二章 出会い・四
と、そのとき。
丁度大通りの真ん中にいるとき、右の方から音が聞こえた。
蹄の音、馬が走って来る音だった。音は彩音達の方へと迫って来る。
だがそんな音は無視して通りを渡りきり、路地に入ろうとしたとき、蹄の音が止まり男の声が彩音達を止めた。
「待て、そこの女」
「え?」
自分の事だろうか? 思わず反応して足を止めた。
「わ、いきなり止まんなよ姉ちゃん!」
今度は庚賀が文句を言う番になった。
彩音にいきなり止まられ後ろに転びそうになったが、何とかまぬがれた。
庚賀が体勢を戻し、彩音のほうを振り向く。
「あっ……」
庚賀が息をのんだ。
まだ店の軒先に灯っていた灯りが彩音とその近くにいる馬上の男を仄かに照らした。
男は二十〜二十五歳ぐらいだろうか。ぼんやりとした灯りの中ではよくわからないが、それなりに整った顔立ちをしているようだ。
下から見上げているのであまりよく分からないが、背も高そうだ。少し長めの髪を高く一本に結い上げている。
「え、何、どしたの? 知ってる人?」
男を見上げたまま動かなくなってしまった庚賀に彩音が問うた。
だが庚賀は彩音の問いかけに答えられず、口をぱくぱくさせているだけだ。よほど驚いているらしい。
そんな庚賀と相変わらず馬上から彩音達を見下ろしている男を交互に見ながら、彩音は軽く首を傾げた。
自分のことを呼び止めたのか、それとも別の女を呼び止めたのか。
しかし、辺りを見回しても人影などありはしない。
仮にいたとしてもこの暗闇の中、男か女かの判別などつけられないだろうし、出来てもせいぜい人がいるぐらいの程度だろう。
男が馬上から彩音を見ていた。
見る、というよりは品定めをするように観察をされていた。
その視線に彩音が気付き、ムッとした。
「あなた誰? 私に用? 何でもないんだったらもう行くから。さ、行こう」
そう男に言うと、今度は逆に彩音が庚賀の腕を引っ張ってその場を去ろうとしたが、庚賀が硬直したまま動かない。
「どうしたの? 早く家に帰らなきゃいけないんでしょ? 早く行こう?」
彩音がせかすように庚賀の腕を引っ張った。
だが、意外にも庚賀が彩音の腕を振り払った。
「姉ちゃん、この人が誰だか知らないの!? 王都の兵士だよ! しかもすごいえらい人! 藍い着物着てるんだから」
いきなり口をきいたかと思えば興奮して彩音にまくし立てた。
「そうなの?」
「そうなのって……」
彩音がきょとんとした。いきなりそんな事を言われても知るはずがない。むしろ、こちらが訊きたいぐらいだ。
庚賀はこれ以上はないというくらいに呆れかえった表情をし、額に手をあてた。
だが彩音にはそう答える以外の言葉はない。
そんな二人のやり取りなどを無視して男が口を開いた。
「女。お前、ここの者ではないな?」
高圧的な姿勢は崩さず、男は彩音に言った。
彩音は先程に続き、さらにムッとした。男の態度が気に入らないのだ。
ここでいくら偉い人だろうが、彩音には関係ない。
人にものを訊ねるのなら、もう少し言い方というのものがあるはずだ。
少なくとも、彩音が今まで生活してきた場所ではそうだった。
この見も知らぬ場所でそんな態度が通じ、当たり前であったとしても関係ない。
彩音は男の問いには答えず無視した。男の方も彩音のそんな態度など気にする風もない。
「まあいい。お前であることは間違い無さそうだからな。来い」
言い終わらぬうちに、男は馬から身体をずらし彩音の腕を掴んで馬上に引き上げようとしたがかわされた。
何も言わないが、男にはついていかない、そういう視線で彩音は見返した。
そんな彩音の態度に、男は軽く眉をしかめる程度であしらった。
「お前に選択権などない。私と来ればいい。手間をかけさせるな」
あらためて彩音の腕を取ろうと、男が腕を伸ばした。
「痛っ……、離してよ!」
彩音はまた避けようとしたが、今度は避けきれなかった。逃げる方向を読まれあっさりと捕まってしまったのだ。
彩音が男の力の強さに顔を歪めた。
「お前が抵抗するからだ」
腕を掴まれても、なおも男から逃れようとしていた彩音に冷たく言い放つ。
彩音がきっと男を睨み付けて言い返した。
「当たり前でしょう! 何であなた何かの言う事をきかなくちゃならないのよ!」
「ね、姉ちゃん!」
今までかなり気をもみながら二人を見ていた康賀が口を開いた。
「何てこと言うんだよ! 王都の兵士だよ、姉ちゃん大丈夫かよ!?」
康賀が心底、彩音の男に対する態度を心配していた。
その康賀の言葉を聞いてふっと男が口の端で笑った。
「子供の方が良くわかっているな。お前はただ私と来ればいい。何度も言わせるな」
男がぐいっと力をいれて彩音を馬上へ引き上げる。
「きゃあ!」
荷物でも扱うように気など遣わず、男は自分の前に彩音を乗せた。
「痛っ……!」
彩音が小さな悲鳴をあげた。
男の胸に寄り掛かかるような体勢で、右腕をおさえている。
血はでていないようだが、馬上に引き上げられる際に鞍か何処かにぶつけたのだろう。顔を痛みに歪めたままじっと堪えている。
「姉ちゃん!」
庚賀が馬の近くまで駆け寄る。
今にもこの場を去ろうとした男が駆け寄って来た庚賀に気付いた。
「小僧、早く帰れ。さもないとどうなっても知らぬぞ」
男が彩音を抱きかかえたまま言った。
「で、でも……」
庚賀がどうすればいいのか困った表情をしている。男の言う通り、早く家に帰らなければいけない。
だけれども、知り合ったばかりとはいえ、怪我をした彩音も気にかかる。
でも、彩音を連れて行こうとしているのは王都の兵士だ。それも位の高い兵士。
ならば訳はわからないけどこのまま彩音のことは気にしなくてもいいのかもしれないが、彩音は嫌がっているようだったし……。
小さな頭を働かせて考えを巡らせている庚賀に男が言った。
「お前は早く帰れ。そしてこの女のことは忘れろ」
庚賀が男の顔色を窺いながら「でも……」と小さく抵抗したが、男は気にする風もない。
「早くこの場を去れ。闇はもうすぐそこにある。そら、聴こえないか? 闇の声が」
庚賀がびくりとした。
言われ、ゆっくり辺りを見回した。
先程までわずかにあった灯りももう、庚賀達のいるこの一ヶ所だけ。あとは何もみえない夜の闇ばかり。
夜。
それはこの世界では恐ろしいもの。何がそれ程までに恐ろしいのかはわからない。
だが、現に庚賀は怯えていた。庚賀の額を冷や汗が流れた。
彩音のことも気になる。だがそれ以上に夜の方が恐ろしい。
「姉ちゃん、ごめん!」
それだけ言うと、庚賀は彩音に背を向け路地の奥へと勢いよく走り去っていった。
「ええっ!? ちょっ、ちょっと……痛っ!」
彩音が庚賀を追い掛けるため馬から降りようとした瞬間、身体に回されていた男の手が彩音の痛めた右腕を強く掴んだのだ。
彩音は右腕から男の手を強く払い除け、涙の滲んだ瞳で男を睨み付けた。
「何するのよ! あなたなんかにこんなことされる覚えなんかない!」
男は表情も変えず冷たい瞳で彩音を見下ろしながら言った。
「黙れ。私の言う事を聞かず抵抗ばかりするからだ。その痛みはあって当然のものではないのか?」
彩音は驚愕した。
何故、自分がたった今出会った男の言う事をきかなければならないのか。それも自分に対して悪意しか感じ取れない男に。
いや、悪意よりももっと深いものを彩音は感じた。冷たい表情からはよくわからないが、本能というのだろうか、確かに感じるのだ。
自分に対する何か嫌なものを。
「話はここまでだ。行くぞ」
男が手綱を引き、この場から離れようとした。
「ちょっ、嫌だ! あなたなんかとは行かない!」
彩音がなおも抵抗する。
男が舌打ちした次の瞬間、彩音から小さな呻きが洩れた。そしてそのまま男の胸に寄りかかっていた。
「ふん……、愚かな女だ」
どこか蔑むように言い捨てた。男は彩音の鳩尾に拳を入れ気絶させたのだ。
ようやく大人しくさせた彩音を抱えなおし、男は馬を走らせようとしたが、いきなりはっと後を振り返った。
表情に緊張がはしる。
「……気のせいか……?」
男の視界には何も怪しいものはなかった。ただ、深い深い暗闇があるだけだ。
しばらく辺りを警戒し、何もないことを確認すると、男は今度こそ馬を走らせこの場を離れた。
そして、男が去ると同時に唯一灯っていた灯りも静かに消えた。
辺りは何も聴こえない、何も見えない暗闇が支配したが、その暗闇がわずかに揺れ、そこから低いが艶のある男の声が聴こえた。
「先を越されたか。まあ、奴がどうするのかみるのも一興か……」
軽い笑声がしたかと思うと、またゆらりと闇が揺れ、その場から人の気配も消えた。
辺りはまた闇と静寂が支配した空間となった。