(4)
『榧?』
棘のある声でそう尋ねたのは他でもない、エレツの脇に控えていた梗であった。その双眸が露出していたのであれば片眉を跳ねあげていたのではないかと思わせる辛辣な声音に、エレツの視線が梗に向けられる。
「どうした?」
梗らしからぬ反応に声をかけると、梗は一瞬怯んだように口を閉ざし顔を背けた。
「わたくしの質問には答えてくださらないのかしら」
声をかけられ、エレツは視線を戻した。目の前には頭一つ分以上小柄な女が、笑みを浮かべてエレツを見上げている。女はニーナと名乗った。名乗られたのであれば事情はどうあれ、ひとまず返すのが通例だ。
「すまない。エレツという」
そう言って一旦言葉を切ったが、振り返った先にいる梗は自ら名乗る素振りも見せない。人間も精霊も嫌いではないはずの梗が、このような態度を取ることは珍しい。しかし、今の問題はそこではなかった。エレツは仕方なくニーナへ視線を戻し「梗だ」と至極簡単に紹介した。それと同時に榧の朱の瞳が驚きと愉悦をないまぜにしたような色に染まる。
「ところで、依頼の撤回ってどういうことかしら。あなた、あの女の伝令か何か?」
榧を問いただす間もなく、エレツに向けて不満を孕んだ声が投げつけられる。当然といえば当然だった。報酬という言葉も聞こえていたのだ、某かの仕事を遂行していたと考えるのが妥当である。しかしエレツがニーナに掛けた言葉はエレツ自身の言葉ではない。
「違う。その精霊が――」
『主! 主! 終わった仕事はどうでもいいでしょう、それよりもホラ、彼らはどうやら旅人のようですよ。道中大変に決まっています。主の力添えが必要なんですよ。ここから南の方面は何かと危険が伴いますし、主が力をお貸ししてはどうでしょう』
「俺が向かうのは北だが……」
『そうそうそう、北です。北。主、ちょっと引き返すことになりますがヘンデド西方でやり残したことがあるって言ってたじゃないですか。ね、丁度いいですから彼らも二人旅は大変だろうし、僕らの力が必要なんですよ。そうに決まってます』
エレツが口を挟む余地もない。先の一件から気を逸らせようとしているのか、流れるような語り口はとどまるところを知らない。余計な一言でも挟もうものなら、否、口を開きかけた瞬間に榧の言葉がエレツのそれを覆い隠すのだろう。
口も挟めず、かといって榧の滔々と語る口を塞ぐすべも持たない。わずかに雲行きの怪しい説得にエレツが一歩後方へと退く。その足が地に触れるか触れないかのところで、ニーナの楽しそうな視線がエレツに突き刺さった。
「そんなことならお安いご用ですわ!」
夜の闇の中にもかかわらず、煌めくような双眸がエレツを見上げる。予想外の言葉にエレツは脳裏に告ぐべき言葉を探りにかかるが、慣れない作業はするものではない。片っ端から言葉が脳内の奥底に沈み込んでいき、エレツの手中には発するに足る言葉はひとつも残らなかった。
「いつ発つのかしら。宿はどこ? わたくし“翡翠の扉”におりますの」
代わりにニーナの口から発せられた言葉に、エレツは思わず一度ばかり咳払いをして梗に視線を向ける。すると、梗もエレツの方へと顔を向けたところだった。
知らないなどとは言えなかった。その“翡翠の扉”は街の中央に位置する、この街でもかなり規模の大きな宿の一つ。そして、エレツが寝泊まりしている宿でもある。
「同じ宿だ」
ようやくそれだけ告げると、ニーナは乾いた音をたてながら両手を胸の前で合わせて極上の笑みを浮かべた。
「まぁ、なんて偶然かしら! いいえ、必然よ! やはり精霊は繋がっているのだわ。精霊同士、引き合う運命なのよ!」
感極まった様子で何事か呟きながら崩れ落ちるニーナを甲斐甲斐しく支えるのは、傍にいた赤髪の榧だった。
そんな二人の様子を遠巻きに眺めながら、エレツはしばし梗と共にその場に立ち尽くしていた。
* * *
興奮冷めやらぬニーナと共に宿に辿り着いた時には時間もかなり遅く、二人は足音を忍ばせるようにして各々の部屋に戻った。翌日の朝食を一緒に食べることはエレツが承諾する前に決定事項となり、食べる際には部屋まで呼びに来るようにとまで言い渡されてしまった。
そうしてようやくあてがわれた部屋へ戻り落ち着いたと思ったのも束の間、ニーナと契約を交しているはずの榧が梗とほぼ同時に部屋へ入ってきた。
「なんでお前までここにいるんだ」
『僕は梗に呼び出されただけです。文句があるならどうぞ、そちらに』
肩を竦めてみせる榧から、宿に戻るまで一切口を開いていない梗へと視線を移す。やはりなにか思うところがあるらしい。剣呑とした空気が梗を包んでいる。
『人に……それも、お前はあろうことか契約主に敵意を向けたのだ』
ようやく開いた梗の口から漏れた言葉は、嫌悪に塗り固められたかのように毒々しい。聞いたことのない声音に、エレツは思わず眉をひそめた。
『仕方ないじゃないですか。牽制しておかないと、あの辺り一帯火の海ですよ。僕をご存知なら、大体は知っているんでしょ? 闇の属性長』
開き直ったような榧の声。梗の口が真一文字に結ばれる。
「話が見えん」
嘆息混じりに言うと、梗と榧、双方の視線がエレツに注がれた。榧の視線には面倒くさそうな色が滲んでいる。両目を覆った梗からは目立った変化は見られないものの、軽く伏せた顔に浮かぶのは困惑だろうか。
『君たちの言葉で言うところの、問題児ってやつですよ』
エレツの視線の先でそう言ったのは榧だった。短く硬そうな赤髪を指でいじる様は、浮世離れした梗と比べるとやたらと人間くさい。精霊らしさというものを欠いているようにエレツの目には映った。
『主の頭、少しおかしいんですよ。善と悪の区別がつかない。すぐ余計なこと思いついて実行して、主が要らないって思った人間みんな殺してしまうんです』
エレツはすぐに発すべき言葉を見つけられず、榧を見返した。榧はといえば、話の内容のわりに軽い調子で言葉を続ける。
『僕も主の傍にいたら感化されてしまったみたいで、主が死なないかなって思うこともあるんですよ。結構頻繁に』
榧が“死”を口にした途端、痺れるような痛みを背筋に感じてエレツはほんの僅かに息を詰めた。
『ほらほら闇の属性長、あなたの主が痛がってますよ』
面白そうに笑う榧の声に微塵の悪意も感じらない。善悪の区別がついていないのはニーナではなく、この精霊ではないのか。あまり考えたくはない内容に、エレツは思わず目を眇める。
『でもあなたも同罪だ、闇の属性長。この血飲の殺戮者は僕の主よりも多くの人間を死に至らしめた。己の意志でね』
痛みは次第に鋭さを増し、全身に突き刺さる。梗の怒りと共にその痛みは増大するが、精霊の怒りが契約主に影響を及ぼす話はついぞ聞いたことがない。理由もわからぬまま迫り来る痛みに、エレツの息が乱れた。
『そんな人間の敵ともいうべき存在と契約を交わすなど。他の闇の精霊たちに示しがつかないんじゃないですか? 精霊長もお嘆きに違いない。それとも、こんな男の方が僕たち仲間よりずっと大事なんですか?』
最初こそ素直な感想だけを述べていたであろう榧であったが、次第に梗を挑発しているとも取れる発言へと変わっていく。これ以上はエレツ自身も負担が大きいが、なにより梗にとっても負担となってくる。エレツは梗にまっすぐ視線を向けて口を開いた。
「還れ!」
痛みを堪え、絞り出すようにして発した声はしっかりと梗に届いた。この場に留まることを許されない言葉に、梗の姿は煙が風に流されるようにして掻き消える。それと同時に刺すような痛みも収まり、エレツは大きく息を吐いた。
「お前もだ。帰れ」
『はいはい、戻りますよ。あ、勝手に発たないでくださいね。主、キミと旅するの楽しみにしてますから。一応、見張りも仰せつかってるんです』
好き勝手に言いおくと、榧はあっさりと部屋から姿を消した。
ようやく一人になって落ち着いたものの、胸中に留まった塊はそう簡単に溶解しそうにはない。溢れかえった疑問をひとまず手の届く範囲にかき集め、それでも考えることは放棄して下げた剣を抱えてその場に座り込んだ。
「……面倒だな」
声に出して呟いて、予想以上に落胆した己の声に盛大な溜め息を零した。