猫、王宮へ上がる。
晴天の霹靂、という言葉がこの世界にもある。
その言葉は雲ひとつない蒼い空になんの前触れもなく雷が鳴るということを表わすもので、予想だにしなかったことが突然起こるさまを表わしている。
使用例はこんなところか。
「仕事で煙突の掃除をしてたら突然空から女の子が降ってきたんだ!あれぁ晴天の霹靂だったなぁ!」
もしくは。
「なんかよくわからん組織の一員に間違われたからノリで依頼を達成したら、そのよく分からん組織の一員になっちまったわー晴天の霹靂だわー」
といったところか。
後者は狙ってやってるだろうおまえ、としか思えないが、基本的には起こりえない出来事が突然その身に降りかかるといった意味でこのトリスティアでも使われている。
戸籍こそ持たないが、心はもう立派なトリスティア市民(裏の人間だが)であるキャットも今はそんな心境だった。
と、いうよりこのトリスティアでぶっちぎりで「晴天の霹靂」中である自信があった。
「晴天の霹靂……だなー」
キャットは今、大いなる「でっかい坂」であるトリスティアの城下街を馬車に揺られて昇っている。
がらごろ、と石畳の上を車輪が転がる音が否応なく聞こえてくる。
それに連動するように体に感じる緩い衝撃が、今キャットが置かれている状況を夢ではないと痛感させていた。
キャットが身に纏う服もまたその現実を強くする。
顔隠しのベールに長手袋にハイヒール。
それは普段――ハイヒールだけは仕事の関係上不適で履くことはないが着慣れた服装だ。
だがそれらの色は今日、完全な白、純白だ。
ウェディングドレス、花嫁衣裳。
それは普段キャットが身に着けている偽りのものではなく正真の正銘の「ウェディングドレス」だ。
「どうしてこうなった」
キャットが何故馬車に揺られ――一直線に坂の終端であるグラントリス王宮に向かっているのか、説明しなければならないだろう。
すべてのきっかけは黒の教会からの突然の呼び出しだった。
「“長腕”で……間違いないですね?」
ハリエットと遊びに行った日から三日後、特に仕事もなく救貧院で子供の世話をしていたキャットをそう呼ぶものが現れた。
呼ばれた場所は救貧院のど真ん中。周囲には子供たちもいた。
「みんな、グレースおばさんのところにいってて……ちょっとこの女の子から話があるみたいだし」
キャットはお絵かき遊びを中断し、子供の世話をグレース――タビー救貧院の長に任せると突然現れたフード姿の少女に向き直り、目を鋭くした。
少女の外見は目立たず、街の雑踏に紛れても違和感のないものだった。
ただフードの陰から覗く耳飾――鷹の尾羽根で作られたイヤリングが彼女の身分をキャットに示していた。
鳥――黒の教会に所属する情報探りの隠密にして、仕事の運び手。
彼らに夜を待たず真昼間、救貧院の真ん中で声を掛けられるのはこれが初めてのことだった。
だから知っている。
組織の会合を介さない、キャット個人への仕事が遂に来たのだろう。
それは“母”の評価を一定以上受けているという栄誉なことだが、同時に危険の前触れでもある。
昼間の鳥はアサッシンにとって凶鳥だ。
「くわしい話は、私の部屋で」
「心得ました」
キャットと鳥の少女は口数も少なく、年にそぐわない硬質な雰囲気を周りに放ちながらキャットの私室へと入っていく。
救貧院の中庭にある宿舎の1階。
2階からはここの利用者が寝泊りする宿泊スペースになっており、1階は受付窓口兼従業員宿舎といった趣だ。
その一室の扉を開け、キャットは周りに誰もいないのを確認してから鳥の少女を私室へと招き入れる。
「……生活感があまりないですね」
思ったことを口にする性なのか、鳥の少女がキャットの部屋を見回してそう言った。
ほっとけ、とキャットは思ったが否定は出来ないだろうと思う。
キャットの部屋は齢15の少女の部屋とは思えないほど物が少なく、寂れていた。
部屋にあるものは必要最低限のもので寝具と机と椅子。あとは衣類を入れる箪笥に小さなランプといったところだ。
鏡すらない。
窓はあるが締め切られ、内側から板で光が入ってこないように細工されている。
本来なら本を読む用途で使われるだろう机の上には鋭く磨かれた短剣が幾つか置かれ、壁には様々な種類の――動きを制限しない程度の小剣や手斧、連弩や鉄棍などが掛けられ、部屋の主に使われるのを静かに待っている。
生活感は少なく、物もない。
あるのは仕事に必要な道具と寝る場所だけ。
理想的な、アサッシンの部屋だった。
「適当なところに座って」
キャットは念入りに部屋の内側から施錠――たとえ外側から槌を持って突進されてもビクともしないだろう大きな南京錠を掛けて少女に向き直る。
キャットの表情は少ない。
普段、無口だがころころと表情が変わるキャットはこと仕事の話となると能面のように表情が少なくなる。
「それで、内容は?」
平坦な口調でキャットは鳥の少女に尋ねる。
フードを外した鳥の少女――あまり特徴のないが綺麗な顔の少女は肯き、事務的な口調で仕事の話に移る。
「黒の教会の“母”直々の仕事です。秘匿性の強い依頼なのでこのような形での伝令となりました」
本来ならば鳥はアサッシンに直接仕事を運ばない。
黒の教会が定める会合――戒めの祈りと呼ばれる秘匿会議に招聘され、そこではじめて仕事の内容を聞くことになる。
事前に収集した様々な情報を元に黒の教会の“母”が依頼主を会合の場に招き、そこで何故その者の死を望むのか聞き届ける。
その場にはアサッシンも共に集い、“母”との協議ののちに暗殺が承認され、人員の選定、手段の選択が行われる。
そして会合の最後には女神エリドラを思わせる格好をした“母”が密やかに、だが重く響きわたる声で宣言するのだ。
“汝が祈り、黒の教会が聞き届けたり、汝が祈り、エリドラが聞き届けたり”
それに対してアサッシンたちはこう応えるのだ。
“エリドラ――!エリドラ――!エリドラ――!”
と。
だがそんな儀式じみた会合が行われることなく、アサッシン個人に鳥から仕事を持ちかけられることが時々ある。
その理由は例えば暗殺の相手が同業者――戒律を破った同胞も含めトリスティアに何らかの理由で侵入してきた“真紅の同胞”をはじめとする暗殺組織のアサッシンであること。
これには戒律を破ったらもうそこでそのアサッシンの命は終わりであるし、商売敵は問答無用に敵なので会合は行われる必要なく信頼のおけるアサッシンの個人・寄り合いに依頼が齎される。
もうひとつの理由は例えば急を要する用件――暗殺の相手が何らかの手段でエリドラのアサッシンの来訪を知り、逃げる準備をしていたり、逆に報復のために依頼主に襲撃をかけた時だ。
前者は依頼された相手を逃がすという失態を避けるためであり、エリドラのアサッシンの情報が表の人間に知られることを防ぐ名目だ。
後者はその依頼人の生死に関わらずエリドラのアサッシン達のもつ特有の正義感と義務感が強く働きかけた結果として現れるのだ。
(今回はどちらか――どっちもロクなもんじゃないだろうけど)
そう思うキャットの沈痛な思いを無視して鳥の少女は話を続ける。
「事態は黒の教会の根幹に関わるところまで来ており、深刻な状況であります。そして急を要する事態であるとも」
「……そう」
「難易度も過去に例を見ない高度なもので現在の黒の教会では――“長腕”あなたしか此度の仕事を達成できるものがおりません」
(ええっ)
クールに、それこそ仕事人の様相で鳥の少女の言葉を聞いていたキャットは後半にうろたえる。
事態は黒の教会の根幹に関わる――重大極まりない問題が発生したようだ。
そしてその事態は今も続いており深刻――しかも急を要することだという。
その前半ですら聞いていたキャットの顔に汗が流れていた。
失敗は許されない依頼のようだ。
このときキャットが受けていたプレッシャーはかなり大きい。
さらにそれは数多くいるアサッシンを差し置いて“長腕”のキャットにしか出来ない仕事なのだという。
プレッシャーに弱めなキャットはもう滝汗だ。
おまけに難易度は過去に例を見ないほど高度――それならもっと凄腕にやらせればいいのでは。
キャットは黒の教会でもそれなりの位置にいるアサッシンだが上には上がいる。
“豪剣”のモンドには決して適わないだろうし、モンド以上の実力者もまだまだいる。
それに組織の“母”とその参謀でキャットの先生ヴィーザラは組織のアサッシンたちが束になってかかっても適わないだろう伝説級のアサッシンだ。
なにせあの2人は「ドラゴン」すらも暗殺する。
ただ単に討伐や退治したのとはわけが違う。
誰にも気取られることなく、そのドラゴンが自分が殺されたことにすら気づく暇を与えず殺したのだ。
何故そんなことをする必要があったのか知らないが――それがどれほど化け物じみた所業か想像するまでもないことだ。
しかしそんな2人が達成できない――そんな得たいの知れない依頼をキャットしかこなせないのだという。
冗談じみた、しかし冗談では済まされない悪夢だ。
「それで、仕事の内容は?」
キャットが短く、動揺を隠しながら鳥の少女に問いかける。
「今ここでお答えすることは出来ません――と、いうより私もあなたを教会に招聘するようにとしか……」
「私にしか達成できないとは?」
「“母”がそうおっしゃっていました」
(なにそれ、すっごく危険な香り)
無表情な鳥の少女の顔にひそむわずかな戸惑いと不安――自分の拠り所たる黒の教会がどうなってしまうのか、という感情を感じ取り、キャットは少女の言を信用する。
目の前の鳥の少女は意図して情報を隠しているわけではない。
「わかった。支度をしてから行きます……会合はいつもの時間?」
キャットは考えても仕方ないと自分を納得させ仕事を承諾する。
とは言うものの拒否権などないも同然で持ちかけられたら何が何でも承諾しなければならない。
非情なようであるがアサッシンとしては当然のことだ。
来る仕事は選ばないし選べない。
選ぶことは“母”の仕事だ。
「ええ、ですが今回の会合は“母”の部屋で」
「わかった」
鳥の少女とキャットは肯きあい、会話を終える。
そのまま無言でキャットは扉を施錠していた南京錠を外し部屋の扉を開けて道を開ける。
鳥の少女は綺麗な会釈をひとつするとフードを被り扉から歩いて出て行く。
キャットは扉を閉めもう一度南京錠を部屋に掛け、ベッドに座る。
突然舞い込んできた情報を整理するためだ。
キャットは鳥の少女を見送ろうと思わない。
それは鳥とアサッシンが一緒に長くいてはいけないという決め事と、鳥の後を追おうとしても無駄だと知っているからだ。
少女はもうこの建物にはいないだろう。
もしかしたらもうどこかの屋根の上を跳び、次の連絡を運んでいるかもしれない。
鳥とはそういうもの――それが出来るから鳥なのだから。
鳥の少女との邂逅から数時間後、キャットの姿は街の雑踏にあった。
仕事帰りの表の人間や馬車を避けて歩くキャットは完全武装だ。
黒のウェディングドレスを隠すフード付きの外套の内側でかちゃかちゃと小さな金属音がする。
それはキャットが自分の体の一部のように身につけた無数の短剣ではなく、腰に差した小剣の鞘が硬い外套の裏地に擦れる音だ。
キャットは全身に短剣を、腰には小剣を帯びている。
さらに小剣と反対側の腰には組み立て式の連弩を帯び、その二つを吊ったユーティリティ・ベルトには煙幕を発する筒と先端の尖った鉄棍を挟み込んでいる。
人間相手ならばおおよそ対応仕切れる装備を揃えたつもりだ。
普段の仕事ぶりからか、エリドラのアサッシンの中にはキャットを短剣しか扱わないアサッシンだと思うものもいる。
“長腕”という異名は本来相手の懐で振るうべき短剣を投擲して使うさまを指すと思うものもいる。
それは確かに真実だ。
短剣はキャットが一番はじめに父親から手解きを受けてモノにしたお気に入りの得物であり、アサッシンとして活動する上で一番最適な武器だと思っている。
だがそれとは関係なしにキャットは一通りの武器を扱える自負がある。
片手で使う剣や斧はもちろんのこと、重みで相手を殴り殺す大剣や両手斧、槍をはじめとするポールウェポン。
弓や銃といった遠距離から相手を仕留めるものはもちろんのこと、爆薬にだってある程度の知識はある。
使えないのは天性の素質を要する魔法くらいだ。
キャットの“長腕”とはどこにでも届く――距離を選ぶことのない戦闘技術に名付けられた異名なのだ。
それもこれも子供時代、父から教えこまれた教育の賜物だ。
「……」
キャットは街角の一角で立ち止まり、フードの下からひとつの建物を見上げる。
別に寂れた廃墟でもなければ怪しげな洞窟でもない。
少々人の出入りが少ないくらいが特徴の、何の変哲もない酒場のひとつだ。
酒樽の置かれた入り口の横には林檎の形を模した看板が吊るされ、緩やかな風に晒されてきぃぃ、と硬質な泣き声をあげている。
酒場の名前は「ビター・シードル」
甘みのない林檎酒。
トリスティア城下街の、商業区と遊楽区のちょうど真ん中に立つ普通の酒場だ。
キャットは気後れすることなくその扉に手を掛け、中へと踏み入る。
「……」
酒場に入った途端、酒場に満ちていた嬌声はやみ、入ってきたキャットへと一斉に注がれる。
それほど広くもない「ビター・シードル」は今日も満席だ。
老若男女――唯一いないのは貴族くらいのもので、鎧に身を包んだ冒険者も恰幅のいい商人もひととおり揃っている。
揃っているというのは語弊か、理想的なくらいばらばらだろう。
だがそのばらばらの人間たちの眼には共通した光が宿っている。
罪深き者に罰を、罪深きものに眠りを、罪深き者にエリドラの救いを。
得たいの知れない、粘性の光が確かに宿っている。
それはキャットの瞳にも宿っているものだ。
アサッシンの瞳。
幾つか見知った顔があるな、と思いながらもキャットは気にせず「ビター・シードル」の中央を歩き、目的の場所へ赴く。
その間に沈黙は嘘のように消え去り、キャットが入る前のやかましいくらいの話し声が満ちる。
別に大した理由などありはしない。
ただ単に今、この時分に入ってきた「ただもの」ではない少女が仲間かそうでないか見極めたのだろう。
その瞳を理解できない表の人間は「ビター・シードル」はヤバイ店だと思い近寄らなくなる。
「……おひさ」
キャットは部屋の隅のテーブルで立ち止まると、そこに座り杯を傾けている男に手を軽く挙げて挨拶した。
男の名前は知らない。知るつもりもあまりない。
目深に帽子を被り、両腕に包帯を巻いたそのエルフの名前を知りたがる者はあまりいない。
ただ皆知っているのはそのエルフは今の“母”が黒の教会のトリスティア支部の長となるより長く生き、ずっとこの酒場の隅の席で「門番」をしているという事くらいだ。
あとわかっているのは鉄を触ると肌が焼ける体質のくせに銃を愛用する酔狂者で、とんでもない名手であることくらいか。
「娘、このコインはどこに落ちると思う?」
彼は帽子の下で笑うと、きん、と済んだ音を立てて親指でコインを宙へと弾く。
それは本来ならばコイントスだが、彼のやるものは違う。
本来なら重力に従って落ちてくる筈のコインはどこかへ消え幻のように消え去ってしまう。
彼のコイントスはそのコインがどこへ消えたか答える遊びだ。
と、いっても死を望む者以外、答えはひとつしかないのだが。
「石畳に満ちる、血だまりの中に」
ぱし、と音がして、彼が手を握り締める。
広げられたその手の中には消えたはずのコインが乗せられている。
別段驚くことはない。
エリドラのアサッシンならば誰もが目にする光景なのだから。
「おかえり、若き“長腕”よ。コインは君が入ることを許した」
耳に深く残る気持ちいい声で彼は宣言し、酒盃から手を離して酒場の壁へと触れる。
かちり、と歯車が重なる音が響き、重い音を立てて酒場の壁が動く。
その先にあるのは6段くらいの短い階段と黒く塗られた扉だ。
酒場の地下、このトリスティアの地下に広がる黒の教会の本部への扉だ。
「ありがとう、善い夜を」
「こちらこそ、善い夜を、若き“長腕”」
お決まりの挨拶を終えて会釈すると、キャットは階段を下りて扉を開ける。
冷気が扉の先から流れ込み、暗闇が現れる。
だがそこはキャットにとって我が家のようなもので、臆することはない。
キャットは扉を閉めると慣れた足取りで暗闇の中へと歩いていった。
(そこまではよかった……いや、決してよくはないんだけど……けどナァ)
回想を中断し、現在の花嫁姿のキャットは馬車の窓から沿道に群がる群衆を見やる。
皆、全て突然おおやけになった「王子婚約」の相手に興味心身の様子だった。
基本的にトリスティア民は無類のお祭り好きだ。
何か騒ぎがあるといち早く飛び込み揃って馬鹿騒ぎをするのが無上の喜びのような人々だ。
今回の出来事――割と国のこれからを左右する一大ニュースもまた彼ら愛すべきトリスティア民には「お祭りの種」であり、めちゃくちゃに騒ぐ口実になったようだった。
「ふおおおーっ!旦那の姫様どんなんだーっ!見せろやーっ!」
押し合いへし合いして騒ぐ群集の中から、ひとりの若者が飛び出して馬車へと近づこうとする。
「馬鹿!やめぬかコラッ!!!」
「お披露目は7日後に行う!それまで待て馬鹿者ども!!」
キャットの乗った馬車の周りには当然の如く警護の兵が付き従っており、無謀な突撃を敢行した若者は襟首を掴まれ人垣の中へと投げ飛ばされる。
乱暴な行いだがそれは民衆も兵士隊も承知の上での行いで、このお祭り騒ぎのイベントの一環のようなものだ。
うははははは、残念だったなー、と鼻血を流しながらも仲間に支えられて若者は馬鹿騒ぎの群れに戻り、自分の蛮勇を自慢するようだった。
そんな人間は一人では済まず、次々と連鎖するように現れキャットの乗った馬車に突撃しては警護兵たちに投げ飛ばされて群集へと戻っていく。
必死に止める警護兵に押され押しつつ、野次馬根性丸出しで身を乗り出して大騒ぎしている。
トリスティア人の声は大きい。
頑丈な馬車に護られたキャットの耳にさえその大きな会話は飛び込んできた。
「よっしゃーっ!今見えたぞーチラッとだが見たぞー!エド旦那の嫁さんの顔をよー!」
「マジでかッ!?どんなんだ?やっぱおっぱいボインか!?」
「普通だ!」
(顔の話じゃなかったの……?)
キャットの疑問をよそに窓の外の会話は続く。
「そういやおい手前、知ってたか?旦那の嫁さんはあのウィーストン家のご令嬢らしいぜ?」
「えっ!?マジかよ?この前の火事で焼け死んだって噂じゃなかったのかよ」
「それが彼女――ええと?エリスさま?はたまたま屋敷を離れていて生き残ったらしいぜ」
「ええー可哀相だな……それを囲うとか、エド旦那マジ男前過ぎんだろ……」
そんな馬車外から聞こえてくる会話に“噂”の操作は巧く働いているようだとキャットは安堵する。
今、ここにいるキャット――いや、エリス・ウィーストンは生きている。
屋敷の誰かが起こした火の不始末から起きた火事により住人は皆焼死したが、彼女だけは屋敷を離れていて生き残った。
表の住人にはそういう風に“されている”
それを為したのは黒の教会がばら撒いた間諜――鳥達の働きの賜物であり、キャットが「先生」と仰ぐ黒の教会の参謀の指示によるものだった。
その本意はエリドラのアサッシンの存在をウィーストン家と繋げない為。
キャット自身が今こうして今は亡きエリスに扮してここにいるのも全てはその為だ。
(うん、まぁ、きっと……その為なんだよね?)
エリス……ではなくキャットは「ビター・シードル」の地下道を通り、黒の教会の本部を訪れたところから回想を再開する。
ぱん、ぱん、ぱん――
「ビター・シードル」から続く地下道を通り、黒の教会の本部へと続く扉を開けた矢先、そんな音がキャットを出迎えた。
その音と共にカラフルな紙吹雪がキャットを両脇から飛び出し、ぱらぱらと空中を遊泳したあと足元に落ちる。
つんとした火薬の匂いがした。
だが本物の火薬ではない。
遊びで使われるクラッカーの匂いだ。
黒の教会の本部はいつもと同じ有様だった。
天然の洞窟を改造して作られた本部は広く、雑然としている。
正面の扉を開けた先には黒の教会の母がアサッシンと会合する為の円卓が設けられ、その周りを背の高い本棚が円周上に配置されている。
その空間を基点にして様々な暗器や装備を保管する倉庫や薬品の調合が行える工房、表の医者にかかることなく治療を受けられる医務所などが申し訳程度の間仕切りに区切られて存在している。
円卓の後ろの壁には黒の教会の象徴たるエリドラ――首元を押さえ蹲る青年を短剣片手に見据えるフード姿の女神が描かれた垂れ幕が飾られ、篝火に照らされて己の信仰者たちを見守っている。
その両脇には階段があり、そこをあがった先にはアサッシン達が一時的に休息出来る宿泊部屋が幾つか設けられている。
「な……」
突然聞こえた破裂音に数瞬遅れてキャットは吃驚して反射的に手で顔を守り――そして訝しげに腕を降ろしてもう一度驚愕することになった。
ぱちぱちぱちぱち……
普段ならあまり人がいない本部に、その日は多くのアサッシン達がいた。
扉を抜けた先の通路に、中央の円卓に、剣や短剣が吊るされた武装棚の隣に、様々な資料が収納された本棚の上に――
それぞれ思い思いのアサッシンとしての仕事着に身を包み、呆然と立ち尽くすキャットに向けて拍手を送っている。
ほとんどの者が顔を隠していてどんな表情をしているか伺えなかったが、幾人かからは戸惑いの表情が伺え、さらに幾人かからは何故かとてつもなく楽しそうな雰囲気だけは伝わってくる。
それだけでも意味不明過ぎる状況だったが、特にキャットの正面、円卓に見える光景はさらに混乱に拍車をかけた。
“婚約おめでとう、キャット”
……そんな文句が書かれた看板を、見知った3人の人物が持っていた。
曰く、その真ん中にいるのはこの黒の教会の“母”でありキャットの育ての母である女性だ。
この黒の教会のメンバーは彼女の本名を誰も知らない。
ただ“マム”というそのままの名前で彼女は慕われており、キャットも同じように彼女を呼んでいる。
齢は女性として円熟を迎えた30台半ばくらいか。
ボリュームのある艶やかな黒髪に宝石のように綺麗で鋭い瞳。
“母”が身につける黒の外套の襟首からは白いブラウスの襟が見えており、大人の女性を感じさせている。
マムはにこにこと――実に人好きのする笑みを浮かべてキャットと相対している。
ぎいい、と軋んだ音を響かせて首を曲げ、その横にいる人物にも目をやる。
「あはは……」
乾いた笑いと引きつった笑みを見せるのはこの前つかの間の休息を楽しんだ親友、ハリエットだ。
彼女もまた普段あまり着ることのない仕事着に身を包み、看板の端を持って立っている。
ハリエットの仕事着を見るのは久々のことだった。
変装し市井に紛れて仕事をするハリエットは普通の街娘の服こそがアサッシンとしての常体で、キャットのような戦う為の服に身を包むことはあまりない。
それでも必要とされれば決まった服装に身を包むこともあった。
ハリエットが身につけるのは黒い――それこそ闇に身を隠すことに特化した闇色の上着と同色のサロペットだ。
それを身につけたハリエットの肢体はしなやかで、闇を纏っているようだ。
ただ腰に巻いたホルスターとそこに収められた短銃。そしてそれを隠すように巻かれた黒い布だけが彼女の身につける異物であり、彼女の身につけた武器だ。
光量を抑えた天井のランプがフリントロック・ピストルの握りに備え付けられた金槌をきらりと輝かせている。
キャットはもう一度、ぎいい、と軋んだ音を響かせてハリエットの反対側の人物に目を向ける。
「……」
ひきつった笑顔のハリエットと同じく看板の端を持つのは“豪剣”妻子持ちのアサッシンとして定評のある男、モンドだ。
彼もまた普段城下街をパトロールするときの銀色の胸甲鎧ではなく、アサッシンとして闇夜に紛れるときの服装に身を包んでいる。
闇に紛れるときに重宝するアサッシンの必需品たる黒い外套に襟元を隠す黒いマフラー。
外套の下には薄手のコートを羽織り、なめした皮鎧で胴体を守っている。
その腰には騎士剣を思わせる鍔の長い剣を帯びており、その長大な切っ先がコートの裾から隠れきれずに覗いている。
何故自分がこんなことをしているのか。苦悩している様が髭の薄い顔にありありと浮かんでいる。
嫌々看板を持たされているのは明白だった。
(何なの?これ)
うろたえるキャットを黒髪の女――マムはふふふ、と意地悪く笑い、よく通るアルトボイスでキャットに話しかけてくる。
「驚いているようね、私の“長腕”」
「あの、一体これは……」
得意げに笑うマムに自失したままキャットは駆け寄ろうと前へと足を向ける。
だがその歩みは次に放たれたマムの言葉でまた止まることになる。
「これがあなたに課せられた任務だわ」
思考がフリーズする。
それと共に何かに縋りつこうと伸ばされた指先もぴたり、と見事に静止し、キャットはひとつの彫像になる。
キャットのその様子に看板の端を持たされたハリエットは痛ましげに視線を逸らし、自分の無力を噛締めるように俯いた。
「キャット……ごめんよ、ボクは無力だ……」
「……なんで俺はこんなことしてるんだ?」
しばらくの奇妙な静寂ののち、キャットは復活する。
いや、正確にはそれは復活とは呼べないだろう。
再び動き出したキャットはぼんやりと虚ろに看板と満面の笑みを浮かべたマムの顔を交互に見やり、どんどんと首を傾げていく。
その頭の上には大きなハテナマークが浮かんでいる。
何が面白いのかマムの周りにいたアサッシン達はくつくつとフードや頭巾に隠された頭を丸め、必死に笑いをかみ殺している。
完全に面白がっている様子だ。
「まぁまぁ、“長腕”君への詳しい説明はこれからするよ」
どんどんハテナマークを増やして首が直角に曲がりそうなキャットを見かねたのか、落ち着いた男の声が後ろから聞こえてくる。
そこにいつからいたのか、マムとよく似た衣装の外套を羽織り眼鏡をかけた男性が困った様子でそこに立っている。
ヴィーザラ、家名は知らない。
黒の教会を束ねるマムの参謀にしてキャットにアサッシンとしての手解きをした「せんせい」がそこにいた。
「ヴィーザラさん」
彼、ヴィーザラは通り名を持たない。
その理由は決して実力が低くアサッシンとして認められていない訳ではなく、必要としないからだ。
そもそも通り名とはアサッシンが本名を表の人間、そして自分の同胞たちからも護るために考案されたものだ。
今の黒の教会では考えられないが、昔はアサッシン同士での獲物の取り合いや怨恨による私闘が多く、表の身元を特定して住居を襲撃したり肉親を人質にとるようなことがしょっちゅう起こっていたらしい。
それを防ぐためにアサッシンたちは自分の正体を隠すための名前を名乗り、背中を預けた仲間にさえ素性を晒すことなく仕事をするようになったのだ。
今はアサッシン同士の結束が固くなり、特にこのトリスティアを拠点とする黒の教会では家族同然の信頼感で繋がっている。
ここに居並ぶアサッシン達はキャットも含めて仲間と争おうとなど考えることなく、もし仲間の名前を売れと脅迫されたならば断固として拒否するかもしくは死を選ぶだろう。
ヴィーザラは特にその信頼を黒の教会に託している。
それだけでなく、もし実名を表の官憲に知られ追跡の手を伸ばされたとしても決して捕まることはないだろう。
何故ならば彼には表の顔と呼べるものがなく、どんな人間に追跡されたって負けないだけの手腕を持つアサッシンだからだ。
「ヴィーザラさん、マムが」
「ああ、落ち着きなさい“長腕”混乱する気持ちはよくわかるよ」
「マムが」
「うん、大丈夫だ。とりあえずその首をそろそろ戻したほうがいいんじゃないかな?折れるよ」
「マムが乱心しています」
「……うん、私もそれは否定できないかも」
最後の言葉をキャットだけに聞こえるように呟いたヴィーザラはいい加減傾き過ぎたキャットの首をぎぎぎ、と手で戻し、手を引いて円卓の方へと身体を誘導する。
看板を持っていたマムはいつの間にか円卓の上座――入り口から一番遠い席へと座り、盟主よろしく組んだ手に顎を乗せ、その宝石のような瞳をキャットへと向けている。
空いていた他の席にはアサッシン達の上位者――高い実力を持つ古参格や知恵者、比較的大きなアサッシンの寄り合いのリーダー格が座り、会合が開かれているのを静かに待っている。
それが常体、キャットが今日参加すべきだった「いつもの」アサッシンの会合の様子だ。
……だが何人かはまだ肩を震わせたり、フードから見える口元を必死に平行に保とうと苦心していて、先ほどの光景が夢まぼろしではないことをキャットに嫌というほど痛感させていた。
それでなくとも視界の端にはまだ看板を持ったハリエットと、背中に幽鬼のようなものを立ち昇らせたモンドがちらちら見えており、静謐とした会合をこれ以上なくぶち壊しにしていた。
「――さて、これで役者が揃った……座りなさい私の“長腕”」
静かな、月夜に照らされた刃の如き静謐さを篭めたマムの言葉が円卓に流れる。
それを合図にキャットはヴィーザラの手に促されて円卓の下座に座り、マムと向かい合う形になる。
もう笑いを堪えている者はいない。
「――」
「まず“長腕”私は君に謝らなければならないことがある」
「それは――」
キャットの問いを引き継ぐようにマムが言葉を呟く。
「それはグレアム・ウィーストン家の暗殺。そこに大きな危険要素が隠されていたことに、気づけなかったことだろう」
すまない、と小さくマムが頭を下げる。
その様子にキャットは驚いた。
マムは外見の通り気が強く、高潔な魂を持った女性だ。
他人に――特にキャットのような末端のアサッシンに頭を垂れて謝るなど想像もできないことだった。
「本来の我々の仕事は鳥を使い全ての情報を手の内に収め、すべての危険に繋がる事柄を排除してから行われるべきことだった」
マムの言葉をそのまま継ぐように、キャットから見て右側のアサッシン――単眼の文様が刺繍された布で目隠しした女性が発言する。
「だが事態は急を要していた。我々のところに“祈り”が届けられるまでに、罪無き婦女たちの血が流され過ぎていた」
それはキャットも知っていることだ。
グレアムの傘下にあった奴隷商たちは巧みに番兵たちの眼を掻い潜り、幾人もの若い娘を攫っては調教を施していた。
“祈り”を捧げたのは娘が攫われるところを目撃した老女で、市井には変人として忌避されていた女性だった。
彼女の訴えは番兵たちに信用されることなく、妄言と決めつけられて碌な捜査が行われなかった。
もしかしたら有力な貴族が裏で糸を引いていた結果なのかも知れない。
彼女の目撃情報を頼りに奴隷商たちのアジトへと踏み込んだアサッシン達は凄惨な光景を目撃したという。
数々の拷問と調教の痕跡。そして「商品価値がない」として処刑され、吊るされた哀れな女性の亡骸。
それを知ったアサッシン達は怒りに燃えた。
お上がこの罪を捨て置くのならば、我々が、エリドラが拾いあげよう。
そしてこの罪を我々のやり方で清めてくれよう。
「そして咎人たちは我々の予想以上にこのトリスティアに巣食っていた」
「そうだ、まるで蜘蛛の巣の如く糸を張り、その中心を隠蔽していた」
キャットから見て左側、道化師の仮面を被った老アサッシンと、黒い頭巾を被った傭兵風のアサッシンが発言する。
奴隷商たちは全て金で雇われたゴロツキ達で構成されていた。
暗殺を行ったあとにその亡骸や住居を探り情報を得たとしても、得られる情報は末端同士の繋がりばかりだった。
業を煮やし拷問を行った者もいたが、俺は知らない、俺は雇われただけだ、と泣き叫ぶばかりで有益な情報は得られなかった。
その間に婦女は巧みな手口で攫われ犠牲者は増えるばかりだった。
それでも使命に燃えたアサッシンたちは諦めず末端を潰して周り、助けた奴隷からの情報を得て少しづつ糸口を掴んでいった。
その段になってようやく表の番兵たちが事態の重さに気づき警備を強化し、婦女に夜は出歩かないよう忠告したがその動きはもう遅すぎた。
一度幕があがった舞台には、役のない者は上がれない。
「そして4日前、遂に奴隷商たちの元締めへと辿り着くものが現れた」
「“豪剣”に“死の抱擁”そして“長腕”……君たちのことだ」
突然通り名を呼ばれたハリエットがびくりと震え、緊張する。
その横ではモンドが目を細め、背筋を正していた。
「そう……私たちはそこで一度冷静になり、本来の手順に立ち戻るべきだった」
マムが厳しい口調で述懐する。
それに幾人かが同意し、肯きを示した。
「豪商グレアム・ウィーストンの娘……エリス・ウィーストン」
その名前にキャットは、はっ、とする。
エリス・ウィーストン。
その名前はさほど苦労せずとも思い出すことだ出来る。
それは当然のことだ。
自分と同じ顔、同じ声、同じ仕草をした人間を、そう易々と忘れられるわけがない。
「あの悪辣な家の中で唯一善良だった彼女こそが――最大のイレギュラーだった」
「事前に知っていたならば、決して手出しはしなかっただろうな……戒律を曲げてでも」
キャットは表情を固くする。
エリスと相対し、逃げる彼女を追跡して暗殺したのは他ならぬキャットだ。
何かとんでもない過ちをしでかしてしまったのか。
ハリエットの心配そうな視線が痛い。
「……こうして順を追って説明するのも疲れたわ――キャット、よく聞きなさい」
マムがかぶりを振って立ち上がり、鋭い色を秘めた瞳を細めてキャットを見据えた。
キャットはその視線に射抜かれて動けない。
果たして自分はどんな過ちをしでかしてしまったのか。
痛いほどの静寂のあと、マムが呟くようにしてその事実を口にした。
「彼女はね、キャット……エドワルド・ドラコニア・バックハウスと婚約する予定だったのよ」
「――――」
エドワルド・ドラコニア・バックハウス。
その名前はこのトリスティアに住む者ならば誰でも一度は聞いたことがあるだろう。
籍を持たないキャットだって知っている。
何故ならば彼――エドワルドはこのトリスティアを統括するバックハウス王家の次男で、王位継承権を放棄して行方を眩ました兄に代わって第一王子となった。
将来「王」になる人だ。
容姿端麗、眉目秀麗。
まだ年若く20を過ぎたばかりだというのにこのトリスティアの統治を王に代わってこなし、父国から思い出したかのように送られてくる無茶な「貢物」の要求にもなんなく対応しているという。
贅沢極まりないドラコニア王家の「貢物」の要求に苦しむ国が数ある中、その要求に応えつつも着実に独立へ向けて国を発展させている彼は紛れもない「国の柱」だ。
彼に国民が寄せる信頼は非常に篤い。
「そんな……」
「ありえないと思うでしょ?でも王宮筋に潜ませていた鳥が聞いてしまったのよ……あなたが殺したエリスが王子と婚約するということをね」
マムが疲れたように溜息を吐く。
「何かの間違いということは」
「それも調べさせたわ――鳥、あの手紙をここに」
円卓に座っていた外套姿の1人――よく見知った鳥が懐から何かを取り出しマムへと渡す。
呆然とするキャットにマムはつかつかと歩み寄り、手の中の手紙を広げてみせた。
くせのない、流麗な文字で書かれた上品な文章の羅列。
その内容を時間をかけて読み取り、キャットは大きな目をさらに丸くする。
「エリスはどうやら相当エドワルド王子に入れ込んでいたみたいね。どんな方法をとったか分からないけど……自分の素性も身分も隠して何通も何通も恋文を送っていたみたいね」
はぁ、とマムは額に手を当てて嘆息する。
その顔は少し困り、笑っていた。
「起きてしまったのよ“長腕”ほとんどの手紙はお付きの従者で止まって読まれもしなかったみたいだけど――一通の手紙が王子の手元に渡り」
「王子が、承諾した」
「……そういうことよ」
マムの手で広げられた手紙には、エリスの恋文への返答が記されていた。
それは当たり障りのない時候の挨拶からはじまり、何度も手紙を送ってきてくれたことへの感謝と、これまで手紙を読まなかったことへの謝罪。
そしてエリスの思慕へと応える旨が書かれていた。
その返答の言葉はとてつもなく重い。
ひと目貴女に逢ってみたい。一度2人の時間を過ごしたい――普通ならばそう応えてお互いの姿形を確認する「前座」を綺麗にすっぽぬかして。
あなたを私の妻に迎え入れたい――そう意味する言葉が手紙の最後に記されていた。
「何故、そんなことに」
キャットは愕然と呟く。
「それは私にもわからないわ。ただ言えることはこの2人は一度も顔を合わせたこともないし、エドワルド王子は愛という感情で動くような人間ではないということね」
「ということは彼女とエドワルド王子の間で何らかの……取引があったということですか?」
ハリエットが緊張の色を声音に滲ませながらマムに訊ねる。
マムはそれに思案の表情でかぶりを振って答える。
「それもわからない。今も王宮に鳥を放って探らせているけど……王子と豪商とはいえ一市民の娘との間で取引が成立したとは考えづらいわ」
「するってとナンですか。王子は気まぐれで結婚を申し込んだってことですかい」
これはモンドだ。
髭の薄い顎をさすりながら何かをいぶかしむような表情。
「そんなことをする人間にも思えないけれど――その可能性も踏まえた上で、我々には動かなければならぬ事情がある」
マムは思案をやめ、涼やかな声でそう言う。
そして声を大きく、本部に佇むアサッシン達ひとりひとりに聞こえるようにゆっくりと話しはじめる。
「昨今、我々の動きを掴むために動いている騎士団があることをみんなは知っているわね」
アサッシン達が肯く。
それはキャットも知っている。
ドラコニア王宮騎士団特別捜査課。
通称“猟犬”
父国ドラコニアでのエリドラのアサッシンの動きを危険視し特設された特殊な騎士団だ。
そのメンバーは地方で活躍していた腕利きの騎士で構成されており、非常に優秀であることが知られている。
ドラコニアで活動していたアサッシンで彼らに検挙された者も数知れず、そのせいでドラコニアのアサッシンたちは動くに動けない状況を強いられているという。
その結果を生み出しているのは彼らの個人の優秀さ所以もあるが、もうひとつエリドラのアサッシンにとって忌避すべき要素で生み出されている。
それは正義の神“ジアステス”の加護。
熱心なジアステスの信奉者たる彼らは人ならざる力でアサッシンの居場所を突き止めるという。
「エリドラの乱心」で逃げるエリドラを追い続け、世界の果てにあるクラックリネンスまで追い詰めたように。
彼らの捜査能力からは最後の崖っぷちに辿り着くまで逃れられないという。
「トリスティアにある“猟犬”の支部が動き出している」
マムは言葉を切り、唇を舐めてから続ける。
「これまで鳥を追跡する以外は目立った動きを見せなかった彼らがグレアム・ウィーストン家の暗殺に注目しているわ」
ざわ、とアサッシン達がざわめく。
それを聞いたのはキャットもはじめてだった。
視線の端にいるハリエットと顔を見合わせる。
「もし彼らに館の焼け跡を捜査されたら暗殺の証拠が見つかる公算が極めて高い」
「そしてそれだけは是が非でも避けなければならない事態なのです」
マムの言葉を継いでヴィーザラが付け加える。
確かにそうだ。
“猟犬”には腕利きの魔法使いが揃っているという。
彼らの魔法による精査と、ジアステスの加護を受けた騎士の手にかかれば暗殺の証拠は簡単に見つけられるだろう。
キャットの短剣による血痕と刺し傷。“毒蜂”が流した毒薬による死骸の変容。ハリエットの短銃による銃創。“骨砕き”の鉄棍によって生じた死骸の損壊。
それだけ様々な殺しの手口と足跡があれば“猟犬”には証拠を見つけることは容易いだろう。
「……そうだ。それを足掛かりとされてこちらの動きを掴まれては我らも本国の二の舞になる――今の事態の深刻さ、わかってもらえたかしら」
アサッシン達が沈黙する。
誰も咳払いすらしない。
「それを避けるために、我々が執るべき行動はこうだ」
マムが沈黙したアサッシン――そしてキャットを見据えて宣言する。
「ひとつに噂の捜査……鳥を放ち市井にグレアム家に生き残りがいることを喧伝し、我らの存在を人々から逸らす」
マムが人指し指を立ててそう告げる。
「ひとつに現場の隠蔽……グレアムの後任となる鉱山オーナーを仕立てて、屋敷に彼らが立ち入らないよう復旧工事を行う」
中指が立つ。
幸いにしてこのトリスティアの“猟犬”の地位は低い。
新しいオーナーが一度屋敷の工事を始めてしまえば捜査に立ち入らせないようにすることも可能だろう。
「そして最後……これが“長腕”あなたに与えられた仕事だわ」
3本目の指。
その爪の先を見てキャットはごくり、と唾を飲み込む。
緊張で最初に見たおかしな光景を忘れてしまっていた。
「ウィーストン家で死んだエリス・ウィーストンの復活。そしてエドワルド王子との婚約……その一大事をもって完全に我らの存在を闇に隠すわ」
沈黙ののち、キャットはぽかんと口を開ける。
エリス・ウィーストンの復活。
そしてエドワルド王子との婚約。
確かにそのふたつは十分に大きなニュースだ。
生き残りの娘と国の王子との突然の婚約。
それは他国でも稀にない珍事かつ国を揺るがす一大事であり“猟犬”の眼を逸らすのに充分な混乱だろう。
だがそれが自分――キャットにしか出来ないとはどういう意味だ。
一体――――
“さようなら、わたしのそっくりさん”
あっ、とキャットは大きな声をあげる。
ハリエットやモンド。他のアサッシンがキャットを見ようとお構いなしだ。
全てが繋がった。
エリス・ウィーストンと自分。
そっくりな顔。
そして最初の「婚約おめでとうキャット」
「分かってくれたようね」
マムがにやり、と人の悪い笑みを浮かべる。
ヴィーザラも困ったような笑みを浮かべた。
円卓についていたマムの周りのアサッシンも同様だ。
先ほどの笑いがぶりかえしたように、それぞれ思い思いの笑みを浮かべてキャットを見つめている。
「キャット。私の“長腕”惜しいけれど今日であなたとはお別れだわ」
がし、と突然キャットは背後から両腕を掴まれる。
何事かと見ると男――いや、正確には「非常にむくつけき肉体を持つ女性の心を持つ男のアサッシン」が2人、無表情でキャットを見つめている。
黒の教会でも有名な二人組みだ。
ひとつはそのインパクト重視過ぎる外見と優秀な殺しの腕。
そしてもうひとつ――女性顔負けの化粧の技術持ちということだ。
無表情な彼らの視線にはひとつの言葉が浮かんでいるのが見える。
“どう料理してくれようか”
マムがにこやかに腕を振って笑う。
「しばしさようなら“長腕”……じゃなくて王妃のエリス。頑張って彼女の代わりを務めるのよ!」
(えええええぇぇぇ!?)
豪腕で後ろに引っ張られキャットは為す術がない。
ただ心の中で大音量の疑問符を上げながらずるずると引きずられていくのみだ。
向かう先は本部の2階――アサッシンの宿泊所に備え付けられた彼らの化粧部屋。
その赤いカーテンをくぐるまでキャットは心の中で悲鳴をあげ続け、丸一晩以上彼らの「お人形さん」になった。