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夢の故郷  作者: 里見
第一章:水の国
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(4)

 エレツは慎重に歩を進める。

 馬は樹海に入る時に激しい拒絶を見せたため、置いてくることを余儀なくされた。この樹海自体に淀む空気が原因なのだろうことは、エレツ自身も肌で感じている。纏わりついてくる空気がいやに重く、執拗なのだ。

 つと視線を上げても空に輝いているであろう星は見えず、辺りは見渡すこともままならないほどに暗い。ともすれば地上を這う木の根に足を取られかねないが、エレツの足元はぼんやりと微かな光が灯っていた。文字一つ読めないだろう小さな光ではあるが、この闇の中では十分な明るさだった。

「梗」

 エレツは背中の弓を左手に携えながらその名を呼んだ。隣に現れた梗の返答も待たず、さらに言葉を続ける。

「魔獣なら殺すことになる。嫌なら退いておけ」

 エレツの視線は梗ではなく、闇の中へ向けられていた。視線を動かすことなく右腰に吊るした矢筒へ手が伸ばされ、矢を二本手にする。

『援護を』

 微かに頭を垂れた梗の姿を視界の端に捉え、エレツは「分かった」と短く応じる。


「来てるな」

 前方を睨みつけ、エレツは矢を番えた。限界まで弓を引き絞ったところでぴたりとその動きを止める。遠くで風とは異なる草木のざわめきが聞こえ、慎重に呼気を整える。草木のざわめきは疾走するがごとく、迷いなくエレツの方へと近づいてきていた。

 草木の揺れを視覚に捉えた瞬間、エレツは引き絞った矢を躊躇いなく放つ。すぐに二本目を番えて引き絞る。

「乗せろ!」

 声と同時に矢が放たれた。同時に矢は闇の力を纏い、獣の身体を掠めた。傷が浅い。鋭い舌打ちが響いた。

 猛然と突き進む獣の進路から飛び退り、さらに矢を番える。獣と視線が交わり、エレツは弓を構え直す。

「もう一度だ」

 獣は至近距離。木に背を預け、弦を引く。獣が地を蹴り、エレツに飛びかかる。

「梗!」

 矢が放たれる。獣の牙が眼前に迫り、寸前で止まった。

 開かれた獣の喉に矢が深く突き立っている。反射的にその口が閉じられ、エレツは顔を顰めた。

『主!』

 エレツの前腕から先は獣の口の中へと消えている。その口の端から滴り落ちるものを見て、エレツは小さく息を吐いた。

「問題ない。もう死んでる」

『しかし……』

 右手で強引に屍と成り果てた獣の口をこじ開け、弓とともに噛み付かれた腕を引き抜く。腕には牙の痕がしっかりと刻まれていたが、それを意に介した様子もなく、それよりも大事だったと言わんばかりに折れた弓に視線を落とした。

「良い物だったんだがな」

 やや残念そうな声で弓をその場に捨て、代わりに使われることのなかった剣を鞘から抜き放つ。抜き身の剣にエレツはほんの僅か躊躇いを見せたが、次の瞬間には死した獣の首目掛けて振り下ろしていた。血が撥ねてその一部を浴びたが、エレツは何事もなかったかのように獣の首を掴みあげる。

『……主』

「悪い」

 咎めるような声を聞き、エレツは剣の刃を服に擦りつけて血を拭うと鞘に収めた。

「戻ろう」

 エレツは梗に一瞥もくれず、獣の首を手にしたまま足早に来た道を戻った。


*  *  *


 エレツがギルドに戻ると受け付けの時にいた男はおらず、代わりに初老の男が応じた。

 切断した獣の首をカウンターに乗せようとすると慌てて止められ、仕方なくエレツは足元にそれを転がした。男はカウンターの中からのんびりと出てくると首の前に屈み込み、一抱えもあるその首を眺め回す。

「これは確かに魔獣だな」

 首の断面から滴っていた青い血を指で拭って、男は大仰に息を漏らした。

 魔に憑かれた獣は外見からは判別できず、精霊や妖精に判断を仰がねばならない。人間の目にも明らかな唯一の判断材料が、その血の色であった。魔獣と化した獣の血は大抵青か黒に染まる。原因は分かっていないが、赤い色でなくなることだけは世間一般に知られている変化だった。

 男は血のついていない手で腰に吊るしていた布を引き抜くと、汚れた手を念入りに拭き取りながら再びカウンターの奥へと戻っていく。棚の中に押し込まれていた“契約済み”と記された平たい箱を取り出し、乱暴にその中を漁り出す。中に入っているのは大量の紙。整理されていないのか、男は面倒そうに一枚一枚内容を確認しながら目的のものを探している。

「ああ、これだこれだ」

 やがて男が一枚の紙を取り上げ、エレツが待つカウンターの上へと提示する。見覚えのある紙だった。夜中のうちに書きなぐった己の字を認め、エレツは小さく頷いた。

「元の報酬が金貨三十枚か。ちょっと待ってな」

 そう言いながら男は奥の部屋へ一度引き返し、すぐに小さいが重そうな袋を携えて戻ってきた。重い音と共に袋をカウンターに乗せ、エレツの目の前でその袋の中から取り出した金貨を数え始める。金貨十枚の山を一つまたひとつと積み上げるのを見ながら、エレツは待った。

 金貨十枚の山が十を数えたところで男の手が止まる。

「一晩で解決してくれた礼だ。色つけて金貨百枚。いいか?」

「助かる」

 エレツが答えると男はペンを差し出してきた。依頼書の最下段に名前を書き添えて、エレツは男から金貨百枚を押し込んだ袋を受け取った。男はその名前を珍しげに眺めながら、紙面とエレツの顔とを交互に見比べる。

「何だ?」

 あまりにも露骨な観察を不思議に思って尋ねると、男は苦笑いを浮かべた。

「いやぁ、あんたみたいな腕の立つ依頼請負人がいると助かるんだがね。流れの依頼請負かい?」

 その言葉にエレツが頷くと、男は残念そうに「そうか」と呟くように息を漏らす。

 エレツのように五級の依頼を引き受ける者はそう多くない。いないわけではないが、五級依頼は時に命の危険も伴うため好んで受ける者が少ないのも当然であった。

「世話になった」

 エレツはそう言って軽く頭を下げると袋を片手に踵を返す。外に出ると空は白み、城下に戻ってきた時に比べると人もいくらか増えていた。早々に宿に戻らなければ、魔獣の血を浴びた姿を多くの人目に晒すことになる。エレツは袖口で乱暴に顔を拭うと足早に宿への道を急いだ。

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