5
ミランの丘は、その名のとおりミラン草が群生している丘だ。春から秋の長い期間、次から次に小さな白い花を咲かせるため、花を見に立ち寄る者も少なくない。
エリックは重い体を引きずるように、ミランの丘に続く道を歩く。緩やかな勾配にも関わらず情けないほどに息が上がるのは、残された時間が残り僅かな証拠だろう。
ガデスには、酷い頼み事をしてしまって後悔している。しかしその一方でエリックは、最期を彼に委ねられて嬉しいとも思う。
丘が見えてきた。
ランタンの明かりに照らされた白い花々が、夜風で緩やかに揺れている。そしてその奥に立っている人影が見える。
「--ガデス」
名前を呼ぶと、人影は振り返りってランタンの明かりの中に歩み寄ってきた。間近で立ち止まり、エリックを見上げる。長い睫に縁取られた目は、静かに波打つ底の見えない海のようだ。
「……今夜は月が綺麗だから、ランタンなんて消したらどうだ?」
そう言いながらガデスがランタンにそっと触れる。火の精霊に働きかけたのだろう、それだけで火が消えた。
確かに、ガデスの頭越しに見る月は丸く、白銀に輝いていて美しかった。しかしランタンの明かりに慣れた目にとって辺りは暗く、目前にいるガデスの表情すらよく分からない。
「--暗いな。月以外、何も見えない」
最期にガデスの顔を良く見ておきたいのだが、というのは口に出さないでおく。ガデスは小さく笑い声を上げ、優しくエリックの手を取った。
「そのうち見えるって。……目が覚める頃には」
手の甲に鋭い痛みを感じた直後、エリックの意識は急激に闇へと落ちた。
声も無く崩れ落ちるエリックを、ガデスは抱き止めた。懐かしい薬草の匂いがして、思わず笑みがこぼれる。
顔色はすこぶる悪いが呼吸は穏やかだ。その肩に耳を当てて心音を聞きながら胸をなで下ろす。しかし、自分より背が高い上に気を失っている相手は、さすがに重い。
「ヴァイン、上手くいったぞー」
隠れていたヴァインを呼び、エリックを渡す。ヴァインは複雑そうな表情で受け取り、彼を抱え上げた。
「……"美人局"、という言葉が思い浮かんだのですが」
「不意打ちついただけだろ、失礼な。あ、そこの真ん中に寝かせて。で、上着の前開けといて」
ガデスが僅かに血が付いた長い針で指したのは、禿げた地面に描いた魔法円だ。大人を真ん中に寝かせても収まる程に大きい。
円は二重になっており、内側はエリックに施された魔法円と良く似たものを描いてある。赤黒いのは、それがガデスの血で描いたものだからだ。
「一瞬で効くということは、相当強い薬を使いました?」
「時間を掛けたくなかったからな」
昏倒薬を付けた針を仕舞って、ガデスは腰に差していた小剣を抜いた。刃を右の手の平に滑らせて浅く切り、血が滲んだのを確認してからエリックの鳩尾に触れる。
大きく息を吸ってから、ガデスは詠唱を始めた。魔法の行使に反応し、瞳の色が青から黒に変わった。青みを帯びた銀髪は、なびくたびにオーロラのように色を変える。
「--我は世の理をかいくぐり、仇敵を求める者なり。この血を贄に、今ここに新たに真の扉を造る--」
気を失ったまま、エリックが一度だけ大きく体を痙攣させた。それを合図にしたかのように、魔法円が光を帯びる。
ガデスは息を止め、ゆっくりとエリックの鳩尾から手を離す。そこから魔法円が跡形も無く消えたことを確認して、大きく息を吐いた。
紙に予め魔法円を描いておき、使うときに展開して地面に移すという技術の応用だ。人を媒体にする為か、簡素化されアレンジが加えられていた魔法円を、文献通りの正式なものに書き換えたのだ。
ガデスはエリックを離れた所に運んでもらい、氷の狼を喚びだして護衛として付けた。
赤い光を放つ魔法円に向き直ると、中心に数滴血を落としてから手の傷を塞ぐ。ヴァインは魔法円の反対側に回り、腰に下げていた長剣を抜いた。
「--さて……これからが本番だ」
気合いを入れるように、ガデスは軽く自分の顔を両手で叩いた。魔法円に手を翳して、詠唱を再開する。
「--煉獄に封じられしもの、忘却へと追いやられしもの。神の目盗みて扉を開き、今ここに招かん……来たれ、"憤怒の雄牛"ライバンヴァルカ!」
声に応えるように魔法円が一際強く輝き、赤黒い光の柱が立ち上がる。魔神が追放された世界と繋がったのだろう、生臭い熱風が吹き始めた。
「……う--何を、した……?」
声に振り向くと、意識を取り戻したエリックが身を起こそうとしているところだった。
その回復の早さに内心で舌を巻きつつ、ガデスはフードを被ってから夜目が利かないエリックのために魔法の光源を作り出す。
「んー、魔法円の横取り? 危ないから後ろで見ててな」
「横……取り? --待て、まさかお前、魔じ--!」
エリックの声は、突然響きわたったけたたましい吠え声にかき消された。
立ち上る光の柱が霧散し、宙から巨大ななにかが現れる。
地を揺るがせて着地したそれは、一見すると黒い雄牛のようだ。しかしその大きさは普通の雄牛の何回りも大きく、頭部はオーガのものによく似ている。
額からはいびつにねじ曲がった角が生えており、鬣は黒く燃え盛っている。牙を剥き金色の目をぎらぎらと光らせる様は殺気に満ちており、気の弱い者ならば見ただけで失神するだろう。
「"憤怒の雄牛"--本物、なのか……」
「火の女神に右目を奪われ首を落とされる瞬間まで、神への怒りを燃やし続けた魔神、真の名はライバンヴァルカ。--喚び出して早々だが倒させてもらうぜ!」
宣言すると同時に、ガデスは風の刃を放つ。魔神は巨体に似合わぬ身軽さで飛び退くが、そこにヴァインが切り掛かり、尾を切り落とした。
「--他愛ないな、その程度か」
ヴァインの挑発に、魔神が怒りの声を上げて振り返る。その背中にガデスが作り出した水晶の槍が突き刺さった。しかし魔神は意に返さずそのまま突進する。それを側転して躱し、ヴァインは魔神の臑を狙って短剣を投げつけた。魔神は跳躍してそれを避け、振り返る。
その顔面に風の刃が直撃し、深い切り傷を負わせた。
「ちっ、さすがに真っ二つまではいかないか」
オーク程度なら二分割だろうに、と言いつつガデスは再度風の刃を放ち、たたらを踏む魔神の角を切り落とす。その隙にヴァインは魔神の後ろ足を深々と切りつけ、魔神を転倒させた。続けてもう片方の後ろ足めがけて長剣を振り下ろし叩き切る。
空気が震えるような咆哮をしながら魔神が立ち上がろうともがく。傷口からは血の代わりに炎が噴き出し、失われた足を象り始めている。その胴を、ガデスは何本もの水晶の槍で縫い止めた。ヴァインは魔神の腹側に回り込み、今度は前足を切断する。
「ガデス様、今です!」
「おう、任された!」
ガデスは小剣を握り直し、魔神との距離を一気に詰めた。魔神は唯一自由に動かせる頭部を振るい、残った角で薙ぎ払う。ガデスは身を翻して回避し、今度は食らいつこうとする魔神の顎下に、小剣を刃の半ばまで突き刺してそれを阻止した。剣はそのまま抜かず、角に足を掛けて左肘を引く。
軽く息を吐いてから、ガデスは渾身の力を込めて左手を魔神の右の瞼に突き刺した。炎が腕を包むが、気にせず眼球を握る。
「っらぁあああああッ!」
ガデスは雄叫びとともに眼球を抉り奪った。魔神が満足に開かなくなった口で憤怒の吠え声を上げる。その首にヴァインが深々と長剣を突き立てた。鋸で木を切るかのように刃を動かして傷口を広げ、魔神の首を切り落とした。
怨嗟の断末魔とともに、魔神は黒い灰に変わり消え去った。召喚に使った魔法円も煤の跡が残るだけで、それもすぐに風で跡形もなく消されるだろう。
生命の精霊に力を借りて左腕の火傷を癒してから、ガデスは残された小剣を拾い上げた。鞘に戻し、ヴァインの方を向いて片手を上げる。長剣を納めたヴァインはその手に力強く手を打ち合わせた。
「--別のものに魔法円を移して、発動させたのか」
振り返ると、エリックが歩み寄ってくるところだった。足取りはまだおぼつかないが、顔色は良くなってきている。その傍らでは氷の狼が大きく尻尾を振っている。頭を撫でてやってから狼を還し、ガデスは頷いた。
「まぁ、折角なんで、横取りしたら喚べた、みたいな?」
「代償は」
来た、とガデスは心の中で呟いた。
ほとんどの魔道士にとっては、魔神が「もっとも忌むべき存在」だという意識は薄い。にもかかわらず召喚が禁呪とされているのは、喚んでも制御できないことと、代償に人間の命が必要になるからだ。中でも特に若い娘が一番適しているらしく、犠牲にされた数は知れないという。
勿論、エリックと自分以外の力は使っていないのだが、特殊な方法をどう説明したものか。
「--蓄えられた君の力と、強い魔力を帯びた血、だな」
「な--!」
聞き慣れぬ声が、エリックの問いに答えた。突然のことにガデスは慌てて振り向く。
そこに立っていたのは法衣姿の壮年の男だった。武術の心得があるのだろう、服の上からでもわかるほど鍛えられた体躯をしており、ただ立っているだけにも関わらず隙がない。
剣を抜いたヴァインが険しい顔でガデスの前に出る。「気配がしなかった」と小さく呟いたのが聞こえた。
「グロナード……」
エリックが、行方不明になっていた学者の名で男を呼んだ。しかし男は首を振り、教え子を諭すかのような口調で訂正する。
「それは私の偽名だよ、エリック殿。「彼」への伝言をお願いする前に逃げられてしまったから、教えられなかったが」
伝言と聞いて、ガデスはファーレンの最期の言葉を思い出した。ヴァインも同様だったらしく、顔に険しさが増す。
「なるほど。くたばり損なったか、ダンドルグ。今すぐにでも墓に戻ったらどうだ?」
「これはこれは。噂通り気性が激しい種族なのだな"不遜の魔女"とは。--失礼、"精霊の女王"か」
ガデスは舌打ちをして再度氷の狼を召喚した。狼は"憤怒の雄牛"にも劣らぬ大きさになって威嚇するが、ダンドルグは涼しい顔のままだ。
「密猟で絶滅したかと思っていたが、こんな所でお目に掛かれるとは幸運だ。伝承通り護衛を連れているのは厄介だが」
「随分詳しいじゃねぇか、くそ鬱陶しい。今すぐ失せてくれるのが俺にとって幸運なんだがな」
暴言を吐きながら、ガデスは周囲に意識を向けた。
ヴァインは剣を構えたまま、ダンドルグの挙動を注視している。斬りかかる隙を探しているようだ。エリックもダンドルグをじっと見ている。こちらは、ダンドルグの言葉の意味と狙いを探っているのだろう。
本当ならは瀕死の状態まで痛めつけて、アクアの前に引っ立ててやりたいところだ。しかし相手の実力は先程の魔神よりも上だろう。
ヴァインと2人で、エリックを庇いながら勝てるのか、微妙なところだ。
「まだ「彼」とやらに粘着したいんなら、首と胴が泣き別れないうちに逃げたらどうだ、変態野郎?」
ガデスの言葉に応えるように、夜風がミラン草を大きく揺らす。ダンドルグは目を細めると、喉の奥で笑った。余裕に満ちた様が癪に障るが、自信過剰だとは思えない。
「はは、可愛らしい虚勢だな。私としては、魔神を易々と呼び出せるその血が使いたくてね。神にも通ずるのだろう? 実に背徳的で良いと思うんだ」
そう言いながらダンドルグが腕を掲げると、彼の影が蠢き、狼の姿をとった。影の狼は分裂し瞬く間に数を増やすと、3人を包囲する。
ガデスは腕を振り、獅子ほどの大きさの火トカゲと、雷を纏った大鷲を喚び出した。精霊の複数召喚は目立つので、普段は家族の前以外ではやらないのだが、今は出し惜しみしない。
「ヴァイン、変態野郎に帰ってもらうぞ」
「いえ、八つ裂きにするつもりです」
間髪入れずに低い声でヴァインが答えた。相当頭に血が上っているようだが、この気迫ならダンドルグの腕1本ぐらい奪えるかもしれない。
まだ戦えないであろうエリックには下がってもらい、雷の大鷲を護衛につけた。
「さて、では狩らせてもらおうか」
ダンドルグが一歩踏み出すのにあわせ、影の狼による包囲が狭まる。ガデスは鼻で笑うと、小剣を抜いて腰を落とした。
「そうだな。--獲物はテメェだがな!」
風の刃が影の狼を3体引き裂く。それを合図にして、氷の狼と火トカゲは影の狼に、ヴァインはダンドルグに向かって地面を蹴った。
(6に続く)