三章 氷月・三
彩音は氷蓮に手を引かれながら鬱蒼とした森の中を歩いていたが、だんだんと足どりが重くなる。
回りが何も見えなく、怖くて腰が引けているというのもあるのだが、それ以上に何か嫌な空気を感じて足が進まなかったのだ。
入った瞬間から。勘、というのか。
とにかく理由はわからないが、怖い、という気持が彩音の身体を支配して前に進ませないのだ。
氷蓮も彩音のおかしさに気付き歩を止めた。
「どうしたの、彩音。そんなに行きたくないの?」
「えっ……、ううん、そうじゃないんだけど……」
彩音が言い淀む。
「だけど?」
氷蓮が強くその先を促す。
彩音も話せと言わんばかりに促されたので話そうとしたのだが、何故か言葉が詰まって話せない。
「どうしたの?」
態度にはみせないが、氷蓮の言葉は少し苛立っていた。
それも当然だ。
今、こんな場所で足止めをくっている場合ではない。一刻も早くこの森を抜けなければいけないのだ。
時間がない。闇が深まれば深まるほど、魔物に襲われる確率が高くなる。王宮の敷地内の森でも例外ではない。闇があるところに魔物は出る。なのに彩音がぐずっていて進まない。苛立つのも当然だ。
だが彩音の方も苛立っていた。自分自身に。理由を話したいのに話せない。
しかも何で話せないかが解らない。喉を誰かに圧迫されてるかのように、声をうまく出す事が出来ない。
まるで話すなというように。
苛立ち、うまく言葉に出来ない不快感、それらの感情を処理しきれなくなったとき、とうとう彩音は泣いてしまった。処理不可能な感情が爆発して『泣く』という行動にはしらせた。
「あ、彩音!?」
氷蓮が頓狂な声を上げる。いきなり泣き出されれば氷蓮も驚く。
「ごめん、話したくないならもういいから。ね、泣かないで……?」
氷蓮は小さな子供のように泣きじゃくる彩音を抱きしめ、優しく頭を撫でて宥める。
「~~~~」
彩音はとても恥ずかしかった。
泣くのは嫌いなのに、人に涙を見せるなんて絶対嫌なのに、それをどうにもできない自分に余計に腹が立った。
普段ならこんな事はないのに。
何だかこの森に入ってからおかしくなってきたような気がする。そんなことを彩音は漠然とだが感じた。
氷蓮はしばらく彩音の頭を撫でて落ち着かせようとしてくれた。
彩音も、優しく抱きしめられて徐々に落ち着いてきた。
氷蓮の腕の中は暖かかった。その暖かさに身を委ねていたとき、ふっと思った。
(あれ……? この感じ……どこかで……?)
記憶はないのに、身体が、感覚が。この暖かさを懐かしく感じさせた。
(何でだろう……、解らない。けどすごく懐かしいような……、嬉しいような……?)
氷蓮の腕の中でそんなことをぼんやり考えていたとき、急に彩音の身体が宙に浮いた。
「きゃっ!」
彩音は氷蓮にしっかりと抱きかかえられていた。
「ごめんね、彩音。今は本当に時間がないんだ。だからしばらく我慢してね」
「えっ!? あの……?」
彩音はいきなりの事でびっくりしたが、氷蓮は返事も聞かずにそのまま目的地へ向かい走りだした。
氷蓮は彩音の体重など感じていないかのように、かろやかに闇の中を走り抜ける。
彩音は落ちないようにしっかりと氷蓮の首にしがみつきながら、ふとあることに気がついた。
(あれ……?)
衝撃がないのだ。
明かりなどない森の中、どこにぶつかってもおかしくはないのに、氷蓮はどこにもぶつからないのだ。
道はあるが、人一人が歩いて少し余裕がある程度の道幅の上、ただでさえ視界の悪い森の中。
しかも今は夜でさらに深い闇に包まれているのだから、走っていれば多少なりとも木の枝に掠ったりぶつかったりしてもおかしくない。
それなのにその中を氷蓮はぶつかりもせず、しなやかに走り抜けていく。
闇に馴れた住人が、陽の下で生活する人達より遥かに夜目が利くだろうことは予想出来る。
だが、その予想を上回り過ぎている。すごいを通り越して怖い。
(この人、一体……?)
彩音が心の中で自分に対してそんな疑問を持ち始めているとも知らずに、氷蓮は目的地に向かって走る。十分程走っただろうか。
「はい、到着」
そう言って、大事に抱きかかえていた彩音を地面へそっと降ろした。
彩音は地面を踏み、氷蓮の見つめる方へ視線を動かす。
その先には、こじんまりとした離宮があった。
離宮のある場所だけ多少ひらけているらしいが、回りが重苦しい木々に囲まれていて、閉じ込められているようにも思える。とは言っても王宮も同じような雰囲気だったが、離宮は大きくない分余計にそう感じる。
氷蓮は彩音の手を取り、離宮へと導いた。足下が見えず、こわごわと一歩を踏み出したその瞬間。
ぽっぽっと音をたて、道に設置されていた灯篭に淡い灯が灯った。彩音達を中へ導くように、ふわりふわりと柔らかく道を照らす。
びっくりした彩音が小さく肩をすくめた。そんな彩音をみて、くすりと氷蓮が微笑む。
灯りに誘導され離宮の入り口まで着いたが、そこでまた彩音の足が止まった。
「どうしたの? さあ早く」
氷蓮が彩音の手を軽く引っ張り、入るように促す。
「…………」
だが、彩音は動かなかった。いや、動けなかったのだ。
得体の知れない嫌悪と恐怖感が心の奥底からわき上り、一歩でも進めば気を失いかねないぐらいの緊張を強いられていた。
顔は青ざめ、額にはいつのまにか冷や汗も滲んでいた。
何故だかわからないが、彩音の意思とは関係無しに心も身体もこの中に入ることを拒むのだ。
この中で今考えられる嫌なことといえば、朔夜と会わなければならないことぐらいだ。
だが、こんなにおかしくなるほど嫌なわけではない。少し我慢すればいい程度のものだ。
だから何故、こんなにおかしくなるのかが自分でもわからない。
まるで自分の知らない心がもう一つあって、それが固くこの中に入ることを拒否しているような感じなのだ。
自分でもどうにも出来ないもう一人の自分。それが、彩音に必死に訴えかけているようだ。
行くな、行くなと。
「彩音?」
氷蓮が彩音の様子のおかしさに気付き、引き返そうとした瞬間、彩音がその場にしゃがみこんだ。
「彩音!?」
氷蓮が顔色を変えて彩音のそばへ急ぎ寄る。
「どうしたの彩音!? 大丈夫!?」
背を丸め、膝をついて苦しそうに口元を押さえる彩音。
猛烈な吐き気に襲われ、立っていられなくなったのだ。
胃液が喉元まで込み上げ、ものすごく苦しい。苦しくて目に涙も滲む。
氷蓮は傍にしゃがみ込み、彩音の具合を少しでも和らげようと背中をさする。
彩音はそんな氷蓮を安心させるために、騙しもできないが、せめて言葉だけでも大丈夫と答えようとするが、言葉にすることは出来なかった。吐き気を落ち着けることに全神経が優先されたからだ。
ただ、かろうじて視線だけで大丈夫だからと答えた。
だがどうみても大丈夫でないのは一目瞭然。早く落ち着ける所に連れて行って休ませたい。
「彩音、中に入ればゆっくり休めるから。もう少し我慢して?」
言うが早いか、氷蓮は彩音を抱き上げ中へ入ろうとしたが出来なかった。
「彩音、暴れないで! 大丈夫だから」
彩音が氷蓮の腕の中でひどく抵抗したからだ。
彩音も中へ入ってゆっくり休みたい、だけどもう一人の自分が必死になって抵抗する。
絶対に中へは入りたくないと。
もうどうしたらよいのか解らなくなっている彩音は、もう一人の自分の感情に引きずられ中に入りたくないと必死に氷蓮に抵抗するしかなかった。
入りたい自分と、入りたくない自分。
どっちの感情が本当の自分なのかわからない。ただ、今の感情の赴くままに行動するしかなかった。
これには氷蓮も困った。
こんなに具合の悪そうな彩音は見ていられない。一刻も早く休ませてあげたいが、肝心の彩音が暴れて離宮の中へ入れない。
何故こんなに嫌がるのか理由もさっぱりわからない。だけどどうしようもなく辛そうなのは一目瞭然。
とにかく落ち着かせなければ。
「彩音、落ち着いて。何も怖いことはないから、ね?」
優しい声音で宥め落ち着かせようと試みるが、その言葉も耳に入らないぐらいパニックを起こしているようでまったく効果がない。
氷蓮は困り果て、つい声を荒らげた。
「氷月! お願いだから落ち着いてくれ! 怖いことなんて何もない、僕が傍にずっといるから。一人にはしない、もう、絶対に一人にはさせないから……」
最後の方の言葉は腹の底から絞り出すように言い、腕の中で暴れる彩音を身体全体で強く抱きしめる。
息も出来ないぐらいに。
彩音が言葉を理解したかどうかは解らないが、氷蓮の体温を苦しいぐらいに感じ、その温もりで彩音の中の何かがはじけた。
瞬間、彩音の瞳からまた溢れるように涙が流れた。
「え……?」
彩音は自分の頬を伝い落ちる涙に触れる。
「何で……、こんなに涙が出るの? 何で、こんなに心が痛いの……?」
氷蓮の腕の中でぼんやりと呟く。
「氷月……」
氷蓮がおとなしくなった彩音から静かに身体を離し、纏っていた着物を床に敷き、その上に彩音を座らせた。
彩音はただ泣いている。どれだけ涙を流せばいいのか自分でも呆れた。でも止まらないのだ。
氷蓮は彩音の横に座り、彩音の頭を優しく撫で、包み込むように抱きしめた。
彩音も抵抗せず、なすがままに氷蓮に身体を預けた。
会話はないけれども、氷蓮の温かさが言葉のかわりのようなものだった。
しばらくそうしていると二人の背後から冷たい声がした。
「何をしているのですか、あなた方は。気配はあるのにいつまでたっても来ないと思えば、こんなところで時間を無駄にして」
朔夜だった。
腕を組み、呆れはてた眼差しで二人を見下していた。
だが普通、自分の主君に対してこんな不敬極まる態度はとらない。こんな状況をみれば、何があったのか真っ先に訊ねるのではないだろか。
それなのに心配もせず、遅れたことを責めるだけ。これではまるで、自分の方が主君より格上であるような振舞いだ。
「ああ、ごめん。ちょっといろいろあってね」
そして氷蓮もそんな朔夜の態度など気にしてはいないようだ。
何故臣下に軽んじた態度をとられても平気なのか。こちらもわからない。
「早く支度を。待つ身の事もお考え下さい」
そう言い捨てると、朔夜は踵を返し一人さっさと離宮の奥へ消えた。
氷蓮がふぅと溜息をついた。
「あーあ、朔夜が出て来ちゃったね。これ以上遅くなると今度は何を言われるか。氷づ……じゃない、彩音ももう大丈夫だよね?」
氷蓮が立ち上がり、彩音に手を差し伸べる。
「うん……。もう大丈夫。ごめんなさい……」
涙は止まったが、少し身体が怠い。だが今はそんなことを言っている暇はない。
彩音は頬の涙を袖で拭うと、差し出された手を取り、自分の下に敷かれた氷蓮の着物も持って立ち上がった。
ぱたぱたと埃を払い、氷蓮に返す。
「ごめんなさい。着物、汚しちゃって……。こんなに綺麗なのに……」
少し項垂れ、申し訳無さそうに氷蓮に渡した。
「気にすることはないよ。こんなのはいくらでもあるし」
氷蓮は『こんなの』とは言うが、生地もおそらく絹(?)で、その中でもさらに最高級であろうかというものを使い、細やかできらびやかな刺繍の入ったもの。それらを使い捨てのように扱える氷蓮の身分に改めて気付かせる。
なのに何故、朔夜は氷蓮に対してあんなに横柄な態度がとれるのか。そう思ったときにはもう言葉が出ていた。
「ねえ、何であいつはあんなに態度が大きいの? 私に対して大きいのはまあ……納得するとして。氷蓮はこの国の皇帝でしょ? それであいつは臣下で、もっと低く出るべきはずよね。それに氷蓮も気にしてないみたいだし。何で?」
もっともな疑問だった。
彩音がじっと氷蓮の目をみて答えを待っている。氷蓮は苦笑すると、彩音の背中に手をまわした。
「その答えはもう少し後でね」
「えー、今じゃないの?」
かなり残念そうに氷蓮を見上げる。
「お楽しみは取っておいたほうがいいでしょ? それに早く朔夜の所に行かないと、今度こそ何されるかわからないよ?」
「知らない、あんなやつ! 何かされたら絶対に仕返ししてやるから」
氷蓮は「それは頼もしいなぁ」と笑うと、さぁと言って彩音の背を押し、ようやく離宮の中へと入って行った。
ここで全ての未来が狂わされるとも知らずに……。