(1)
木の爆ぜる音を聞き、男はそっと目を開いた。その漆黒に濡れた双眸には自ら起こした炎が映り込み、その眩しさに思わず目を細めた。
暑くもないのに体はじっとりと汗に濡れ、額も同様に汗が滲んでいた。前腕の中ほどまでめくり上げた袖で額を拭い、知らぬうちに詰めていた息をゆっくりと吐き出す。
『どうした? まだ陽の出には早い』
頭上から声が聞こえ、男はそちらに視線を向ける。焼け野原に一枚残された崩れかけの壁、その上に一つの影があった。影は闇夜に紛れる黒衣を身に纏い、同色の布でその双眸を覆い隠している。双眸を覆っているにもかかわらず、微かな動きも見えているかのように顔は男に向けられていた。
「いや……」
男は焚き火に視線を戻しながらそう短く口にした。決して大きくはない声で、壁の上の影に向けた言葉でもない。しかし男の低く静かであるがよく通る声は、その影にもしっかりと届いていた。
『夢でも見たか、主』
主と呼ばれた男――エレツは是とも非とも取れる面持ちで、もう一度大きく息を吐いた。
『人間とは不便ないきものだな』
影は壁から身を躍らせ、綿毛のように柔らかい身のこなしでエレツの脇に跪く。空を飛べず、重力に縛られる人間とは異なるいきもの――精霊。人と変わりない姿形をしているが性はなく、人と生きる時間も大きく異なる。
まるで臣下のように膝を折る精霊を一瞥し、再び炎に視線を戻した。時折、木の爆ぜる音が聞こえる他に周囲に変化はない。
エレツは左手に握りしめていた長剣を右手に持ち替え、太めの枝を火にくべると立ち上がった。精霊が腰をかけていた壁の他にも、ところどころに建物の名残と思われる瓦礫が転がっている。焚き火の明かりだけでは見えにくいが、ある一点を中心に周囲が吹き飛ばされたような跡を、陽が落ちる前に確認した。そのときは心を握り潰されるかのような感覚が全身を支配したが、今は何も感じられない。
暗がりではっきりとは確認できなかった跡に微かな落胆の色を滲ませながら、エレツは溜め息と共に元の場所に腰を下ろした。
『……やはり、辞めるべきでは』
言い難そうな精霊の言葉を聞き、エレツは頭を振った。
それはエレツ自身、これまでに何度も自問した。しかし答えは決まって“否”だった。後戻りも、曲げることも、全ての選択肢を並べた上で選んだ道である。
「辞めたら、生きる意味がない。それはあいつとの約束に反する」
エレツのきっぱりとした言葉に、精霊は呆れか諦めか、そのどちらとも取れる溜め息を吐いた。
生きる意味がない、それは即ちエレツにとって“死”を意味する。しかし、その死はまだ受け入れることができない。死への恐怖からではない。一年ほど前に交わした約束を果たしていないからである。
『あの者は目的を持って生きろと言っただけだ。命を危険に晒してまで、仇なした者へ詫びて回る必要などないだろう』
精霊の言葉にエレツは「いや」と頭を振る。
「俺なりのケジメだ」
そう言いながら剣を肩に立てかけ、炎の明かりに手をかざす。太く逞しい腕から伸びた手はその体躯に見合うだけの大きさを有し、肉厚。かつてはその両手が肉塊を掴み、赤く濡れ染まっていたことを思い出してエレツは眉間に深いしわを刻んだ。
『我ら精霊が何を嫌うかを知って、それでも行くというのか』
エレツは両手を握りしめ、不快感を露わにする精霊を見上げる。しかし、その双眸は漆黒の布に覆われて表情を汲み取ることはかなわない。
「ああ……」
精霊は今度こそ呆れの溜め息をその口から漏らした。
「無傷でいられるとは思わない。場所によっては死臭も残っているだろう。だから梗(キョウ)、無理は言わない。それらがお前の傷となるなら……残念だが、契約の破棄も――」
まるで己に言い聞かせるかのようにエレツはゆっくりと、噛み締めるように言葉を吐いた。だが、その言葉が全て終わらぬうちにエレツは口を閉ざす。視線の先に映る梗の顔が、不自然に背けられた。他人の感情を読み取ることを苦手とするエレツにすら分かるほど、不自然でぎこちない動作。
「すまん……」
気分を害したのだろうと察する。
エレツはこれ以上梗の機嫌を損ねないよう、無理にでも寝ることにして剣を抱え直すと目を伏せた。伏せてしまうと思ったよりもあっけなく睡魔に誘われ、意識を手放す。
手放した意識の外側で、再び木の爆ぜる音を聞いた。
数時間ほど睡眠をとると空は白むどころかすっかり明るくなり、陽が山間からようやく抜けだしたところだった。
エレツが温もりを感じて視線を落とすと、まだ赤々と焚き火が炎をあげていた。その炎の中で炭となった木が、重さに耐え切れず火の粉を散らして音を立てて崩れる。
『主』
声がかかり視線を向けると、梗が身を屈めてエレツの傍らに控えていた。片膝を地につけて頭を下げる精霊に、エレツは表情も変えずその姿をじっと見つめる。
「火の番、助かった」
『主、先の件は……』
エレツが眠りにつく前のことを言っているのはすぐに察した。謝るべきは自分ではないのかとエレツは小さく首を傾げる。
「俺の失言だ」
そう声をかけてやると、梗はほっと息を吐き出した。
「俺は俺の望むようにやる。だが、誤った道を選んだ時は正して欲しい」
『無論』
エレツの言葉に、梗はもう一度深く頭を垂れた。
それを見るとエレツは腰に下げていた袋を取り、口を開けて膝の上に置いた。中には港街で調達した干し肉が無造作につめ込まれている。一つを取り出して口に放り込んだエレツの傍で、双眸を布で覆い隠しているはずの梗はそれが何であるかを正確に悟ったようだった。呆れた溜め息がエレツの耳にも届いた。
『主、飽きないのか?』
「ああ」
長期持ち歩いても痛まないものがいいんだ、と一つの干し肉を長々と咀嚼しながらエレツは答えた。それに、梗が心配するほどエレツはそれに飽きてもいなかった。さらに調理しなければならない他の食料に比べ、干し肉はすぐ口に入れられる。普段、料理といえば狩った獲物を丸ごと焼くくらいしか能のないエレツにしてみれば、この上なく手軽な食材である。
『以前から思っていたのだが』
まさに恐る恐るといった表現にぴたりと当てはまるような声で梗が口を開く。
『我は主のその体、なぜ維持できているのか甚だ疑問でならない』
梗の言うように、エレツの体躯は立派なものである。背も高く、鍛え上げた肉体に余計な贅肉はついていない。腕や足は逞しく隆起し、体も厚い。彼を傭兵と見誤る街人や村人も多かった。
実際に戦闘においての腕前もかなりのものである。路銀を稼ぐために危険を伴う仕事を請け負うことがあるが、それをこなす度に“定住しないのか”や“傭兵団に加わらないか”と声をかけられてきた。生憎、定住する気もなければ固定の職に就く気もないエレツにそれらの提案は受け入れられない。
「……これじゃないのか?」
そう言ってエレツが指差したのはもちろん、口を開けた袋に詰め込まれた干し肉だ。他に何があると言わんばかりのエレツの口調に、梗は小さく首を振るう。どうにもエレツは本気でそう思っている節がある。そんなものだけで維持できるほどの体ではないことを、まるで理解していない。呆れて梗はそろそろ数えるのも飽きてきた溜め息を吐いた。
干し肉をもう一つ口の中へ入れ、エレツは立ち上がった。袋を閉じて再び腰に下げ、別の袋に手を伸ばす。中から手のひらに収まるほどの古びた紙切れを一枚取り出してそれを眺めた。
紙には複雑な陣が描かれ、文字もいくつか刻まれている。だがエレツには馴染みのない文字で、実際にそれが文字であるのか図形であるのかの判別もつかない。しかし、取り出した紙が目的の物であることは陣の形から確認できた。両手で掬うようにして紙をその手の上に乗せ、エレツは短く呟く。
「開(カイ)」
言葉と同時に紙は水へとその姿を変え、エレツの足元にあった焚き火の炎を一瞬にして消し去った。両手に残った水へ徐に顔を落とし、荒っぽく顔を擦った。
『主、また描術(びょうじゅつ)をそのような……』
梗の咎めるような声を耳にして、エレツは首を傾げた。彼にしてみれば火を消し、顔も洗えてすっかり満足なのである。小言を言われるようなことはしていないつもりだった。
描術は紙に陣を描き、その中に様々な妖精術を封じ込めることのできるもの。妖精術の原理などを理解していなくても【開】を唱えれば封じられた妖精術は発動する。店頭に並ぶことの多い描術は一般人でも容易に入手することができるが、最も売れているのはエレツが用いた水を封じたものである。行商人やエレツのような旅をする者にとっては、水は不可欠であるからだ。
「梗」
剣を腰の右側に下げ、エレツは振り返った。視線の先にいた梗はまだぶつくさと文句を垂れていたようだったが、エレツの声にすぐさま身を翻して隣に並んだ。
「まず、クァドだ」
エレツは建物があったであろうその丘から、川沿いに繋いである馬の方へ視線を向ける。かなり遠方であるが、馬がのんびりと草を食んでいるのを確認して再び視線を戻した。
夜が明ける前、暗くて確認できなかった中心と思われる場所をじっと見つめる。薄く滲む後悔の中に小さく笑みを浮かべてエレツは剣の柄頭に右手を置いた。
「フィンレイ……」
小さく呟いたエレツの声は、突如吹いた強い一陣の風によってかき消された。不思議そうに首を傾げる梗を見て、エレツは「行くか」と声をかけると丘を下りはじめた。
――フィンレイ、お前との約束は必ず――