動かぬ虚実
見事に気を失いかけた私を引き留めるノックが響いた。
返事も待たず、部屋に飛び込んできたのは猟銃を手にしたマルセーリ卿である。
しばらく息を切らせて、半ば呆然と部屋を見回していたが、私に組み敷かれている暴漢を一瞥し、ベッドに座ったままのパセリーニ伯に詰め寄った。
「お怪我はありませんか? 姫」
自身の醜態をもろともしない。貴族とはある意味、お目出度い人々だ。
「マルセーリ卿。どうしてここへ?」
媚態を少しも崩そうとせず、美貌の魔女は目を細めた。
「当然ではありませんか! 伯が暴漢に襲われたのですよ?」
大仰に腕まで広げてマルセーリ卿は心配ぶりを披露する。
私はそっと瞑目した。
彼は大きな失態を犯してしまったのだ。
「本当に恐ろしいことですわ」
麗しい笑顔でパセリーニ伯はマルセーリ卿を見やる。
暴漢に襲われたというのに笑ってみせる彼女に、さすがに不審さを抱いたのか、マルセーリ卿は広げていた腕を畳んだ。
パセリーニ伯は笑顔の仮面を脱いだ。
酷薄な、研ぎ澄まされた眼光が、光を映さぬ紫の瞳に点る。
「わたくしの部屋を逐一監視なさっておいでだったのかしら? マルセーリ卿」
冷笑されて、マルセーリ卿は愕然と猟銃を取り落とす。
「フ、フランチェスカの戦姫……!」
「そう…私をご存じなのね」
ふ、と子供を諭すように眉を寄せ、パセリーニ伯は口の端をあげる。
「ま、まさか本当にアルマナ姫と戦姫が同一人物だなんて……」
哀れなほどたじろいで呻いたマルセーリ卿はその場を動くこともできないのか、よろよろとパセリーニ伯と距離を取った。
「まぁ、よろしいわ」
パセリーニ伯はマルセーリ卿の恐怖を断ち切るように明解な声を上げる。
「執務室の爆破も、今夜の暴挙も、弁償と慰謝料で一切干渉いたしませんわ。幸い、私の部下も無事であることですし」
私が無傷でいるのは、ひとえに運のお陰である。しかし、
「伯」
これではマルセーリ卿を犯人に断定することはできない。
「そうね。もう用は済んだわね。お暇いたしましょう」
パセリーニ伯は私の思惑を無視してベッドから立ち上がる。
「大尉。その暴漢は連れていらっしゃい」
扱いに困っていた暴漢の処遇を簡単に告げて、パセリーニ伯は颯爽と歩き始める。だが、ふと立ち止まり、顧みる。
「お世話になりましたわね。マルセーリ卿。あなたがいらしてくれていた数日間、楽しめましたわ」
その言葉を受けてマルセーリ卿は伯を期待と希望を込めて見つめる。
「ですが、その派手好きな性格、少しは矯正なさった方がよろしくてよ。耳障りだわ」
私からは卿の背中しか見えなかったが、彼の豪奢な衣裳がかすんで見えたのは気のせいではないだろう。
私はかける言葉もなく、押さえ込んでいた暴漢の腕を取り、マルセーリ卿を残してパセリーニ伯と共に部屋を後にした。
盲目だとは思えないほどの足取りでパセリーニ伯は長い廊下を歩きながら、不機嫌に吐き捨てた。
「もうここに用はないわ」
「……とすると?」
玄関先へ向かうには、角を曲がらなくてはならない。私は伯の腕を軽く引き留め、誘導する。
パセリーニ伯は美貌の姫の仮面を完全に捨てて、柳眉をしかめて苦々しげに呻く。
「早すぎるのよ」
歩く速度を少しゆるめて、伯は息をついた。
「犯人は、マルセーリ卿ではないのですね?」
そうでなければ、あっさりと伯が卿を許して辞すはずがない。
暴漢に襲われたあと、真っ先に飛び込んできたのはマルセーリ卿である。小さな部屋のことである。外に叫びもしないのに飛び込むことはできない。部屋を監視している以外は。
その上、悠長に猟銃を取りに行っているのは、暴漢にパセリーニ伯が殺されないことを知っていた証拠である。おそらくは姫を救出する騎士の姿でも自分を重ねていたのだろう。確かに彼は救世主である。この事件の謎を解く重要なカギだ。
だが、カギである。真相ではない。
少なくとも、文官の極秘文書を閲覧でき、パセリーニ伯の本性を知る人物は伯爵以上の大貴族たちがほとんどである。戦姫とパセリーニ伯を同一人物だということも知らないマルセーリ卿ができるのは、せいぜい私を亡き者にすることぐらいだ。
これ以上、事件に関わるのは賢明ではないようだ。
「あの大根役者の出番は終わりよ」
私の及び腰には気づかないまま、パセリーニ伯は私の腕に繊指を絡めたまま、戦へと向かう女神を思わせる挑戦的な笑みを浮かべた。
「犯人を捕まえるわよ。大尉」
同意を求めるように見上げられ、私は片腕に暴漢を引き連れたまま途方に暮れる。
私の明日はどこへむかっているのだろう。
モラトリアムにありがちな自己疑問である。
だが、雇われ軍人が応えられる言葉は常に一つと決まっている。
「ご随意に」