春(あるいは、待ち焦がれる二人)
描けば描く程、こんな物を生み出す意味がどこにあるんだと嫌悪した。そうしてまた一枚、スケッチブックのページを破る。目に隈作った教授から一旦休めと言われ、逃げるようにして研究室を出た。
すっかり夜が明けてしまっていることに気付いた俺は、自嘲の念を吐き出すべく、灰皿を探して建物の外に向かった。少し肌寒い朝の空気に、擦るような足音が溶ける。温度や、喧噪を、横切る先から掻き消してゆく静けさが、早朝の大学構内にはあった。
講義棟を抜けて中庭に出る。ベンチと灰皿のある辺りは桜の木々に囲まれていて、こんな時間だというのに、そこには一人の女性が立っていた。シャーベットグリーンのゆったりしたワンピースにデニムのパンツを合わせ、ショートブーツで足下を飾っている。彼女は天使でも探しているらしく、軽く顎を上げ、右手をそっと空に差し出していた。随分酔狂な人だ。関わらない方が良さそうに思われたが、別の喫煙場所はここから遠く、今更そちらへ行くのは億劫に過ぎる。仕方なく、なるべく気にせぬようにして、そのまま灰皿に歩み寄った。
「氷室君?」
気配に気付いた向こうが、腕を降ろし、振り向く。名前を呼ばれて初めて、目の前の人物が同回生の葉山サチだとわかった。
「ああ、なんだ、葉山か」
どこか慌てた様子の彼女に構わず、ポケットから煙草を取り出し火をつけた。葉山は第二絵画研の四回生だ。二回生までは同じ美術科としてそれなりに親しくしていたが、三回になり彫刻と絵画で専門が分かれてからは疎遠になっていた。
「おはよう。早いのね、朝」
妙にぎこちない笑顔を浮かべ、葉山は問うた。こんな表情をするヤツだったかと、内心首を傾げる。もっとも、思い返してみたところで、彼女に関する記憶などそう多くはないのだけれど。
「徹夜だよ。卒制のスケッチ。研究室でカンヅメ」
肩をすくめてうんざりしてみせる。葉山はきょとんとした。
「そんなに行き詰まってるの? スランプ?」
「いや、スランプと言うか」
説明しようとして、やめた。どうせ彼女のような人間には理解できない悩みだ。
俺の知る限り、葉山ほど才能に恵まれた人間はこの大学にいない。絵画の質、デザイン系の課題のセンス、共に次元が違うのだ。勤勉で、記憶力もいいらしく、理論や史学の成績も上々だった。芸術という分野において悩んだことなんて、きっと彼女はないのだろう。
「まあ、単に、もともと力が足りなくてな」
誤摩化す言葉がやけに卑屈で後悔した。煙草をもみ消す指に、自然と力がこもる。葉山は細い眉を寄せ、少し苦そうに笑った。
「氷室君は手先が器用だし、何より目が本当に優れてるって、うちの教授は褒めていたけれど」
「色彩感覚ゼロで、絵画系の単位は軒並み落としたけどな」
「確か、必修の授業で何十枚も追加課題を描かされていたものね。全部素描の」
「あの恩情は思い出すだに視界が滲むよ」
そこでようやく、葉山はふわりと、自然な微笑を浮かべた。風が吹き、彼女の栗色をしたウェイトボブが柔らかく揺れる。桜の花が数枚散った。
「モネは目である。だが、なんと素晴らしい目だろうか」
頭上を見上げ、歌うように囁く葉山。
「それ、だれの台詞だっけ。ルノアール?」
「ううん、セザンヌ。いいじゃない、氷室君は彫刻なんだから。絵が苦手でも、今持ってる力で十分やれると思う」
モネの目の凄さは、空気を色に変換できたところだろうに。的外れなフォローだったが、優しさはありがたく頂くことにした。
風が吹き、再び梢を揺らす。葉山が天に手を伸ばしたのを見て、俺は尋ねた。
「葉山の方は、こんな朝早くにどうしたんだ?」
「桜を見に来たの。大学のは、結構綺麗だから」
葉山は掲げた手を握りしめると、腕を降ろし、今度はその握りこぶしを俺の方に突き出した。
「手、だして」
葉山はこぶしを開き、俺の手に桜の花びらを一枚落とした。
「随分風流なヤツだったんだな、葉山って。知らなかった」
驚く俺の肩を、葉山は複雑そうに苦笑しながらそっと叩いた。
「氷室君、良かったら、今日ちょっと付き合わない? もしかしたら、卒制について、少しはアドバイスも出来るかもしれない」
ほんとに、迷惑じゃなかったらだけど。と、控えめに葉山は提案した。彼女くらいの芸術家のエッセンスなら、確かに何か刺激が得られるかもしれない。教授に一言断りを入れれば、一日くらい休暇を取ることも許されるだろう。どうせ、このまま悩み続けても事態が改善されはしないのだ。
「良かった。それじゃあ、吉野に行きましょう」
葉山は嬉しそうににっこりした。
「花見か? でもここからじゃ遠いぞ」
「氷室君は奈良人だから。私からしたら、今が一番吉野に近いの」
東北出身の葉山は、そう言ってふくれて見せた。
「せっかく奈良の大学にいるんだから。私、まだ行ったことがなくて。混んでいるかしら?」
「今からだと始発で二時間だから、観光客も少ないかな。でも、今日は風が強そうだぞ」
「その方が良いじゃない」
不可解なことを言うと、葉山はさっさと歩き出してしまった。こんな突拍子もないヤツだったろうかと、浮かんだ疑問をすぐに沈める。考えたって無駄だ。簡単なプロフィールと、芸術的才能以外、例えば彼女の内面についてなんて、俺は何一つ知ってはいなかった。
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思えば、葉山と二人きりでどこかに行くのは初めてだった。フィールドワークのグループや、理論の授業班で一緒になって、時々活動を共にしただけの間柄。鈍行の電車に揺られながら、今更のように俺は、現在置かれた状況の特異さを認識していた。
そもそも、俺自身があまり人懐こい性格ではない。葉山に限らず、誰かを何かに誘ったことなんてろくにないような男なのである。葉山の方からアプローチしてくれない限り、浅い関係に終始するのは当然だった。
「吉野って、もっと人が少ないのだと思っていたのに」
苦しげな呟きが聴こえ、隣に立つ葉山を見る。沢山の高校生に圧迫され、彼女は青い顔をしていた。
「吉野線は高校色々あるからな。登校ラッシュってやつだ」
「早すぎない?」
「俺たちは確かに始発に乗ったけど、ここまででもう一時間半くらい経ってるから」
「そう」
げんなりした様子からして、彼女も恐らく、“みんなでお出かけするのが大好き”というタイプではないのだろう。そんな二人でぶらり電車の旅とは、奇妙なことになったものだ。
「もうしばらくしたら、学生はみんな降りるから」
葉山があんまり辛そうにするものだから、ついつい声が優しくなる。無言で弱々しく頷いた彼女は、息まで少し荒くなっていた。余程人ごみが苦手なようだった。
吉野駅が近づくに連れて、各駅で段々学生が減ってゆき、六田駅を過ぎる頃には、座席で休めるようになった。幾分精気を取り戻した表情で窓の外を眺めていた葉山は、景色が川沿いになった途端、俄に目を輝かせた。
「凄い、桜がこんなに」
六田の辺りから先は、川と線路に挟まれた部分に、何十メートルも桜が植えられている。時には車窓全てが花で埋め尽くされることもある、吉野山直前の小さな名所だ。
「でも、少し散っちゃってるのね。大学のもそうだったけど」
「これくらいが丁度いいんだよ」
俺の言葉に、葉山は首を傾げた。
「吉野山は開花が遅いから。他が散り始めるくらいの時期からが見頃なんだ」
説明してやると、葉山は頷き、一層不思議そうに目を丸くした。
「意外と風流なことを知っているのね」
「奈良じゃ常識なんだよ」
「嘘」
嘘だった。けれど、意外だなんて言われてしまっては、今更桜は嫌いじゃないなんて口には出せなかった。訳知り顔した葉山の微笑が眩しい。一体、自分はどんな人間だと思われていたのだろう。坐学は専ら寝ていたし、制作も派手な真似をしたことはない。振れ幅の小さい、眠たい男だと外からは見えるのかも知れない。
「氷室君は、卒業したらどうするの?」
吉野駅まで後一駅と迫った頃、不意に葉山は尋ねた。
「卒制にも取りかかれてない男が、その先の話なんてできんさ」
「就職活動はしてないみたいだけど、院に残るの?」
俺の冗談を無視して、葉山は続けた。
「氷室君なら、どんな進路でもやっていけるかもね」
「買いかぶってくれるなよ」
大袈裟な物言いに呆れる。どこを見てそんな判断を下しているのやら。
「葉山こそどうするんだ」
「私?」
彼女ならばあらゆる方面から引く手数多だろうに、葉山は薄く表情を陰らせると、思案するように無言で顔を伏せてしまった。そうこうしているうちに、モネが描いたサン・ラザール駅みたいなホームをした吉野駅に到着し、自然と将来の話題は無かったことにされた。
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予想通り、時間帯のおかげでシーズンの割に観光客はまばらだった。やはり風は強かったが、太陽もしっかり出ている。俺たちはバスで中千本まで登り、そこから徐々に下千本方向に山を下ることにした。案内は任せると言って、葉山は安心し切った顔をしていた。
「思ったより乱暴に咲いているものなのね」
鼻が触れる程バスの窓に近づいて、葉山は呟いた。がっかりしている風ではなく、単純に感心しているらしかった。
「吉野はヤマザクラだからな。市街の桜並木とかとはちょっと違う」
それは、申し合わせたように一斉に咲き、一丸となって散るソメイヨシノとは異なる在り方だった。まばらに咲き乱れ、車道や歩道沿いからの景色は存外ぱっとしないというのが吉野桜の特徴で、過度に期待して来た観光客は不満を抱くことも多い。
「吉野の桜は上から見下ろすものだよ」
俺の言葉によくわかっていない顔をしていた葉山だったが、中千本と下千本の間、吉水神社にたどり着くと、彼女は納得したように頷いた。一見千本。そこは、太閤秀吉が感動してはしゃぎ回ったとされる絶景で知られていた。門をくぐり右に入ると開けた場所があり、向かいの峯を見下ろすと、一面が桜で埋め尽くされている。
「なるほど。これは凄い」
貪るような目で、葉山は景色を見つめていた。それは、美術に携わる者にとっては極めて身近な、かつ、極めて妬ましい目だった。インスピレーションの尻尾を捕まえたときの、逃がすまいとする芸術家の目。無意識のうちに、俺は尋ねていた。
「こんな時、葉山だったらすぐ、次の作品が思いつくのか?」
葉山は少し面食らった顔をして、注意深く、ゆっくりと答えた。
「そうね。ここまで綺麗なものを見れば、きっと、良い絵が描けると思う」
いつか見た、後期印象派じみた葉山の絵を思い出す。彼女なら、この桜を、光を、空気を、感動を、色としてカンバスに落とし込めるはずだ。
「そうか。美術科なんだから、普通そういうもんだよな」
「創作意欲がわかないの? 良い題材が浮かばない?」
俺が黙っていると、葉山は気遣わしげに言葉を続けた。
「卒制は、卒業してからも一年間学内に展示されるし、就職や院試の参考にもされるものね。緊張して、自分にシビアになる気持ちはわかるけれど」
「葉山にわかってもらえるような、次元の話じゃ、ないんだ。多分」
荒くなってしまいそうになる声を精一杯抑え、絞り出すように言った。そう、葉山なんかにわかるはずがない。彼女のように、次から次へと、誰もが認める作品を生み出せる人間なんかには、絶対。
「作るからには、価値が無きゃいけないって、わかってる。でも、何も無いんだよ。俺の頭の中に、わざわざ作るべきものなんて、何も」
葉山は物申したげな表情で、けれど一言も口を開かず、こちらを静かに睨んでいた。何故だか言い訳をするような気持ちで、俺は話し続けた。
「今まで、意味のある作品なんて一度も作れなかった。お手本や、テーマを指定された課題なら、騙し騙しやって来れたけど。いざ全部自由にやれと言われたら、もう駄目だった。こんなもの、作ってなんになるんだって、考え出したらキリがないんだ」
「氷室君て、案外下らないことで悩むのね」
我慢できないとばかりに、低くこぼす葉山。じとっとした目許が、彼女の不機嫌を物語っていた。
「描きたいと思ったものを描けば、それで良いのよ。うじうじうじうじ、馬鹿馬鹿しい」
こともなげに言われて、むっとする。
「わかったように言ってくれるな。葉山みたいに何の苦労も知らないで、なんでも上手くやれるヤツに、俺みたいな凡人の苦労が理解できるかよ」
「私だって辛いこと沢山あるわよ。私のことなんてなんにも知らないくせに、そっちこそ、わかった風なこと言わないでくれる?」
顔を真っ赤にして叫ぶと、葉山は細い肩を怒らせ、足早に吉水神社を出て行ってしまった。残されたのは俺と、どうしたことかとこちらを伺う売店の巫女さんだけ。しばらく思案し、後を追うことにした。お互い相手のことを知らなくて、お互い相手の嫌がることを言った。彼女は彼女なりにアドバイスをくれたのだから、少しこちらが悪いくらいか。葉山は吉野の地理に疎いのだから。喧嘩別れで帰るにしても、道案内くらいは最後までしてやらなくては。
下千本の金峰山寺辺りで葉山に追いつき、しばらく無言で並んで歩いた。葉山がロープウェイ乗り場を通り過ぎそうになり、意を決して声をかける。二人とも少し落ち着けたらしく、歩いて下山するのは時間がかかると説明すると、葉山は素直に頷いてくれた。ロープウェイの発車までの時間、ホームのベンチに座って待つことにした。
「さっきは気に障ること言ってすまなかった」
葉山は何も言わなかったが、もう怒ってはいない様子だった。
「俺、頑張って何か作ってみるから。良かったら、また今度アドバイス貰えないか」
仲直りのつもりで申し出る。いいよと言ってくれれば、それで良かった。実際にそんな機会は訪れないとしても、承諾してくれれば、この場は丸く収まるはずだった。けれど葉山は、深刻な表情をして、できない、と小さく呟いた。
「明日から、私もう大学に来ないの」
まるで今日限りで世界が終わってしまうのだと言わんばかりの重々しさで、葉山は告げる。
「休学?」
「うん。一年間、ちょっと病気で」
素直に心配だったが、深入りすべきかは微妙なところだった。病気となると、問題はデリケートだ。けれど、もうこれ以上、葉山のことを知らないままにしてはいけない気がした。
「何の病気か、訊いても?」
「色々合併してて、これだって説明するのは難しいの」
「そうか、複雑なんだな」
溜め息をつく俺に、葉山は薄く微笑んでみせた。病人と知った途端、その笑みがとても不健康なものに思えてくるから不思議だ。今日、これまで見てきた、様々な場面の葉山が思い出される。感傷臭く朝から大学に来てみたり、ちょっとした人ごみで弱り果てたり、大して仲の良くない男と、突然吉野まで来たり。なるほど、すべてに納得がいく。
「要は、人と関わっていくことがとても難しくなる、心の病気ってところかしら」
「誰かと一緒にいるのが辛いのか?」
「それもあるし、何より、周りの人に迷惑をかけてしまうわ」
葉山は悲しそうに眉を寄せた。それさえ無ければ、と言いたげだった。自分の苦痛だけなら、隠して、我慢すれば済むのに、と。
「俺は別に、大した迷惑を被った覚えは無いけどな」
「駄目よ。今は薬で抑えてるけど、それでも情緒不安定になるの。さっきだって、突然イライラしてしまって」
両手で顔を覆い、俯く葉山。こんな彫刻、どこかにあったなと、暢気な連想が不意に浮かんだ。病気じゃなくたって、情緒不安定な人はいるし、すぐに怒る人もいる。正直言って、美術科でそういう人種は珍しくない。そんな程度のこと、逐一気にしたりはしないのに。
「別にいいんじゃないのか?」
「え?」
「多少気分屋になったって、構わないだろ。それでも葉山にはやっぱり才能があるし、人付き合いを避けながらでも、卒業や就職は出来るんじゃないか? 時々、誰かとトラブルは起きるかも知れないけど、それが葉山の生み出すものの価値を下げはしないだろう?」
自分としては精一杯フォローしたつもりだった。葉山は他人を気にし過ぎだ。歴史的に著名な芸術家たちの中で、温厚と評される人物がどれほど希有か。数多試みられた共同製作のうち、喧嘩別れの憂き目を見なかった事例がどれほど。
嫌われたって良い、誰にどれだけ迷惑をかけても良い、とまでは言わないけれど、人格者である事よりも何倍も大事な価値が、俺たちの世界にはある。そして、周囲に有無を言わさぬだけの実力が、葉山にはあるのだ。悩む必要なんてない。
「でも」
顔を上げた葉山の瞳に、溢れんばかりの涙をみとめ、俺は息をのむ。
「私の作品と、私自身とは、違うでしょう?」
そう呟くと、葉山は立ち上がり、腕で強引に目許を拭いながら歩き出した。進む先は、徒歩で山を下る長いつづら折り。戸惑いながらも、俺は後を追った。
ロープウェイがあるため、下山道に人影はない。幾重にもなる桜の木々を頭上に、俺たちは無言で歩いていた。葉山は中々涙が収まらず、口がきけない様子だった。俺の方は、何を言っても彼女を傷つけてしまいそうで、上手く言葉が見つけられずにいた。
「ごめんなさい」
取り繕う事を諦めたらしい葉山が、歩みを止めずに口を開く。
「わがままよね。わかってる。作品を評価してもらえるだけでも、凄くありがたい事だって、頭ではちゃんとわかってるの。それでも」
そこで葉山は一旦言葉を止め、横目でちらりと俺の顔を窺ってから、顔を伏せ、恥じ入るように言った。
「作品ばかり待ち望まれて、誰も私を待っていてくれないのは、寂しい」
立ち止まった俺に、気付いているのかいないのか、葉山はそのまま一人で歩き続けた。図ったように、ひと際強い風が吹いて、息ができない程深い桜吹雪が、葉山の小さな背中を俺から遠ざけようとした。
「そんなこと」
苛立ちを抑え切れず、声を漏らす。葉山はきっと聞えない振りをした。駆けよって腕をつかむと、振り返った彼女は俺を睨んで、一息に捲し立てた。
「みんなあなたと同じことを言うの父さんも母さんも先生も友達もみんなっ。今まで通り作品が作れるなら良いじゃないって。私が、私が私じゃなくなっちゃいそうな気がして怯えている時にみんな。絵の才能さえ変わらなければ大丈夫だよって何度も、何度も」
「俺が待ってる」
怒声に近い一言に、押し黙る葉山。
「そんなことで、悩んだり悲しんだり、しなくていい」
些末だと、心底思った。それが葉山にとっては痛い程深刻だと理解しながら、でもだからこそ、腹立たしい程に。
「俺で良ければ、ずっと待っててやる」
葉山はあっけにとられた顔で、何も言わずじっとこちらを見つめていた。俺は照れ隠しの為に、彼女の真似をして、天に向かって手を伸ばしてみた。目に染みるくらいたくさんの花びらが降り注いでいるのに、不思議と、俺の手はただの一枚も散る花を捕まえる事ができなかった。
「馬鹿ね」
台詞とは裏腹に穏やかな声で、葉山が言う。
「コツがあるのよ」
彼女は朝、大学でそうしていたように、そっと手を差し出した。
「こうやって、じっと待つの」
伸ばした腕を少し持ち上げ、祈るように目を細める。
その仕草があまりに綺麗で、俺の背筋は震えた。木漏れ日に照らされる葉山の、肌の白さと、腕のしなやかさ、そして、繊細な指先。細められた目に、薄く残る涙の跡。弱さも、優しさも、美しさも、すべてがこの瞬間にあった。
葉山が驚いた顔をして、俺はいつの間にか自分が彼女に触れていたことを知る。軽やかな前髪をかき分け、陶磁器みたいな額をなぞると、葉山は困った風に眉を寄せた。
「良い題材が見つかった?」
「ああ。ありがとう、葉山」
「こちらこそ」
にっこり微笑む葉山から、ゆっくり手を離す。頭からつま先までもう一度彼女を見つめ、俺は言う。
「春らしい、素敵な色のワンピースだ」
「あら、お上手だこと」
心得たように頷き、葉山はクスリと笑う。差し出された小さな手から、桜花をひとひら受け取って、俺も笑顔を作った。
「風流な、良いデートだった。来年もまた来よう、葉山」
/
今でこそ、人並みに物の価値がわかるようになったけれど。まだ幼い頃、ブロンズ製の彫刻しか見たことのなかった俺には、彫刻という分野の魅力が理解できなかった。絵画や写真に比べて、それは酷く息苦しい手段に思われた。
価値観が変わったのは、ある有名な大理石作品に出会ってからだ。我が子を抱く母の像の、滑らかな頬や腕を見た時、俺は自分が世紀の大ドロボウでない事を悔やんだ。触れてみたいと強く願い、その質感や温度を懸命に想像した。製作過程を思い浮かべては作者を妬み、これほどまでに美しい営みもあるまいと悟った。
人間という存在の美しさを留めたいと欲するなら、彫刻以上の方法はきっとない。
「氷室、お前そろそろ講堂に行かなくていいのか」
研究室で美術雑誌を繰りながら物思いに耽っていた俺に、教授が声をかける。腕時計で確かめると、時刻は十二時四十分。そろそろ新大学院生の入学式が始まる頃合いだった。教授に礼を言って部屋を出る。開式前に一服しておこうと思い、中庭の喫煙所に向かった。
季節は春。大学構内では、沢山の桜の木が、薄紅色の花を散らしている。喫煙所の灰皿の隣には、大理石の像が一体。たおやかな女の像だ。天の向かって伸びる白い腕の先、差し出された掌の上に、桜の花が降り積もっている。一人黙々と煙草をふかしながら、俺は自身の卒業制作をぼんやりと眺めていた。
「タイトルはなんていうのかしら、そちらの素敵な作品は」
背後から問う、聞き覚えのある声。俺は振り返らず、頭を掻きながら努めてぞんざいに答えた。
「台座にプレートがついてるよ」
ふっと吐息で小さく笑うと、質問の主は俺の正面に回り込んで来て、わざとらしい仕草でタイトルプレートを矯めつ眇めつした。アイボリーのワンピースの裾が、彼女の動きに合わせてふわふわしていた。
「なるほど。氷室君って、存外、恥ずかしい趣味してるのね」
「知らなかったか?」
煙草を押しつぶして誤摩化す。葉山は楽しそうににっこりすると、妖精のように、くるりと一回転してみせた。
「今日の洋服はどうかしら。お待たせした分、楽しいデートになると良いのだけれど」
こんな愛らしいヤツだっただろうか。そんな疑問を仕舞い込み、俺は葉山の手をとった。
『春(あるいは、待ち焦がれる二人)』終わり