三章 氷月・二
月も傾きかけ、今よりさらに深い闇が辺りを呑み込み始めた頃。
彩音達は王宮の裏手を歩いていた。
王宮を守る堅牢な扉をいくつかくぐり外へと出ると、彩音達の眼前には何人も通さないというような、鬱蒼と茂った森があった。
どこまで眺めても、前には森、後には王宮を囲む高い壁しか見えない。
闇が深まりかけているだけに、深さのわからない森と堅牢な壁とに囲まれていると、目には見えない不安感と無気味さ、圧迫感を感じてたまらない。
彩音はすっかりとこちらの衣装で身を整えたが、どこか居心地が悪そうだ。それに気付いた愛華が「お似合いですよ」と声をかけた。
「ありがとう。でもやっぱりちょっと、ね……」
衣装の裾を軽く持ち上げてみる。まさに映画やドラマでしかみない、古代の人が来ていたような衣装。
足元まですっぽりと隠れ、裾を少し引きずるようなスカート。彩音にとって、流石にそれは歩きにくいので足首の所まで裾を上げてもらった。本当は膝まで上げたかったのだが、はしたないということで上げてもらえなかった。
日常でこんな衣装を着ることはないし、普段は活動しやすい服を着ているので、こう、ふわふわと柔らかな衣装はどうにも着慣れないし恥ずかしい。
着ていた洋服は洗濯してもらっているので、それが乾くまでの辛抱だと自分に言いきかせる。
彩音は思考を切り替えるように、隣に立つ愛華に話しかけた。
「ねえ、もしかしてだけど、この森に入るの……?」
「はい」
不安そうに愛華の顔を見、そう訊ねてみたが、愛華の方は当然ですと言わんばかりの表情と柔らかな笑みで彩音に答える。
「大丈夫ですよ。私は御一緒出来ませんが、陛下と朔夜がおりますわ」
優しく彩音の肩を抱いて、安心させるように言った。
「えっ、愛華は行かないの!?」
「ええ、申し訳ございませんが……」
「何で一緒に行かないの? 私、この人が一緒なんて絶対にイヤ!」
そう言うと、近くに立つ朔夜をキッと睨み、指差す。
朔夜の方は彩音に背中を向けてただじっと暗い森を見ていた。
キイキイと煩い小娘の言葉などに耳を傾ける気もないらしい。
愛華は娘の我が儘に困ったような母親の顔をして彩音を見る。
と言っても愛華の場合は娘より妹の我が儘に困る、といったほうが似合うのかもしれない。
見た所、まだ二十~二十五歳ぐらいの感じだ。
苦笑し、ふぅと軽く溜息をついて、こちらを振り向きもしない無関心な男に愛華が言った。
「本当に嫌われているのねぇ、朔夜?」
愛華の言葉にも朔夜は振り向かない。
「愛華、そんな人ほっとけばいいじゃない。私、愛華が一緒に行かないんだったらここから先には絶対に行かない」
全身から拒絶のオーラを出しつつ、男と朔夜にきっぱりと言った。
「困ったなぁ……。氷月、機嫌をなおして、ね……?」
「彩音様……、嬉しいお言葉ですけど陛下を困らせるのはいけませんわ」
男は腕を組み、困った表情を浮かべて、彩音と朔夜を交互に見ている。
陛下。
彩音の目の前に立つ男がこの闇の世界の最高権力者、皇帝だったのだ。
最初はそうきいても信じられなかった。
ぱっと見、気位も高くなく、人懐こい笑顔とどこか庶民的な雰囲気を感じさせるので、あまり偉そうには見えない。
彩音の中で皇帝というイメージは、もっと歳をとっていてプライドが高く、傲慢で我が儘そうといったものだったので、自分のイメージから随分外れた人を目の当たりにしたのでギャップに驚いた。
態度だけで言えば、朔夜の方がぴったりだ。
皇帝の名前は氷蓮というのだと、愛華が教えてくれた。
他にも色々と教えてもらった。この世界は二つに別れていて、昼の世界と夜の世界になっているということ。
お互いの世界は空間が捻じれてしまっているので、行き来はそう簡単には出来ないし、別れた世界のことはよく分からない。
だが、昼の世界はこことは逆に、一日中太陽が昇っている所らしい。
今いるこの世界は『太陽』がなく、一日中闇に包まれた世界だということ。
月が出ている時が日中で、月が沈み墨を溶かし混んだように重く暗い闇がおりてきた時が夜。
もともとはこの世界も、遠い昔には彩音のいた世界のように昼には太陽が昇り、夜には月が輝いていたのだが、あることで昼と夜の世界に別れてしまったそうだ。
それ以来、この世界のものは陽の光りというものを見た事がないそうだ。
そして何故私がこの世界に呼ばれたのかは氷蓮しか知らないということ。
理由は氷蓮が直接話してくれるからと言われた。
支度を整えて部屋で待っていたら話は別の場所でと言われ、こんな所まで連れてこられたが……。
話をするだけなら氷蓮だけで充分なはずなのに、何故朔夜まで一緒なのか。
確かに朔夜の職務上、そうしなければならないのもわかる。
朔夜はこの国の筆頭将軍で、国の軍事関係より皇帝の護衛が主であるとのこと。
頭ではわかっていても、感情はそうはいかない。あれだけ自分に対して酷い事をされて謝罪の一言もなし。
おまけにどうやら相手は自分を良く思っていない、そんな人と一緒にいられる程彩音はまだ大人ではない。
まだ十七歳の少女には、そこまできれいに割り切る事は出来なかった。
とにかく、どんな手を使っても朔夜とは一緒にいたくない。彩音は何も言わず、愛華の側から離れない。
「返事もしてくれないのかい? 朔夜が同行するのは仕方がないんだ。お願いだから言う事をきいてくれないかな、氷月……」
「じゃあ、その理由を教えて下さい。なんで愛華はだめでその男はいいの? それに話を聞くだけなら外じゃなくたっていいはず」
「王宮で話せないのは理由があってね。朔夜が同行するのは、護衛役で必要なんだ。納得してくれないかな……?」
「納得したくない」
彩音は絶対に嫌だという表情をし、ふいっと横を向く。
「氷月~〜」
氷蓮が情けない声を出す。
本当に皇帝なのかと疑いたくなるぐらいの情けなさで、腰を低くし、年下の少女に懇願する。
その様を見た彩音は、少し可哀想かなと思ったが、今まで自分が朔夜にされてきた事を思うと同情心も吹っ飛ぶ。
(悪いけど、やっぱりあの男のことでは譲れない)
愛華が見かねて彩音を何とか説得しようとしたとき、朔夜が口を出した。
「陛下、もう時間はありません」
感情のこもらない声でそう告げると、彩音の方へ来た。
そして、無造作に彩音の腕を掴み、自分の方へ引っ張った。
「きゃっ! 何するのよ、離して!」
「ここで費やす時間はない」
掴む腕に力が込められる。
「痛い! 離してよ! そんなの知らないわよ!」
「今、お前の意見は求めていない」
「~~~~!!」
信じられない。
何でこんな事を言われなければならないのか。朔夜から嫌われているのはわかる。
だがこの一方的なものの言い方は気に入らない。
頭ごなしに言われてはいそうですかときき入れる程彩音は素直ではない。
ましてや酷い事をされた相手なら。
絶対にあんたの言う事なんてきかない! と睨み付け、 彩音は足をふんばり、引きずられないように抵抗する。
「…………」
朔夜が舌打ちをする。
彩音の抵抗する姿が癇に触ったらしく、さらに力を強め引きずろうとしたとき。
「やめろ、朔夜! やりすぎだ」
氷蓮が朔夜の腕を掴む。
氷蓮に掴まれ、朔夜の力がゆるんだ隙に、その手を振り払い、彩音は愛華の側にさっと逃げた。
その細い手首には、朔夜の指の跡が赤く残っている。
「大丈夫? 氷月」
彩音は答えなかったが、その手に残る赤い跡を見、どれだけの痛みを与えたかがわかる。
見るだけでも痛々しい。
「彩音様……」
愛華が彩音の痛ましい細い手首をそっと両手で包む。優しく包み、癒すように、そうっと。
彩音は愛華の優しさがとても嬉しかった。
朔夜に心を傷つけられただけに、暖かい優しさがとても心にしみる。
「氷月、すまなかったね」
氷蓮も謝り、慰めるようにそっと頭を撫でた。
「いい。あなたが謝ることじゃない。謝るのはあいつ!」
そう言った彩音の視線の先には当然朔夜。他の誰にも謝って欲しくない、私に頭を下げるべきなのはあいつだ。
強い怒りと、くやしさの混ざった視線で朔夜を睨みつける。
だが、当の朔夜は感情のない表情でこちらを見、「陛下、もうすぐ夜になります。ここで時間を費やしている暇はないはずです。違いますか?」何事もなかったように淡々と言う。
「確かに。だからといって、氷月に対する今の態度は見逃せない」
こちらは不快さを表わした声で答える。
「わかった。もう時間もない、先に私と氷月で行く。それでいいな」
「御随意に」
朔夜は頭を下げた。
「氷月、朔夜とは別に行く。それで譲歩してもらえるかな?」
「それって、結局最後はあの男と合流するってことよね」
「まあ、ね。すまないがそういうことだ」
「…………」
彩音は拒否したかった。
だが、ここで折れなければいけないということも理解していたが、そう簡単に感情の折り合いがつけられない。無理やり折り合いをつけるために、彩音は一つ条件をだした。
「……わかった。我慢する。だけど、一つお願いがあるの」
「なんだい?」
「私の名前は彩音。香月彩音。氷月っていう名前じゃない。彩音って呼んでくれなきゃ今度から返事しないから」
氷蓮は少し戸惑った。彩音は確かに氷月なのに。
そう呼べないのには納得いかないが、仕方がない。
今は時間もないので、とりあえずわかったと答える。
「では行くよ、氷……ではなく彩音」
「わかった」
彩音は愛華の手をといて、きゅっと握る。
「ありがとう。もう大丈夫」
そう言うとくるりと身を翻し氷蓮の元へ行こうとした、が、何を思ったかいきなり朔夜の方へ向きを変え、朔夜の後で束ねた髪の毛を思い切り引っ張る。
「なっ……!」
不意をつかれ、一瞬朔夜がバランスを崩す。
「今までのお返しよ!」
彩音がその隙をついて朔夜の頬を叩こうとするが、朔夜はすぐにバランス戻し余裕で彩音の手を叩いた。
ぱんっ、と乾いた音が響いた。
「このような事をするとは、育ちが知れるな」
「あんたもね」
結局ささやかな仕返しは失敗に終わったが、それでも彩音の気は少しだけ晴れた。そして、そのまま氷蓮に連れられ深い森の中へ消えた。
二人を見送り、自分の前に立つ男の背中に愛華は話しかけた。
「非道い人ね、朔夜」
朔夜は振り返り、愛華に返事をした。
「何を指してそう言うのか、私には解らんな」
「まったく……」
愛華がはぁ……と呆れて溜息をつく。
「それよりもあの子、本当に氷月様なのかしら?」
「陛下がそう言うのだ。間違いはない」
「でももし、陛下が間違われていたとしたら……?」
朔夜の眉がわずかに動く。
「あるわけがない。陛下に間違いはない」
くだらない事をわざわざ言うなという口調で返す。
愛華の方も朔夜がこう返すだろう事は分かっていたらしく「つまらない」と軽く笑うと朔夜に近づき、両手でぽんと肩を軽く押す。
「早く行ったら? 大事な陛下が待ってるわよ?」
「言われなくても行く。余計な世話だ」
「可愛いくないわね」
愛華は少しむくれるが、朔夜の方はもう用は無いと、振り向きもせず氷蓮達の入った森へと消えていった。
愛華は朔夜の姿が見えなくなるまで見送ると「本当に可愛いくない」と呟き、視界がききにくくなりかけた闇の中を足早に王宮へと帰って行った。