(2)
『随分疲れているようだが……』
当初、全く立ち寄る予定のなかったリエルドの街に身を寄せ、宿屋に転がり込んだのが昨晩のことだった。陽が上り、かなり高い位置まで移動したにもかかわらず、エレツはベッドの上に腰を下ろし剣を抱えたまま動こうともしなかった。
「ああ」
溜め息と一緒に吐き出された声は少しばかり疲労が滲み、梗はベッド脇の床へ膝をつく。
『闇の国に入ってから、何をそんなに警戒している?』
梗の心配そうな声音にエレツは逡巡するが、隠しても仕方ないと重い口を開く。
「アイルドの手前で一度、攻撃を受けた」
淡々と告げると梗は予想していたのだろう、一度だけ頷いて先を促す。それを見ながら、エレツはゆっくりと梗から視線を逸らした。
「それから……最近、怠さが抜けなくてな」
『少し急ぎすぎたのだ。急ぐ旅でもないのであろう?』
言い難そうに口にしたエレツの様子を確認した梗は、宥めるように呟いた。
梗の言うとおり、ここまでの道程はあまりにも急ぎすぎていた。休息も最低限、馬も酷使して水の国で二度も乗り換えたほどである。更にはここ闇の国でも一度乗り換えている。謝罪にしても、あまりにも身を削るやり方である。一度始めたら、たとえ何百あろうと休憩もせずに頭を下げ続ける。ここまで体を壊さずに来たこと自体が恵まれていたのだ。
『悪い街でもない、少し滞在してみては?』
思いがけない提案に、エレツはほんの少し意外そうな表情を浮かべて梗を見返す。恐らくは“滞在する”という選択肢も“休む”という選択肢も、エレツの中には存在しなかったのだろう。困惑したように視線を落とし、抱えた剣を握り締める。
「……そうだな」
そう呟いてからエレツは顔を上げて梗を見返す。
「ありがとう」
心のままに言葉を述べると梗は嬉しそうに口元を笑みの形に歪め、胸に手を置いてゆっくりと頭を下げた。流れるような動作を見届けて、エレツは安堵したように小さく息を吐いた。
* * *
結局エレツはそのまま部屋に篭り、外出しようと宿の一室を出たのは陽が完全に落ちてからだった。心配性の梗には一度戻ってもらい、宿屋に隣接する小ぢんまりとした酒場に足を運んだ。
夕飯を食べたいのだとカウンター前の椅子に腰を下ろしながら店主に告げると、比較的早く卓上に料理が並べられた。生ものは一切用意されなかったが、日頃干し肉で食い繋ぐエレツにしてみれば煮込んだスープとソースのかかった肉だけでも十分だった。肉と一緒に出されたパンにかぶりつき、スープの皿を傾けて平らげた。決して豪勢な食事ではないが、旅の疲れを癒すには十分なものだった。
ようやく腹が満たされたところで店主に酒を頼み一人呷っていると、見知らぬ男が隣に腰を下ろした。周囲を見渡すと入った時にはいくつかあった空席が殆ど埋まり、賑やかな話し声で満たされている。一人で訪れたらしい男は邪魔するぞ、とエレツに一声掛けただけですぐに飲み始めた。
男は一人で静かに飲んでそのうち立ち去るものと思っていたが、どうやらエレツの予想は外れたらしい。適度に酒が回った頃になって、隣に座るエレツへの質問攻めが続いた。言葉少なに応えているとやがて飽きたのか、今度は身の上話が始まった。奥にいる店主の苦笑いが目にとまり、困惑していたところで男の口から西の村の話が漏れてエレツは己の耳を疑った。
「あの村にまだ人がいるのか?」
エレツの問いかけに、男はいいやと頭を振った。
西の村はエレツが滞在しているこの街、リエルドのはるか西方に位置する鉱山を擁する村のことである。
闇の国随一とも言われる鉱山に囲まれた小さな村は、水質の悪化に伴い人が住めるような状態ではなくなってしまった。村から人が消え、もう誰も住んでいないのだと男はそれまでとうって変わってしんみりとした口調で呟いた。
エレツはそれを聞きながら、一口ばかり酒を口に含んで飲み下す。
「もう無人になって十年になるんじゃないか?」
「そうか……」
エレツは視線を落とし、グラスの中で揺れる琥珀色のそれをじっと見つめた。
西の村にはたった一度ではあるが、立ち寄ったことがあった。既に世界中に心臓喰らいと名前が知れ渡っていた頃のことである。時期にして八年もしくは九年ほど前。人を殺すために立ち寄った村で、唯一剣を振るうことのなかった村だった。人がおらず、もぬけの殻だったのは今なおエレツの脳裏に刻まれている。心臓喰らいの来襲を恐れて逃げたにしてはきちんと整えられた家が立ち並び、かなり厚い埃も積もっていた。忌々しそうに「外れだ」と呟いた育ての親の後ろ姿も、なぜかしっかりと記憶している。
「鉱山はどうなったんだ?」
エレツが尋ねると、男は卓上のグラスを握りしめたまま反対の手で自身の顎髭を撫で付けながら小さく唸った。
「これが冴えない話でなァ、未だに掘り続けてる。拠点があの村じゃなくなっただけだ。少し遠いがこの街も拠点の一つさ」
言葉を聞きながら、エレツは視線だけを動かして酒場の中に鉱夫らしい男たちの姿があるのを確認した。視線を動かしただけでは確認できなかった背後にも、それらしい背格好の男が数人座っているのを店に入った時に確認している。宿の空きを探すのに苦労したのもこのせいなのだろう。
「おぉい、勘定ここに置いてくぜ」
男はカウンターの奥にいる店主に声をかけ、銅貨を何枚か空いたグラスの脇に転がして席を立った。
「じゃあな」
顔を赤くした男は、それでも思いの外しっかりとした足取りでエレツに声をかけて店を出て行った。それを確認したのか、奥に身を潜めていた店主がそそくさと勘定を拾いに近づいてきた。
「お客さん、すまんねぇ。酔っぱらいの相手をさせて」
申し訳なさそうに顔を歪め、店主は銅貨を数えて前掛けの内側にしまいこむ。
「いや……、そうでもなかった」
もしかしたら西の村の出身者であったのかもしれない。席を立つ間際は随分と冷静な口ぶりだったと思い返しながら、エレツは店主に空いたグラスを押し付ける。
「もう一杯、もらえるか」
頷いた店主が他の客に呼ばれるのを見送りながら、エレツは己の左手に視線を向けた。
あの日は結局、人を殺すようになってから初めて誰一人斬らなかった日であった。しかしそれに腹を立てたらしい育ての親は、その村の存在を進言した男を腹いせのごとく斬り捨てた。目の前で斬られた男は高く血を吹き上げ、あっという間に絶命したのもいやに鮮明に脳裏に焼き付いていた。
手にかかった血が舌に残る鉄の味をしていたのを思い出し、エレツは差し出された酒を呷るようににして飲み下した。