零章
星の輝きさえ見えない、何処までも暗い闇と静寂が支配する夜。
明けない夜などない。
そんな言葉も聞くけれど、この世界には明るく暖かい陽などは訪れない。
ただただ、重く暗い闇の色しか広がらない。
黒一色が全てを支配するこの世界、静欒では――。
静欒王宮・皇華殿。
ここは王族、もしくは側近中の側近しか入れない場所。
そこに二人、男がいた。
一人は窓辺の近くに座り、卓の上にある銀盆を見つめていた。
もう一人は少し離れた別の卓で茶の用意をしていた。
窓辺の方に座っている男が眼を閉じ、銀盆に神経を集中している。
銀盆には水が張られ、中には何か呪文の書いてある符が三枚沈んでいる。
符が水の中でゆらゆらと浮いたり沈んだり、捻じれたりと不可思議な動きをしだす。
しばらく男は符の動きを凝視していたが、ゆっくり椅子から立ち上がり外へと行く。
王宮の造りは大雑把にいえば、ベトナムのフエ王宮に似ているが、それよりももう少し線が柔らかく西洋風な印象も受ける。
それに加え、日本の寺院にも似た造りもどことなく感じる。
男が楼台の手すりに寄りかかる。
それに気付いた茶を用意していた男が楼台にいる男に声をかける。
「気をつけろ」
義務的に注意しているだけの声。
「大丈夫だよ。落ちて死んだりしないから」
男の茶を注いでいた手がとまり、睨みつけるような視線は楼台の男の方へ向かう。
「落ちて、ではなく飛び降りての間違いだろう」
その視線を感じ、ちら、と自分を睨んでいる男の方へ顔を向ける。
「何? 朔夜。怒ったの? だったら心にもないようなこと言わないでよ。そのほうが気分悪いよ。ま、どっちみちこの高さじゃ死なないけどね」
男は軽く肩をすくめながら言う。
朔夜、そう呼ばれた男は楼台にいる男の方から視線をはずし、黙ってまた茶の用意を続ける。
そんな朔夜に楼台の男がまた声をかける。
「ねえ、朔夜」
「何だ」
「迎えに行って来てよ。……彼女を」
茶の用意を終え、使った道具を片付けていた手が止まる。
「帰って、来る……?」
朔夜は抑揚のない声で答えようとしたが、その声は微かに震えた。抑えきれない感情が声に出てしまった、そんな感じだ。
対して男はこの上なく嬉しそうで、幸せそうな表情で答える。
「そう。やっと帰ってくるんだよ。僕の大事な、大事な彼女が」
「……」
「本当は、僕が迎えに行きたいんだけれど」
朔夜の柳眉がぴくりと上がる。
男はその表情を見逃さなかった。
「だから、行ってくれるよね? 僕を行かせたくないならね」
そう言って、にこりと朔夜に笑いかける。
男は朔夜の返事など聞かず、笑顔で話を続ける。
「場所はここから東。大体、桃嘉の辺りかな。彼女が来れば気の乱れですぐわかるでしょ」
「時間は」
「おおよそ明日か明後日あたり。だから今すぐ行って来て。気の乱れで気づく人はいる」
笑んでいた目をすっと細め「……意味、わかるよね? だから朔夜が一番に見つけて、彼女を」
「…………」
「どんな手段でも構わない、必ず彼女をここに連れて来て」
朔夜は返事をせず、かわりに用意した茶を銀盆の載っている卓に置く。
茶の香しい芳香がただよってくる。
「あとのことは愛砂に。お前は自分の役割だけをきちんと果たせ」
「はいはい」
男がそんな事はわかっているという表情をして、茶のそばへ寄ってくる。
「いい香り。紅薔薇のお茶だね」
朔夜は茶を卓に用意し終わると、礼も何もなく部屋を後にしていた。
男が器に手をのばす。茶は少し温くなっていた。だが男はむしろ嬉しそうに温んだ茶を飲む。
ふう、と一息つくと器を置き、椅子に座り外を眺める。
暗闇の中、朧に浮かぶ月がとても美しい。ずっと眺めていると何か、何処か知らない所へと攫われそうな、そんな気分になる。
男は軽く目を閉じた。
「ああ、やっと逢えるんだ……。彼女に……」
彼女の姿を思い浮かべているのか、その表情は本当に嬉しくて幸せそうだ。
「氷月……。早く逢いたいよ」
男はゆっくりと目を開けると、微笑みながら、また茶を飲み始めた。