だ。
何故そこまでするのか理由は解らないが、あきらかに普通では考えられない薫りの強さだ。
薫りにあてられて気分は良くないが、倒れている暇もない。
倒れたら何のためにここまできたのか意味がなくなってしまう。
「大丈夫か……?」
気を取り直したとき、寝台の主から案じる声がかかった。
「はい……、大丈夫です」
本当はあまり大丈夫ではないが、今ここで倒れてはいけないと思い、何とか踏ん張る。
彩音は隣に立つ氷蓮、寝台の中にいる人、二人を交互に見る。
朔夜は無表情のまま、ただ立っている。
隣にいる氷蓮が彩音に訊ねる。
「ね、彩音……。本当に何も思い出さない……?」
彩音が眉間に皺をよせ、訝しむように氷蓮を見る。
「何を? 私はこんな所、初めて来たのよ。思い出すも何も、こっちがいろいろ訊きたいぐらい」
そう返すと、氷蓮は哀しそうに、親に捨てられた子供のような、辛く哀しみを滲ませたような瞳を彩音に向ける。
「本当に、本当に何も……?」
「知らない……!」
その瞳を直視出来ず、彩音は顔をそらした。
その瞳に心を抉られるように貫かれても、思い出すことはないし、知らない。
顔をそむけ、黙ってしまった彩音に氷蓮はなす術もなく立ち尽くす。深い哀しみに満ちた表情で。
しばらくは沈黙だけが場を支配したが、それを破る一声が氷蓮にかけられた。
「黒曜、後は私が引き受ける。さあ、こちらへ……」
寝台の主だった。
氷蓮がはっと顔を上げ、寝台の主に礼をする。
「はい、陛下」
「えっ!?」
そう返事をすると、氷蓮は訳が解らない表情の彩音の手を引き、寝台の近くで止まった。
だが、おかしい。
寝台の主は氷蓮のことを『黒曜』と別の名で呼んだ。
そして氷蓮はためらうことなくその名に反応した。
それの意味は、今、彩音を連れてきた男は『氷蓮』という名前ではないということ。
何故、名前を偽っていたのだろうか。
「一体どういうこと!? あなた氷蓮って名前じゃないの!?」
彩音は声を荒らげ、そむけていた顔を再び氷蓮――、黒曜へと向けた。
驚きと騙されたショックを受け、その怒りを傍にいる黒曜にぶつけた。
「ごめんね」
黒曜は哀し気な表情だ。彩音を騙していたことを心苦しく思っていたのだろう。
心の底からの詫びの一言。
その表情に彩音は心を突かれた。まるで自分が悪いことをしたような罪悪感に捕われたからだ。
自分の方が被害者なのに。
もっとあたろうと思っていたが、口に出たのは「もういい……」だった。
あんな表情を見ては、あれ以上あたれなかった。まるで弱い者いじめをしているような気分になって、後味が良くない気分にさせられただろうから。
「二人には苦労をかけたようだな」
「いえ……。僕は大丈夫です。それよりも彩音に全てを話して上げて下さい」
黒曜が寝台の主に言う。
それは今まで見たこともない、毅然とした態度だった。
「ひ……、黒曜」
彩音は今まで見たことのなかった黒曜の態度に少し驚いたが、それよりも嘘をついてはいたが、ちゃんと自分のことを考えていてくれた黒曜の心が嬉しかった。
「勿論だ。そのためにここまで来てもらったのだからな……」
寝台の主が答える。
「氷月……、こちらへ」
寝台の主が彩音を枕元へ呼び寄せる。
と、同時に、彩音の眉が微かに不快な表情をみせた。
(また氷月……。一体氷月って誰……?)
自分の知らない名前で呼ばれる。
しかも自分を『氷月』と呼ぶ者達は、私が『氷月』という人であると信じて疑わない。
そんなに自分は氷月という人に似ているのだろうか。
そんなことを考えたとき。
「彩音、どうしたの? また気分でも悪くなった?」
はっとして声の方を振り向く。
そこには黒曜が心配そうにして彩音を見ている。
「あ、ううん。何でもないよ」
少し気をとられてぼんやりしただけだが、気分が悪いように見えたらしい。あわてて手をふり、否定する。
「そう? それならいいんだけど」
黒曜がにっこり微笑む。
(そうよ。そんなの今考えないで直接訊けばいいんだから……。そのためにここに来たんじゃない)
彩音はそう思い、気を取り直して枕元へ行こうと、一歩を踏み出した瞬間。
「陛下、傍までお呼びにならなくても会話は出来ます」
朔夜が寝台の主に進言し、彩音の足を止めた。
「構わない。朔夜、気持だけ受け取ろう」
「畏れ入ります、陛下……」
余程彩音を嫌っているのか、最後まで彩音の妨害をする朔夜だが、寝台の主には逆らえないのか、大人しく引き下がる。
だが、視線は冷たく彩音に突き刺さる。視線だけででも牽制しようとするように。
しかし彩音にすれば朔夜に仕返しするいいチャンスである。
彩音は嫌味たっぷりの表情で朔夜にそれとなく微笑すると、遠慮なく枕元まで進む。
朔夜は無表情のままだが、内心はかなり腹立たしいに違いない。
そう思うだけで彩音は胸がスッとする。
彩音が枕元ギリギリまで近付こうとしたとき「彩音!」振り返ると黒曜がぐいと彩音の腕を引っ張った。
「え、何? どうしたの?」
びっくりして心臓がどきりとした。
「そこまで近づかなくてもいいよ。ほらここの椅子に座って」
黒曜が用意した椅子は、枕元からは少し距離がある。話すには少し遠い距離だ。
「ねえ、話すんだったらもう少し、枕元まで行った方がいいんじゃないかな?」
「いや、これくらいでいいんだよ。陛下は身体の具合が悪いから、ね……」
黒曜が返す。
(ああ、だから寝室なのか。そういえばそうよね)
よく考えれば、招待した客と話すのに寝室はないだろう。客をもてなすにふさわしい部屋での謁見となるはず。
それが寝台から顔も出せないと来れば、相当具合が悪いのだろうと察することが出来る。
黒曜もはっきりとは言わないが、あまり寝台の主には近付いて欲しくないらしい。
そういえば、さっき自分を呼び止めた声も、あせっていたような気もする。
もしかしたら感染する病気で、自分にうつさないための配慮なのかも知れない。
「わかった」
彩音もそれ以上追求はせず、返事をするとそのまま黙り、用意された椅子に座った。