6
ふと目を覚まして、アクアは身を起こした。寝返りを打つうちに毛布が床に落ちてしまい、肌寒さで目が覚めてしまったらしい。
壁に掛けられた時計を見ると、夜明けまで2時間ほど時間があった。
アクアは寝直そうと毛布を拾い上げる。顔を上げると、空の寝台が目に入った。
「先に寝ていていい」と言い残してガデスとヴァインがどこかに出掛けたのは、日付が今日に変わる数時間前だったはずだ。辺りを見回すとフェリルもおらず、アルテミスが体を丸めて寝ているだけだった。
アクアは枕元に置いていた剣を持つと、物音を立てないように部屋を出た。
廊下に出ると1階から明かりが見えた。アクアはなるべく音を立てぬようゆっくりと階段を下りた。年期が入った階段は細心の注意を払っても軋むが、その音で部屋から誰かが出てくることはなかった。
宿の1階は食堂になっている。しかし今は静まり返っており、席に着いているのは1人だけだ。
「あれ、どうしたのアクア? 剣なんか持って」
扉を見ていたフェリルが、こちらに気付いて振り向いた。
そういう彼の傍らでは、テーブルに立て掛けられた愛用の大鎌が、ランタンの明かりにぼんやりと照らされている。
「目が覚めたんで、なんとなくな。……ガデス達を待ってたのか?」
「うん。そろそろ帰ってきてもいいんだけどね」
フェリルは2人がどこに行ったのか、知っているようだ。
「--何かに巻き込まれている可能性は? それも、武器がいるような」
アクアの言葉に、フェリルは扉に視線を戻す。否定するつもりはないようだ。
「行き先が分かってるのなら、迎えに行った方が--」
「あえて僕らを置いて行ったからね。まだ待つよ」
フェリルはため息混じりにアクアの言葉を遮った。面白くなさそうな顔で眼鏡を外し、服の裾でレンズを拭いている。
「えっと……拗ねてるのか?」
恐る恐る聞いてみると、フェリルは目を丸くした。意表を突かれたようだ。呆けたようにアクアを見上げ、すぐに笑い出す。
「あははははっ、ちょっと待ち飽きただけだよ」
なかなか帰ってこないから、と言いながらフェリルは眼鏡を掛け直した。
「なんか落ち着かないから武器なんか持ち出したけど、ヴァインだったら絶対ガデスを連れて帰ってくるから。--って、そんな危ないとこ行ったわけじゃないけどね」
不安を覚えたアクアを安心させるかのように、フェリルが微笑む。彼がそう信じている以上アクアに言えることはないだろう。
アクアはテーブルに剣を置き、フェリルの隣に座った。
「ちなみに、あの2人は何をしに行ったんだ?」
「--具体的には聞いてないけど。ちょっと厄介な事になったガデスの友人を助けに行ってる」
そう言われ、アクアは行方不明の学者を思い出した。彼が見つかったのだろうか。しかし何も言わず2人だけで行く理由が思いつかない。
「それは--」
どういうことか。そう言い掛けたアクアは、物音に気がついて言葉を止めた。扉に何かがぶつかったような音だ。フェリルも気付いたらしく、立ち上がって扉に向かった。
剣の柄に手を遣るアクアを見てから、ゆっくりと扉を開く。
扉が開くと同時に、何かが倒れ込んできた。傍にいたフェリルが慌てて支える。
「え--ヴァイン?!」
ヴァインは無言で手を挙げて答えた。
衣服は所々獣の爪か何かで裂かれたように切れ、土で汚れている。髪も乱れ、白い花びらが絡まっているような有様だが、目立つ外傷は無いようだ。しかし相当疲弊しており、声を出すのも億劫なようだ。
「ただいまー、……さすがに疲れた」
張りのない掠れた声に視線を遣ると、ヴァインの向こう、扉の外にガデスが見知らぬ青年の肩を借りて立っていた。どちらもヴァインと同じような有様の上に、ガデスにいたっては左袖が半ばまで焼け落ちたようになっている。
「だ、大丈夫か?! 怪我は--」
「おー、凄ぇ疲れてるけど怪我は無いぞー」
駆け寄ったアクアに、ガデスは笑顔で答えた。かなり疲労しているようで顔色は悪いが、何故かその表情は清々しい。
ガデスは青年の腕に捕まると、掛け声を出しながら背中を伸ばした。自分の腰をさすりながら、軽く青年の肩を叩く。
「ちょっと、友人を迎えに行っててなー。エリックって言って、ユグドラ、シルの……学--者……」
そう話しながらガデスの目がすっと閉じた。糸が切れた操り人形の様に崩れ落ちるところを、エリックと呼ばれた青年が支えた。
「--魔法の使いすぎだ。眠れば回復すると思う」
「そ、そうか」
突然の事に肝が冷えたが、ガデスが穏やかな寝息を立てているのを確認してアクアは安心する。青年の言うとおり、そのうちに回復して目を覚ますだろう。
「えっと、それで--」
アクアは目線を青年に移した。
やや長めの緑の髪と、左が緑の目、右が青の目をしており、眼鏡を掛けている。見上げた感覚からして、背はヴァインと同じくらいだろう。薄汚れて所々切れているコートは、死亡した学者ファーレンと同じデザインのようだ。
口を開いてはみたものの、どう言葉を続けようか。若干の気まずさを感じながら迷っていると、ガデスを抱え直した青年が口を開いた。
「--エリック=アゼイリア、ユグドラシル自治領「探求の庭」所属の学者で、魔神召喚事件の調査に着く予定だった。--冒険者協会に助けてもらい、感謝する」
「あ、ああ。えっと、無事でなによりだ」
お互い事務的な口調だとは思うが、双方の事情に詳しい人間が説明の途中で力尽きてしまったので仕方がない。
何となくガデスに目を遣ると、エリックも同様に視線を落とした。小脇に抱えられたまま、ガデスは熟睡している。
「……詳しい説明は、彼を運んだ後で良いだろうか?」
「……そうだな。ひとまずそうしよう」
「私がぐっすり寝ている間に、何がありましたの……」
熟睡中のガデスと、やはり力尽きて寝ているヴァインを見ながら、アルテミスが呟いた。彼女が起こされたのはつい先程なので、無理もない。
1階の食堂が始まるまではまだ時間があるため、アクア達は2階の部屋で状況を整理することにした。部屋の前に来るまではヴァインも起きていたのだが、「レディが寝ているから」とフェリルがガデスを抱えたまま先に入って、アルテミスを起こしているうちに、限界が来たようで寝てしまった。寝台まで運んだのはアクアだ。そのまま寝かせたのだが、ガデスの方はアルテミスがちゃんと着替えさせたようだ。
「そうだな……どこから説明すればいいのか--」
エリックはそう言うと考え込んで、野営用の銅製のコップを揺らす。アルテミスが淹れた茶の水面が波打つのを見ながら、どう話せばいいのか思考を巡らせているようだ。少しの間視線を彷徨わせていたが、すぐに考えは纏まったようで口を開く。
「--例の事件の調査を調査するため、俺たちは依頼を受けた2日後に「探求の庭」を出発した」
ファーレンとグロナード、エリックの3人はカムリタで一泊し、翌日にタルタニで船に乗る予定だったと言う。
「問題が起きたのは、カムリタに向かっていた途中だ。--グロナードに不意を突かれ、目覚めた時にはファーレン殿と2人、どこかの屋敷に監禁され--魔神召喚の媒体にされていた。気を失っている間に施されたんだろう。しばらくしてファーレン殿は連れ出され、俺は隙を突いて逃げ出した」
「グロナード……行方不明になっているもう1人の学者が?」
アクアの言葉に、エリックは頷いた。眼鏡を外し、つるを弄びながら言葉を続ける。
「魔神伝承を研究していた学者だ。--まあ、偽名だったがな。本名は確か、ダンドルグと言ったか」
「なっ……!」
ファーレンの最期の言葉を聞いたときから、アクアはダンドルグが犯人だろうと予想していた。しかしまさかユグドラシル自治領に学者として潜り込んでいたとは思わなかった。
「一体、何が目的で……」
「わざわざ召喚が完了する直前にファーレン氏を逃がして、ペルキアまで来させたのだとすれば--理由を理解しようとするだけ無駄かもね」
フェリルの推測にアルテミスが顔をしかめる。その通りだとするなら、あまりにも残虐だ。
アクアは聖印に手を触れて、短く追悼の祈りを呟いた。陰鬱な気持ちででエリックにファーレンの死を告げると、彼は目を伏せて「そうか」と一言だけ呟いた。予想はしていたようだ。
「……俺の場合は--俺が喚んでしまう前にガデス達によって助けられた。だがそこに、グロナード--ダンドルグが現れた。俺を捜していたらしい」
「まさか、ダンドルグと戦った?」
「ああ。何とか退けたが」
エリックが肯定すると、フェリルは何かを納得したように頷いた。本来ならもっと簡単に解決できるという話だったようだ。
「エリックを連れ戻そうとして、戦いになったのか」
無事に帰ってこれてよかったと、アクアは安堵する。しかしエリックは首を横に振った。
「いや。狙いは俺からガデスに--」
「エリック」
フェリルが突然エリックの台詞を遮った。口調は静かだが、表情は険しい。
「奴は何を言ってた? たとえば、血がどうとか」
「強い魔力を帯びた血、か?」
エリックの言葉を聞いて、フェリルが舌打ちをした。彼が苛立ちをはっきり表すのを見たのは初めてだ。
「他には?」
「"不遜の魔女"、"精霊の女王"と--」
"不遜の魔女"ならば、アクアにも聞き覚えがあった。魔族や魔道士を背徳者とした神職者らが、神の敵として認定していたミストリルという種族の蔑称だ。創造神と人族の間に生まれた娘が祖であると称し、精霊の力を意のままに操ったという。
魔族や魔道士と同様に狩られ、今は絶滅してしまったはずだ。
「フェリル……?」
「え--?ああ……やっかいなモノに間違われたみたいだなーって。それだけだよ」
アクアが声を掛けると、険しい顔で眉間に皺を寄せていたフェリルは取り繕うように笑顔を浮かべた。
確かに、最後の一人が息絶える瞬間まで死体の山を築き続けた、と言われるほどミストリル族との戦いは苛烈だったといい、今でも忌み嫌う神職者は少なくないらしい。しかしフェリルの反応は、それだけではないように思える。
「--"精霊の女王"といえば、極めて優れた魔道士でもあったといわれた種族の別名だな。神職者などに狩られて、とうの昔に絶滅したはずだが」
「そうだね。何でか知らないけど、嫌な目の付けられ方したみたいだ」
眼鏡を掛け直し、反応を探るようにエリックはフェリルを見た。フェリルはにこやかに微笑み答える。はぐらかされたように見えるが、エリックはそれ以上追求しなかった。
そのやり取りを見ていたアルテミスが、何かに気が付いたように小さく声を上げ、手を上げた。
「あの、そういえば気になることがあるのですけど」
皆の視線が集まる。アルテミスは素朴な疑問、といった体で首を傾げながら言葉を続けた。
「魔神召喚の魔法円って、間に合えば解呪の魔法が効きますの?」
なるほど、とアクアは声に出さずに納得した。それならばファーレンをぎりぎりまで監禁していたのもわかる。
だがエリックは視線を逸らした。茶を飲み干してから、床を見ながら答える。
「……特殊な解呪なら--できないこともないようだ」
当事者のはずなのに妙に歯切れが悪い。アルテミスは訝しげな表情を浮かべ、質問を重ねた。
「特殊な解呪って、何ですの? あまり表沙汰にできない秘術とか--」
「魔法円を別の場所に移して完成させる」
アルテミスの疑問に答えたのは、エリックではなかった。
声の主の方を見ると、彼--ガデスはいつの間にか身を起こしていた。まだ本調子ではないのだろう、気だるげな動きで寝台の縁に腰掛ける。
アクアは、ガデスの言葉を反芻していた。何かとても不穏なことを言った気がする。エリックが物言いたげにガデスを見た。しかし意に返さずガデスは続ける。
「発動しかけの魔法円を奪って、別の場所で発動させればいい。それだけだ」
「え--ちょ、待ってくださいな、それって、まさか--」
青ざめるアルテミスを一瞥し、ガデスは冷ややかに笑った。いつもの人好きする笑みではなく酷薄さすら感じさせる。その豹変ぶりに、アクアの背筋があわだった。
「喚んだよ。神官と違って魔道士にとっては、生け贄が必要だから禁呪ってだけだしな」
アクアは呆然とガデスの言葉を聞きながら、「あえて置いていった」とフェリルが言っていたことを思い出した。神を信仰する者にとって、魔神は最も忌むべき存在だ。それを喚び出したとすれば、それこそ神霊協会が黙っていない。ガデスもそれは承知のはずだ。
彼は嘲るような笑みを浮かべてアルテミスに問いかけた。
「代償は、蓄積されてたエリックの魔力と俺の血だけ。生け贄は使わず、魔神は既に倒したから被害者もいない。その挙げ句、魔法円も魔神も煤になって証拠も無い。証言でもない限りな。--それでも告発できるか?」
爪が食い込むのも構わずに、アクアは拳を握りしめた。
これは脅しだ。エリックが黙っている限り魔神召喚の根拠は無く、尋問して証言させない限りアルテミスには告発できない。それを理解した上で、あえて「やれるものならやってみろ」と煽っているのだ。
アクアはガデスの意図に気付き、体の血が沸騰するような怒りを覚えた。
「--僕はガデスに付くよ。ヴァインも同じだ」
フェリルがそう宣言する。予想していた事なのだろう、全く動揺していない。
エリックは床に視線を落としたまま黙り込み、アルテミスは俯いて、膝に掛けていた毛布を強く握っている。もとよりこの2人に、告発する気などないはずだ。それでもガデスは追い打ちを掛けるように、馬鹿にしたような口調でせせら笑う。
「ふん、まあ当然無理だよな。な・か・ま、だもんなぁ」
ガデスはそう言い、愉快そうに喉の奥で笑う。
アクアは無言で寝台から立ち上がった。大きく息を吸い、ガデスに詰め寄る。
「仲間だと言うのなら! わざわざ脅して自分が悪いようにし向け、っなぁッ?!」
襟首を掴もうと手を伸ばしたところで、アクアは浮いていた床板に躓いた。手近な何かを掴んだが、勢いが付いた体勢を立て直しきれず、両膝を強かに打つ。
「だ、大丈夫か……?」
頭上から心配そうにガデスが声を掛けてくる。驚きで毒気を抜かれたようだ。アクアは痛みを堪えながら、勢いよくガデスに振り返った。
「とにかく! 一人で責任を抱えようとすッ--る、な……?」
先ほど思わず掴んだのは、ガデスの服だったらしい。アクアが転んだ勢いでボタンが飛んだシャツははだけ、中に着ていたタンクトップも肩紐が落ちて、控えめな胸の膨らみに辛うじて引っかかっている。
ぐわん、とエリックが持っていたコップを落としたらしい音がして、アクアは我に返った。慌てて掴んだままだった服から手を離し、飛び退いて立ち上がる。
「い、いや、違っ、その、つい、反射的に--!」
アクアがそう言い掛けた時、視界が何かで覆われた。それが毛布だと分かった瞬間、両肩に何かが圧し掛かる重みを感じると同時に、頭を噛まれた。
「お兄ひゃまにひゃにしまうおーッ!」
「ちょ、痛い痛い痛い痛いって!」
声から予想するにアルテミスらしきものが、飲み込まん勢いで繰り返し齧り付いてきたらしい。毛布越しにも関わらずとても痛い。
結局、ガデスが我に返ってアルテミスを止めるまで、アクアは毛布越しに齧られ続けた。
(7に続く)