(1)
鬱蒼とした森から抜けだしたのは、陽がまだかなり高い位置にある時間帯。晴れているにもかかわらずどこか淀んだ空は、森を抜ける前に水の国で見た気持ちの良い青空とは何もかもが違っていた。
「相変わらずだな」
陰鬱とした空を見上げながらエレツはそう呟き、汗とともに滴る水滴を腕で乱暴に拭った。顔だけではなく、全身が水をかぶったかのように濡れていた。森に入る前、街で新たに買った馬もエレツが降りると煩わしそうに全身を震わせる。
『何故海路でなく、陸路を取ったのだ』
ともすれば非難しているようにも取れる声に、エレツは肩を竦める代わりに首を左右に倒して凝り固まった筋を解す。
「陸続きなんだ、海に出る必要もないだろう」
なにかいけなかっただろうかと言わんばかりの不思議そうな声に、梗は肩まで伸びた漆黒の髪を揺らして宙に浮いたまま項垂れた。
「水の森、か。名の通りだったな」
エレツが抜けてきたばかりの森は名の通り、水に満ち溢れた森である。木々は空を隠すほどに青々と生い茂り、不揃いに生える草花は地面を覆い尽くしていた。そして森に群生する植物の葉はいずれも大量の雫を湛えており、エレツと梗が通過する度にその枝葉を揺らしては雫を振りまいていた。そんな環境である。ひどい雨の中を歩いた時のようなずぶ濡れの状態になるまでに、時間はかからなかった。
「さすがに冷えるな」
エレツはほんの少し眉間にしわを寄せ、一旦まくり上げた袖を戻してから上に着ていたものを脱ぐ。ほぼ同時に梗は弾かれたように顔を上げ、エレツに背を向けた。その様子を見、エレツは上裸となった己の肉体に目を落とす。
そこには、まるで人間の皮膚とは思えないほど多くの傷跡を抱えた肌があった。否、既に肌と呼べるような部位は残されていない。普段、人目に触れる首から上と前腕部分だけが人間らしい肌を残し、それ以外は全て某かの痕が残されていた。見方によっては鰐の鱗のようにさえ見える痕を、梗が視界に収めたくないと顔を背けることは今に始まったことではない。エレツは気にもとめずに脱いだ上着を捻り上げ、水を絞り出した。
『主』
早く傷を隠せとでも言われるのかと思い、エレツは未だ濡れているしわだらけの服を着直して梗に視線を向けた。肌に張り付く布地の不快感に眉を寄せると、傍らから再び声が飛んでくる。
『次はどこへ行くのだ』
予想していたものと違う問いかけに、エレツは用意していた言葉を飲み込んだ。それから脳裏に地図を描き、陽と森、影の位置を確認する。
「アイルドの手前に村があったはずだ」
北東に視線を向けると梗は何も言わず、了承したと言わんばかりに目的地の方へと体を向ける。エレツは再び馬に跨り、梗を先導するように走りだした。
* * *
水の国で頑なに同行を拒んだ梗であったが、それは闇の国に入ってからも変わらなかった。目的の村に近づいた頃、言い難そうに立ち止まってエレツを呼んで戻らせてほしいと頼んだのだった。
梗を見送ってからエレツはいつものように単身、村へと歩を進めた。村の門と思しき場所に立つと、本当にこの村が小さいのだと分かるほどだった。朝陽に照らされた村は、エレツの立つその場所から一望できてしまう程度の規模である。しかし、ここは王宮のある城下街とアイルドという街の中継に使われる村でもあった。心臓喰らいがこの村を訪れなければ、双方の街を行き来する旅人が立ち寄り、休んでいく村として今も栄えていたはずであった。エレツ自身も、それはよく理解していた。
村の入口に立ったまま暫くの間エレツは微動だにせず、ただじっと村の様子を眺めていた。最奥にある一際目を引く大きな建物が、この村のシンボルともいうべき存在の宿屋だった。きちんと手を入れればまだ人を招くことはできるであろう宿ではあるが、恐らくここに人が再び居を構えることはないのだろう。惨劇から数年経過してなお、人影ひとつ見当たらないのが何よりの証拠だった。
エレツはゆっくりと頭を下げてから村の中へと足を踏み入れた。村の中はこれまで訪れた他のいくつかの街や村と同じように、個人の墓標と思われるものは存在しなかった。大きな建物の前に土が盛られ、手前に太い杭が打ち立てられている。おそらくは共同墓地として作られたものなのだろう。村に縁のある者が作ったのか、それともたまたま立ち寄った者が作ったのかは分からないが、心ある者の手によって作られたことだけは確かだった。杭は丁寧に面取りが施されており、エレツの硬い手を拒絶することなく受け入れる。
「……すまない」
不意に口をついて謝罪の言葉が漏れるのも、一度や二度ではない。そしてその度に謝罪の言葉など意味を成さないことに気付き、己の愚かさと浅はかさに息を詰まらせた。全て過去のことであり、事実である。声が嗄れるほど謝罪を口にしたとして、償えるようなものではないことはエレツ自身一番良く分かっているはずだった。
「それでも……、俺には他に、告げるべき言葉がない」
エレツは足元に転がる枯れ切った花束の残骸に目を落とし、堪えるように眉間に深いしわを刻む。崩れるように落ちた膝の脇を、生命力の欠片も見られない乾燥しきった葉が風に吹かれ転がっていく。乾いた音を聞きながら、エレツは己の手に視線を落とした。
「……?」
どれだけの時間が経ったのか、エレツが気付いた時には陽は傾いたと分かるほどに位置を変えていた。しかし、それよりも気掛かりなのはうっすらと漂う違和感だった。相変わらず周囲に人影はなく、感じる気配も遠方にいると思われる獣のものをいくつか捉えただけだった。
次第に違和感は密度を増し、纏わりつくように迫ってくる。身動ぎもせず、エレツは周囲に視線を走らせた。感覚を研ぎ澄まし、違和感の出処を探る。出処を特定したのと、それに気づいたのはほぼ同時だった。腰に下げた剣を鞘ごと抜き放ち、迫る矢状のそれを打ち払う。
奇襲は背後。飛び退って躱すことは容易かったが、たった今手を合わせたばかりの墓標に傷を残すことだけは避けたかった。幸い続く攻撃はない。息を吐き、剣を元通り腰に下げて視線を落とす。
叩き落とした矢状のものはエレツの足元に突き刺さっていた。光の加減によっては暗い紫色にも見える黒い矢が、その身から煙を立ち上らせている。
「闇の妖精術か」
煙が立ち上るごとに矢はその身を細らせ、遂には煙と突き刺さった際にできた穴を残して完全に消えた。
妖精術であれば、恐らくは人の手によって放たれたもの。しかしエレツは術によって作られた矢が飛んできた方角を一瞥しただけで、それ以上を確認しようとはしなかった。水の国では何もなさすぎたのだ。エレツの過去――心臓喰らい――に対して憎しみを抱く者は決して少なくない。理不尽な攻撃もあるだろうことは旅立つ前に予想していた。それが現実のものとなっただけである。
先程まで感じていた違和感も、今ではすっかり消え失せていた。追撃もあるようには見えず、エレツはもう一度墓標の前に膝をついた。
「騒がしくして、すまなかった」
できたばかりの小さな穴を周囲の土で埋めてから立ち上がり、エレツはようやく墓標の前を離れた。
繋がれた馬は無傷。積んでおいた荷も何一つ荒らされていないことを確認し、出てきたばかりの村へもう一度だけ頭を下げた。