(2)
馬に乗ってからかなりの距離を駆けたが目指す先に街影は見当たらず、果てしない草原が続いている。
エレツが騎乗する馬と並走するのは宙に浮いた精霊――梗である。梗はおとなしく付き従ってはいるが、先程からなにか言いたげにしていた。
「梗?」
エレツは少しばかり普段と様子の違う梗に、馬を走らせる速度を落とすことなく声をかけた。
『転移の術は使わぬのか?』
声をかけるとすぐに答えは返ってきたが、エレツは首を傾げた。聞き覚えのない言葉である。エレツは首を傾げるだけで声を発してはいなかったが、目を布で覆っているはずの梗はその動作も察知したようだった。薄い笑みを唇に浮かべ『知らないのだな』と前置く。
『今いる場所から、目的地へ瞬時に移動できる精霊術の一つ。主の体力次第だが、日に数回は移動できる』
移動ができるのであれば馬など必要なくなり、移動の時間も大幅に短縮ができる。効率よく回れると、梗なりの配慮だったのだろうがエレツは首を横に振った。
「有り難いが、それでは意味がない」
エレツはそこで一度言葉を切った。エレツが黙して思案していると、馬はここぞとばかりに減速を始める。喝を入れるように馬の腹を鋭く蹴って、再び元の速度へと強制的に戻してからエレツは口を開いた。
「俺の体力次第?」
尋ねると、梗は一度頷いた。
転移の術は人間の体力を用いて行使される術であること、強い力をもつ精霊のみが行使できる術であることが梗は静かに告げる。闇の精霊属性長として闇の精霊を束ねる立場にある梗は、当然のことながらこの条件に十分に該当する。
一般精霊よりもはるかに強大な力を有する属性長ではあるが、精霊は元々争いを嫌う。その上、エレツ自身も争い事は極力避けているため、梗の純粋な力量を目にしたことはなかった。
「なら、余計に転移の術は使えないな」
一通り説明を受けた上で、エレツは確認するかのようにそう口にする。僅かな未練も伺えないその口調に、梗は半ば予想していたというように小さく頷いた。
* * *
エレツがクァドに辿り着いたのは、かつて世界中にその名を轟かせた殺戮集団・ゲレリィの跡地を発ってから丸十日が経過した日のことだった。
遠方にようやく街の影を確認したところで不意に並走していた梗が止まり、エレツも慌てて馬の手綱を引き絞る。
『主……』
相変わらずその双眸は確認できないものの、重く吐き出された息は明らかに正常ではなかった。これ以上街には近づきたくないと言わんばかりに、梗はその場から一歩も動かない。
ゲレリィの跡地は何もかも全てが吹き飛び、僅かな生命の痕跡さえ残されてはいなかった。辛うじて残された崩れかけの塀が、そこにかつて人が暮らしていた建物があったと認識できる唯一のものであった。だからこそ、梗もあの時は平然としていられたのであろう。
しかし、この先にあるクァドはどうやらそれとは異なるらしい。明らかな梗の異変がそれを物語っている。
「しばらく戻っててくれ」
『では』
エレツが許可すると梗は詫びの言葉も無く、逃げるようにその姿を消してしまった。人間の目に映らないように姿を隠しているときに感じる、微かな気配すらない。恐らくは精霊のみが暮らすと言われる場所へと戻ってしまったのだろう。だが、エレツにそれを咎めるつもりも、非難するつもりもない。元々無理に付き合わせている上に、死臭漂うこの旅は精霊には辛い環境であるからだ。
「……もう少しだ」
馬の鬣を撫でてやりながら、そう声をかける。梗が傍にいるときには決してやらない行動だったが、エレツにその自覚はない。頭をもたげた馬の手綱を握り直し、軽く腹を蹴るとゆっくりと走りだした。
馬で駆けると街は瞬く間に近付き、次第にその全景がエレツの目にもはっきりと映し出される。その双眸に飛び込んできたのは無数の杭。生い茂る雑草の合間に見える、盛り上がった土の上に突き立てられたそれは誰の目にも明らかな墓標である。
手綱を引いて馬の歩みを止めると、エレツは馬を降りた。街の門だったであろうその場所に馬をつなぎ、そのすぐ傍の地面に踵を叩きつける。踵を何度も打ち付けるといびつな窪みが出来上がり、エレツは腰に下げた袋から一枚の紙を取り出した。残量はまだ十分にあるが、あまり無駄には使いたくない。しかし、自身は我慢がきくが馬にそれを強いることは無理だろう。小さく息を漏らし、エレツは窪みにその紙を置くとそっと手を触れながら口を開いた。
「開」
窪みに水が溢れ、馬の首が寄せられたのを確認するとエレツは街へと視線を戻した。
「街一つで……俺は何人殺したんだ」
口にした声は思いの外小さく響き、エレツは緩く息を吐いた。
家屋の多くはそのまま残されていたが、扉はどれも蝶番から乱暴に壊された跡が見て取れる。当然のことながら人の気配はなく、雑草に埋もれ足の踏み場にも困るほどの墓標はエレツの双眸にじっとりと焼きついた。
街の入口に佇んだまま、頭上高くにあった陽が傾き始めるまでその場から動けず、ようやく一歩を踏み出した時には影がやや長くなっていた。たった一歩、街の外と中を隔てていたと思われる門柱をくぐるだけでひどく体が重かった。
入り口に程近い墓標の前の雑草をかき分け、片膝をついて身を屈める。雨風に吹かれ、砂の粒がついた墓標を手でそっと撫でて払いながらじっとそれを見つめた。
この街出身の者で生き延びた者はないのだろう。墓標はあるが手入れがされた形跡はなく、雑草も伸び放題。墓参りに来る者などいないことは容易に想像がついた。
「謝罪などで……赦されるとは思っていない」
手を下ろし、エレツは両膝をつくと深く頭を下げた。
「どうすれば償えるのかも、分からない……」
涙など、流れることはない。心臓を鷲掴みにされたような苦しさも、行き場のない悲しさも、決して梗の前で吐露することのなかった想いも、どれも認識した時から体の中を渦巻いていた。そして思い返す度に膨らむものの、収まる気配は一向に見えてこない。もう何年もこれを抱えたまま生きてきたが、墓標を前にして尚、それらの向かう先は見えなかった。
「すまない」
それ以上、告げるべき言葉は見つからない。手に掛けてしまったことへの謝罪なのか、今更姿を見せたことへの謝罪なのか、今すぐに己の命を絶つことができないことへの謝罪なのか、エレツ自身にも判別できなかった。それでも、何かを言わずにはいられなかった。
しばらくそうして頭を下げた後、エレツは緩慢な動作で立ち上がる。そしてすぐ近くの別の墓標の前に、草をかき分けて再び膝をついた。膝をつき、墓標の表面を手で払うとそのまま頭を下げる。
今度は言葉を発しなかった。どう紡いでも言い訳にしか聞こえない己の言葉が疎ましく、情けなかった。気が済んだわけではないが、ややもすると再び頭を上げる。エレツは再度立ち上がり、次の墓標の前へと歩を進める。そうして同じようにして膝を折り、墓標についた塵を払って頭を下げる。
ただ、その繰り返し。
陽が沈んでも、エレツは構わずに続けた。一つ一つの墓標の前で膝を折り、頭を下げる。水も飲まず、食べ物も口にせず、僅かな休憩も取らずにただひたすら頭を下げる。
最後の一つに頭を下げた頃には空が白み始めていた。
掌に目を向けると、水分の枯れた皮膚に無数の裂傷が浮かんでいる。滲む程度の血ではあったがエレツはそれを服の裾にこすり付けて拭き取り、街の入口へと足を向けた。通り過ぎる墓標の前はどれも生い茂る雑草が薙ぎ倒され、小さな空間が生まれていた。全て、エレツが作ったものだった。
エレツは街の入口へたどり着くと振り返り、もう一度墓標の群れへと視線を向ける。この街での死者は数百、手に掛けたものは十万を超える。あまりに小さな一歩に、エレツは己の罪を再認識せざるを得なかった。