三章 氷月・一
朔夜は王宮の奥宮の一室にいた。
衣装も紺青色を基調とした官服に着替え窓際に凭れていた。
窓の外に向いていた視線が、部屋の入り口の方へと動く。
その視線の先にはすらりとした長身の若い男がいた。
腰までかかる長い黒髪、雪のように白い肌、そしてその身には見た目にもすぐわかる程の極上の布を使い、金糸銀糸もふんだんに使った豪奢な刺繍の入った着物を纏っている。
明らかに朔夜より身分が高いとわかるような姿と雰囲気だ。
男は優美な足取りで朔夜の側まで来る。
「朔夜、彼女は?」
男が問う。
朔夜は無言のまま、男に一礼し、視線だけを左奥、寝台のある方へ動かした。
それだけで男はわかった様だった。
男はすぐに寝台の方へ向かい、天蓋からかかる薄布を分け、中を覗く。
少女が眠っていた。彩音だった。
男は寝台の端に腰掛け、彩音を確認すると抱き起こし、そのままその腕の中に抱きしめた。
「氷月、氷月……!」
彩音の小さな肩に顔を埋め、逃げないように、逃げられないように、ぎゅっと抱く。
「ん……」
ぴくりと彩音の指が動いた。息苦しさに気付き、目を覚ます。
「くる、しい……?」
何で息苦しいのかすぐに理解した。
直に感じる自分ではない別の人の体温、そして自分を抱きしめる、しなやかだがほどよく筋肉のついた腕。見も知らぬ男に強く抱きしめられていた。
「きゃあっ!」
反射的に男を押し退けようとする。
が、男は力を緩めただけで彩音を腕の中からは離さなかった。
「な……、何? 離してよ!」
彩音があたふたしながら言う。
何がどうなっているのか、またもや訳が分からない。今度は息苦しさで目を覚ませば見知らぬ男の腕の中。
次に眠って目を覚ましたら、今度はどんな訳の分からないことが起こるのか……。
思わずそんな思考が頭をよぎったが、とりあえず今はこの見知らぬ男の腕から一秒でも早く抜け出すことだ。
「ああ、ごめんね。君に逢えて嬉しすぎてつい。苦しかったよね?」
そう言うと、男はすんなり離れた。
そして、彩音の正面に座りなおし、にっこりと優しい笑みを彩音に向ける。
「おかえり、氷月。ずっと待っていたんだよ、君が帰って来るのを」
「え……?」
彩音はあっけにとられた。
何を言っているのだろう、この人は。
私を待っていた? ずっと? そんな事を言われても自分はこんな人は知らない。
第一、名前を間違えている。
私は『氷月』何て名前ではない。人違いではないのだろうか。
「あのっ……、人違いじゃないんですか? 私、氷月って名前じゃありません。彩音、香月彩音です」
そう、きっぱりと目の前に座っている男に言った。
男は一瞬、きょとんとした表情をしたが、すぐにまた優しい笑みを浮かべた。
「違うよ、君は氷月。間違いないよ。ああ、まだこっちのことは思い出してないの?」
男は優しい表情を浮かべながらも、彩音が『氷月』という人だと思いこみ、譲らない。
「だから、違いますって! 私は彩音、『氷月』って名前じゃありません!」
彩音はもう一度男に強く否定した。
が、男は彩音の言う事は聞いてはいないようだ。
男は寝台を降り、彩音に手を差し伸べる。
「さ、氷月、こっちに」
「…………」
彩音は不満を持ちながらも黙って従う事にした。
何度言っても理解してくれそうにない事を感じたからだ。
それに今もここが何処で自分がどうなるかもわからない状況。
とりあえず今はおとなしく言う事をきいた方がいいのかも知れない。
そう考え、仕方なく男の手を取って寝台から降りようとしたとき、彩音の動きが止まった。
「どうしたの、氷月?」
男は彩音の視線が自分の後に注がれている事に気付き、振り向く。
そこには朔夜がいた。
「朔夜か」
あの暗闇の中ではよくわからなかったが、明るい部屋の中で見るとやはり整った顔だった。背も高い。一八〇センチはありそうだ。だが、その表情は初めて会った時同様、冷たかった。
彩音の表情が一瞬で変わった。寝台から飛び下り、朔夜の前に立つ。
「あなた、私に何したのよ! いきなり変な匂いを嗅がせて、理由がわからないまま強引に人を攫って、いったい何なの!?」
一気にまくしたてると、肩で息をつき、怒りの表情で朔夜を見上げる。
「あはははっ! すごいね、朔夜に面と向かってこんなこと言うなんて!」
その様子を見ていた男が笑い出した。
が、当の朔夜そんなことはどうでもいいらしく、目の前の彩音を無視し、笑う男の前に来ると「早く支度をさせて下さい。くだらない話につきあう程、私に暇はありません」と、彩音をまた冷たく一瞥して言った。
「ちょっと、どういうことよそれっ! 勝手に人を攫ってきてくだらないって……!!」
「はいはい、そうだね、わかってます」
男が朔夜と今にも朔夜に飛びかかりそうな彩音の間に割って入って返事をした。
「氷月もほら、落ち着いて、ね……?」
そう言って彩音を宥めようとしたがそんな言葉程度では彩音の怒りはおさまらない。
きっ、と男を睨み付け「落ち着けるわけないでしょう! だってこの人、私の意思なんて無視して攫ってきたのよ!?」
そして男以上に朔夜をきつく睨み「それに、一番気に入らないのがその人を見下した目! 私が気付かないとでも思ったの!?」と、交互に二人の男に怒りをぶつける。
「小娘の癇癪に付き合う暇はない。それに私は命令に従っただけだ。お前の後にいる男の命令に、な」
眉一筋動かさず、感情のこもらない声で朔夜は言う。
「えっ!?」
彩音は驚きの表情をし、自分の後に立つ男を振り返る。
「それ、本当なの!?」
「ああ、本当。僕が朔夜に頼んだの、君をここに連れて来てってね」
にこりと男が微笑む。
「でも、相当迷惑かけたみたいだね。そこまでの言われようだと」
ちらりと朔夜へ視線を流す。
「そうよ、本当に最低だったんだから! でも、何で私なの……? 何で……?」
怒りより、疑問に思う気持のほうが強くなったのか、彩音は少し落ち着きを取り戻した。
「本当にわからない? 何でここに来たのか……」
彩音は軽く頭を左右に振った。
「わからない……。こんな場所、知らない。ここは一体何処なの? 私、どうやったら帰れるの? 早く自分の家に帰りたい……」
彩音は俯いた。家族のことを思い出し、今まで我慢して来た不安が堰を切ったように溢れだした。
「氷月……」
男が不安に沈む彩音を安心させようと言葉をかけようとした時、部屋の入り口のほうから別の声がかかる。
「陛下、愛砂が捜しておりますわ。氷月様のことは私に任せて、愛砂のところに御出で下さい」
見ると、そこにはいつの間にか女が一人いた。
華美ではないが、それなりの正装をした、可愛らしい雰囲気を纏った女性。
長い黒髪は高く結い上げ、手で軽く口元を隠して、くすりと男と彩音に向かって微笑んだ。
「愛華……。いつの間にいたの? 全然気付かなかったな」
「それは陛下が氷月様に気を取られ過ぎているからですわ。嬉しいのは分かりますけど」
「返す言葉もないな」
男が苦笑する。
「じゃあ、氷月のことは愛華に頼もうかな。愛砂の機嫌を損ねるのは怖いしね」
そう言うと、ちょっと肩をすくめた。
「お分かりなら急いだ方が賢明ですわ。あと、朔夜が夕方頃お迎えにあがります」
「あれ、そういえば朔夜は?」
「まあ、気付かなかったんですか? 私と入れ違いで出て行きましたわ」
言われて気付けば、ほんの先程までいたのに今は部屋の何処にもいない。
「本当に仕様がないわね。陛下に挨拶もなしなんて」
女が少し眉をしかめ、困った顔をする。その表情は子供のいたずらに手を焼く母親のような感じだ。
「別にいいよ。気にしてないし」
「ですが……」
「公の場でそうされると困るけど、朔夜に限ってそれはないし。それより氷月のこと頼んだよ、愛華。僕も夕方には戻るから」
「畏まりました」
「じゃあね、氷月。解らないこととかがあれば愛華に言うといい」
そう言うと、柔らかく人懐こい笑みを彩音に向けて男は立ち去った
「ねぇ、夕方って……、今、夜じゃないの? それに月も出てる。みんな、さっきから何を言っているの?」
彩音が窓から見える暗い闇と月を見、不思議そうな表情を浮かべて愛華に問う。
愛華の方は非常に驚いた表情で彩音を見た。
「氷月様……、何を仰っているのですか? お昼に月が出るのは当たり前ですよ。それに夜には月は出ませんわ」
「えっ、何言ってるの!? 昼間は太陽が出て、夜は月。それが普通でしょ! 確かにここの月の光は結構明るいけど、こんなに暗いのに昼だなんておかしいよ!」
「氷月様……」
愛華が困った顔をする。
おかしい、変だと言われても、ここはそういう世界なのだ。
愛華が生まれた時から、昼には月、夜には闇のみが包む世界なのだから。
それをどう説明しようかと考えていた時に、あら、というような表情になる。
彩音の方もしまった! というような顔になり、頬も少し赤らんでいる。
「氷月様……、お腹が空いているようですね」
「そういえば、1日ぐらい何も食べてないような気がする……」
彩音のお腹が空腹を訴え、催促の音を鳴らしたのだ。
愛華がくすりと微笑む。
「では、まずお食事から。その後に湯殿で身体の汚れを落していただきますね」
そう言うと、彩音の手を引き、二人は部屋を後にした。




