(6)
夜が明けニーナと共に昨夜も足を運んだ酒場へ赴くと、決して広くないテーブルに通された。向かい合わせて座り、運ばれた料理を口にしながら今後について切り出したのはエレツだった。闇の国の北に位置するヘンデドへ行くのだと告げると、ニーナは首を傾げながら案を口にする。
「なら、ヘンデドの手前かしら」
「何がだ?」
「そこまで一緒に行くのよ」
にこりと微笑むその姿からは、到底血生臭い背景を想像することはできない。夜明け前に梗から聞いた話が、ニーナを前にするといささか現実から遠ざかる。
「お前は南に行くんじゃないのか」
「気が変わったの。ヘンデド近くにも用事があるのよ」
「賊が出たらどうする」
「平気よ。自分の身くらい守れるわ」
「野営だぞ」
「あら、野宿くらいわけないわ」
「金も出さん」
「要らないわよ、そんなの」
「他の奴でもいいだろう」
「貴方だから行こうと思ったの」
断ろうと口を開くと、被せるようにしてニーナの笑顔がさらに輝く。ついでに姿は見えないが、恐らく傍にいるらしい榧の刺々しい気配も増す。説き伏せて断るよりも素直に同行させたほうが確かに楽にはなるだろう、そう考えられるようになったのは朝食がほとんど終わった時だった。
「好きにしろ」
「お力になれるように尽力いたしますわ!」
ほとんど溜め息のような言葉にニーナは飛び上がって喜び、エレツの首に腕を巻き付ける。そのまま熱い口づけをエレツの頬に落とし、軽やかな足取りで再び元の椅子へと腰を落ち着けた。
「どうして旅をしているのかしら?」
運ばれてきた果実をフォークで転がしながらニーナが問いかける。その問いかけにエレツは一瞬落としていた視線をニーナへと向けたが、視線が交わることはなかった。すぐに先程までと同じように低い位置へ視線を向け、どう答えるべきかを思案する。
ニーナにしてみれば世間話の延長なのだろうが、エレツにはとてもそうとは取れなかった。
「答える義理はない」
考えあぐねた挙句ようやく口にしたのは、ニーナと出会ってから彼女へ向けたものの中で最も辛辣で最も冷ややかな言葉だった。明らかな拒絶の反応にさすがのニーナもそれ以上、この話題に触れてこようとはしなかった。ニーナの口から代わりと言わんばかりに別の話題が出てきただけでエレツの肩の力が抜けた。
* * *
街を発ってひと月が過ぎた頃、ニーナは梗と共に前を行くことが多くなっていた。二人の間に割って入ることが出来なかった榧が不貞腐れたように頬を膨らませ、エレツの隣に浮いている光景も既に珍しくはない。
馬二頭分の駆ける音だけが風に紛れて耳に届く。前方でニーナと梗が言葉を交わしているようだったが、エレツたちのところまではその内容は聞こえて来ない。
『梗ってば、僕の主とばっかり喋っちゃってさ。どういうつもりなんだろうね』
聞こえてくるのは並走する榧の愚痴ばかり。その愚痴も日を追うごとに少しずつ内容は変わり、最初こそ契約主であるエレツに当たっていたが、ここ数日はエレツを巻き込んで同意を求めてくるようになっていた。
「さあな」
『ああ、やっぱり死んでくれないかなぁ主。そうすれば僕だけの主になるのにね』
榧の言葉でエレツの表情がにわかに曇る。その表情に気づいているのかいないのか、榧は恍惚とした様子で淀んだ空を見上げた。
「やめておけ。堕ちるぞ」
忠告のつもりでそう声を発すると、榧はほんの少し目を丸くしてエレツを見返す。
かつて聞かされた中に“精霊が堕ちる”とどうなるか、という話があった。通常、精霊が堕ちることは殆ど無い。しかし、時折堕ちた精霊が現れるのも事実である。条件は諸説あるが、一番有力とされているのが主殺しである。
『なァんだ、知らないんだ』
榧は笑みを浮かべてくるりと身を翻す。薄汚れた灰色の衣の裾がその動きに合わせて小さな炎を纏うが、その顔が前を向くと同時に何事もなかったかのように消え去った。
『梗がなんで僕の主の傍にいるかも、分からないんだ』
「何の話だ」
問いかけると榧の口元が歪み、朱い目が喜びに染まる。
『正しく聞いてよ。僕ら精霊は嘘を口にできないんだから』
挑発するような声が耳に流れ込み、エレツはほんの僅か躊躇うように前方の二つの背をじっと見据えた。こちらの様子に気づくこともなく、依然なにか言葉を交している。
「お前は何者だ」
馬を走らせながら、エレツは右腰に下げた剣の位置を確認して榧の動きに意識を向ける。
「精霊ではないのか」
榧の硬く燃えるような赤髪が風に踊る。赤が深まったようにも見え、視線は自然と榧に向けられる。
『さすがだねェ、血飲の殺戮者。半分正解。半分ハズレだ』
弾むような声とは裏腹に、その双眸からは感情と呼べるものは跡形もなく消え去っていた。
『僕は精霊さ。主との契約も正統なものだ』
右手で剣の柄を握りしめ、両足で減速し始めた馬の腹を強めに蹴りつける。エレツは榧から視線を離すことなく、やや後方を陣取って馬を走らせた。
『少しばかり、魔と仲がいいだけさ』
「馬鹿な」
ありえない話である。梗からも度々聞かされてはいたが、精霊と魔は決して相容れない。咄嗟に言葉を吐いたが、榧は勝手にしろと言わんばかりに涼しげな顔で梗とニーナの後を追っている。
「魔に親しい精霊は全て堕ちている」
『堕ちない精霊もいたわけだ』
「属性長はお前を見逃しているのか」
エレツの言葉に榧の眼光が妖しく光を帯びる。
『來のこと言ってる?』
馬が嘶き足を止めた。エレツは咄嗟にベルトを外して鞘付きのまま、馬上で剣を構える。
『來を、火の属性長を貶すことは許さないよ』
「貶してない」
炎が現れ、まるで生きもののように榧の周囲でうねる。さながら蛇のように、獲物であるエレツを食らうのを待ちわびているようにも見える。
『君なんか、この程度で――』
『この程度で、なんだ。榧』
榧の背後から聞こえた声と同時に炎は消え、代わりに光をも受け付けない闇に染まった帯状のものが榧の体に巻き付いた。
『我が主に無礼を働くのであれば、我がお前を消すぞ』
「梗、いい。やめてやれ」
身動き取れずにもがく榧を一瞥しエレツが言うと、梗は僅かに不服そうに息を漏らす。
『しかし……』
エレツは剣を帯剣用のベルトに戻し、馬の背を撫でて鼻先を進路へと戻してやる。その頃になって、ようやくニーナの馬が駆け寄ってきた。
「榧を放してくださらない?」
ニーナの苦言にエレツが賛同するように視線を向けると、梗はようやく榧の拘束を解いた。
「すまない」
榧が何かを訴える前に言わなければとエレツが告げる。ニーナはいつもの笑みを絶やさないまま梗と榧、そしてエレツへと順に視線を巡らせる。それからようやくその顔に浮かべた笑みを色濃く刻み、まっすぐにエレツを見据えた。
「勘違いされていたら困るので言っておきますわ」
生温い風が緩やかに流れ、癖のない金髪を弄ぶ。ニーナは少しばかり煩わしげに風によって乱された髪を手櫛で整え、そっと押さつけた。
「わたくし、望んで契約を受け入れていますの。榧だけだもの、わたくしの考えを理解してくれるのは」
ニーナの笑みを真正面から受け止め、エレツは気を取り直すように深呼吸をすると榧に向き直った。榧は拘束された場所が気になるのか体を確かめるように触れていたが、エレツの視線に気づくとうんざりしたように顔を上げた。
『なんか用?』
榧の言葉にエレツは肯定するように小さく頷く。
「ヘンデドも遠くはない。ここまでで良いだろう」
エレツが言うと、榧は眉間にしわを寄せて顔を背ける。
「梗」
こちらを見もしない榧から視線を外し、馬を北に向けると梗を呼び寄せる。双眸を布で覆った梗はすぐにエレツの傍へと寄り添い、惜しむようにニーナの方へ顔を向けた。それに気付いてエレツはゆっくりとニーナへ向けて口を開く。
「すまないな。これ以上の同行は不要だ」
そこで一旦言葉を切り、拳を作った右腕を水平に胸の前で掲げる。
「旅の無事を」
静かに告げると弱めに馬の腹を蹴り、北へ向かって再び進み始めた。