猫、日常を過ごす
黒の教会、という組織がこの世界にはある。
その名前がどこで、いつ、どのように名付けられたかははっきりとしていない。
だが確実なのは傭兵王として名高い初代ドラコニア国王がまだ一介の傭兵で、数多くの英傑と共に義勇軍を結成するよりも古くから存在している。
それはこの新開拓国トリスティアにおいては神代の時代から続くことと同じだった。
太古より続く、罪深き者をエリドラの元へと送るアサッシン達の集団。
その組織は5つの戒律に基づいて今も動き続けている。
「ねえー、キャットー!あそぼーよー」
ひとつ、殺しに私情を挟むことなかれ――それを破りし時、我らが行いは犬畜生にも劣る私刑と化す。
「ねえねえ、キャットねーちゃんみてみてー、じしんさくー!」
ふたつ、殺した者の魂を冒涜することなかれ――それを破りし時、我らが行いは鬼畜外道の所業に堕ちる。
「………っ」
みっつ、殺しの同胞を裏切ることなかれ――それを破りし時、我らの短刀はすべて汝の喉元へと向く。
「キャットー、ワトキンがトイレ行きたいってさー」
よっつ、殺しの業を誤ることなかれ――それを破りし時、汝は同胞より永遠に別離することとなる。
「キャット!キャット!ブラウンストリートに新しい洋菓子店が出来たよー!ボクと行こうよー!」
いつつ、殺しに多財を求めることなかれ――それを破りし時、汝の魂はエリドラに贈られるにふさわしきものとなる。
りんごーん、と重く澄んだ音色を響かせて救貧院――正しくはタビー救貧院の中庭に鐘の音が鳴る。
それをのろのろと――ひどく眠そうにキャットは見上げ、小さく欠伸をした。
中庭に備え付けられたベンチに座る彼女の足元や背中には、小さな子供たちが遊びに誘おうと張り付いている。
その有様は親猫にたかる子猫そのもので、小さな嵐のような子供たちに動じずされるがままにされているキャットは間違いなく親猫の風格を備えていた。
ひとり明らかにキャットと同年代の少女がキャットの首に手を回して抱きついているが、応じることも面倒くさくキャットは気にせず物思いに耽る。
この黒の教会の戒律に従って生きてきて、キャットは5年になる。
10歳の時に黒の教会の“母”と出会いキャットはアサッシンとなった。
普通ならばアサッシンになるためには幾年かの厳しい修練が必要で、そこで夢叶わず命を落とす者も多いと云う。
だがキャットはその修練をほとんど――アサッシン独自の技術や戒律に基づいた座学などを別にして――受けることなくアサッシンになった。
何故ならばキャットはエリドラのアサッシン達と出会う10歳の時に既に“出来上がって”いたからだ。
その経緯は単純なもので――キャットの父は世界を放浪する戦士の1人だった。
旅の途中で生まれたキャットは子供時代のほとんどを荒野の中で過ごした。
父と同じく優れた戦士だったらしい母に似たキャットに、父は様々なことを教えた。
野犬の追い払い方、短剣を筆頭とした武器の使い方、相手の懐に潜りこみ急所を狙う戦い方、毒を持った食べ物の見分け方……
今にして思えば父はただ単に自分の手足になる猟犬が欲しくてそうしたのかもしれないが、キャットは父を恨んだことは一度もなかった。
たしかに――トリスティアに住むようになってから知ったことだが、キャットの子供時代は荒々しく野生的で、決して親が子供に送らせるべき生活ではなかった。
もし父が娘を自分と同じ冒険者にしようなどと考えず、街に家を買ってそこでキャットを育てれば別の未来があったかもしれない。
キャットはアサッシンなどという因果な稼業に身を委ねず、普通の年頃の娘のように表を歩き、穏やかに年をとって暮らせたかもしれない。
だがキャットにしてみれば今の生活も「殺し」に意味が出来た程度で父の背を見て育った子供時代と大差ない。
それにこのトリスティアに居るアサッシンたちは嫌いじゃない。
もちろん表の人間に比べれば狡猾で、善良というには程遠い人間ばかりだが魂が腐った人間はひとりもいない。
それだけでキャットはこの生活にそれなりに満足を感じている。
(でもなぁ……)
キャットは救貧院の制服――かつてここが野戦病院だったころの名残らしい修道女のようなローブのすそにしがみつく子供をあやし、適当に世話をする。
抱き上げて泣き止むまでじっとしていたり、むずがる子供をトイレに連れて行ったり本を読んで子供を寝かしつけたりと救貧院での仕事はそれほど苦にはならない。
だがキャットにはこの表の生活――救貧院に預けられた子供の世話には一点だけ不満がある。
それは人によっては苦にならずむしろやりがいすら感じるのかも知れないがキャットも年頃の娘だ。
戒律のいつつめにあるように、依頼人に必要経費以上の報酬を求めない。
もし金が払えない場合は家財やそれに類する大事なものを担保として預かったりもする。
それは古来より黒の教会を通してエリドラのアサッシンを頼るのは虐げられた貧しき人々であり、財など求めようがない。
戒律はその貧しき人々から「殺しの依頼」をしたという秘密を盾に金品やそれに繋がる物を脅し取らないようにするための物だ。
キャットもそれに不満はない。
むしろ求めたらそれこそ子供時代に幾度も出会った傭兵くずれの盗賊や山賊と同じ立場になってしまう。
そう感じているからこそ――キャットは困っているのだ。
「はあ……」
キャットはいつものように好き勝手に張り付いてくる子供と何故か混じっている友人を適当にあやしながらローブのポケットから小さな皮の財布を取り出す。
赤い飾り紐のついたなんの変哲もないそれは今持ちうるキャットの全財産が入った宝箱だ。
キャットはその蝦蟇口を開いて中を覗きこみ、しょぼんと眉を落として首をうな垂れる。
「お金……ないなー」
「あははっ、ボクもないよ!でも行こうよ菓子店――閉店間際を狙えばいけるかもよ!」
基本的にエリドラのアサッシン達は表で副業を営んでいる。
その職種は様々で、商人として市場で店を切り盛りするものもいれば鍛冶屋として戦士のための武器や防具を作っている者もいる。
黒の教会のアサッシン達が本名の代わりに与えられる通り名はこういった表の副業の職種や屋号に基づいた物が多い。
商人ならば扱う商品に因んで“葡萄酒問屋の”で鍛冶屋ならば“剣鍛冶の”といったところだ。
何故エリドラのアサッシン達が副業を営んでいるかというとそれは単純な話、日々の糧をそこで得ているからだ。
戒律によって裏の仕事でそれほど収入が得られないと決まっている以上、そのようにして生きていくしかない。
組織の活動に勤勉なものなら自分の職業を通じて様々な「仕事候補」の情報をいち早く調べていたりもする。
キャットの救貧院勤めもその為に黒の教会から斡旋された職場だ。
だがそれに問題があった。
救貧院というのは基本的に貧しく日々の糧が得られない人の為に寝床や職業を提供するいわば職業安定所みたいなものだ。
その性質上、利用者の貧民からは料金を受け取らない慈善経営で運営されている。
キャットの仕事場たるタビー救貧院はエストワール聖教会からの資金提供と黒の教会からのささやかな物資援助で救貧院だ。
もちろんそこで働く職員に支払われる金銭は雀の涙ほどで、その代わりに無償で使える宿舎と食物等生活雑貨が支給されている。
そのおかげである事情からトリスティアに籍を持たないキャットは日々の暮らしを飢えずに暮らせているが、それ以上にはいけない。
「やだよ悲しいよーそんなの……」
「まぁまぁキャット、うまくいかなかったらボクの店の売れ残りのお菓子あげるし一緒にいこうよー」
つまるところキャットは何かと欲しがる年頃にも関わらずお金がない。
簡単にいうと、赤貧の生活を送っているのだ。
救貧院の仕事を終えたキャットは、はああ、とため息を吐きながらとぼとぼとブラウンストリートの石畳を歩いていた。
ブラウン・ストリート。
茶色の街道。
そのひどく地味ッ気な名前は、大いなる「でっかい坂」であるトリスティア城下街の市民区と商業区の間を通る道だ。
ここでは商業区の本格的な取引市場とは違い、アクセサリー小物を扱う出店やお菓子屋などのちょっとした屋台が立ち並ぶ通りだ。
特に通りに並ぶ屋台には菓子を扱ったものが多く、甘いものに眼が無い街娘でそれなりに賑わっている。
そんな客の動きをいち早く察知したのか。レオール市場に本格的な店を構えてる菓子店なども二号店としてブラウン・ストリートにお店を出しているのが最近の動きのようだ。
キャットの横――何故か彼女の袖の掴んで振り回しながら歩く“死の抱擁”のお目当てはそんな高級お菓子屋の二号店のようだった。
「くううーっ!久しぶりの休暇はいいなー、最近ボクたち奴隷商事件で引っ張りダコだったもんねぇ」
のびのびと、そう嬉しそうにいう“死の抱擁”にそうだねぇ、と適当な相槌を打ちながらキャットは友人を見やる。
この“死の抱擁”と呼ばれる少女の名はハリエットという。
明るい蜂蜜色の髪は綺麗に顎のラインで切り揃えられ、眼に髪が掛からないよう花の形をした髪留めで止めている。
その下に覗くエメラルド・グリーンの双眸は大きく、いつも興味のあるものに向けてきらきらと輝いている。
そんなどこにでもいる少女、といった風情だが、これでも黒の教会のなかではキャットに並んで主力を勤める強力なアサッシンだ。
“死の抱擁”と呼ばれるその物騒なその名は――キャットの“長腕”と同じく仕事の「殺し方」に因んで付けられた異名だ。
仕事の「殺し方」が通り名になるアサッシンは、それなりに実績をあげた実力者であるという証でもある。
特にハリエットの「殺し方」は独特だ。
布に包んで静音性を高めた短銃による、超至近距離からの銃撃。
巧みな変装術によって距離を詰めて放たれるそれはさながら「死の抱擁」だ。
足を縺れさせた――と見せかけて懐に飛び込み銃撃。
暗闇に怯えて縋りついた――と相手を油断させて銃撃。
先に一度無力な少女の振りをしておき――標的が近づいてきたところを、銃撃。
その鮮やかな手口をキャットは何度も間近で見ている。
ありえないことだが――キャットがアサッシンの中で一番相手にしたくないのはこの隣にいる友人だ。
変装した彼女はもう魂でも乗り移ってるんじゃないかというくらい演技が上手く、なにかと不注意がちなキャットではすぐさま「抱き締められて」しまうからだ。
とはいえそれは想像の話。
今はキャットの一番の友達であり仕事上の頼れる相棒だ。
「おっ!見つけたよーキャットー、ここだよ、ここ」
そんな頼れる相棒はお目当てのお店を見つけたのかただでさえ大きな瞳を輝かせ、キャットの手を引いて走る。
うわ、と突然制服の袖を引かれたキャットはよろけつつもハリエットについて走り、大きな菓子店の前に辿り着く。
「うわー流石トリスティア一の名店……ピークを避けてもこれかー」
スイート・ハニーと書かれているらしい看板の下には長蛇の列が並んでいる。
その列の内訳はほとんどキャットと同じくらいの女の子だがちらほら男性も混じっている。
家族へのプレゼントにでもするつもりの父親か無類の甘いもの好きといった類なのだろう。
あまり甘いものを食べないキャットでもこのスイート・ハニーのお菓子は砂糖を使わないくせにとろけるように甘く、蜂蜜の風味がよく出ているのだと聞いたことがある。
「お金、あるの?」
「だいじょーぶ……しばらくは残り物生活だろうけどね」
キャットの懸念にハリエットは元気よくそう答え、列の最後尾に向けて歩き始める。
基本的に待つことが嫌いなキャットはげんなりとした顔で列を眺めていたが、その中に知り合いを見つけて目を丸くする。
「……モンドさんだ」
「えっ、嘘っ!」
驚いて叫んだハリエットの声に反応したのか背の高い男がキャット達の方を向く。
モンド、通り名は“豪剣”もしくは“町回り”と呼ばれることもある。
そう呼ばれる由縁は彼がとんでもない剣の名手であり、表の顔がトリスティアの街を警邏する警備団の一員であるからだ。
職業上トリスティア城下街をよく知っている彼とキャット達はよく組んで仕事をする。
最近も彼と行動を共にし、奴隷商グレアムに繋がる糸口を手に入れたばかりだ。
そう、奴隷たちを運ぶ「親方」「旦那」に成りすましていた男のことだ。
キャットの印象としては苦労人、もしくはまとめ役といったところだ。
「……今日はよくねぇ日だな、非番だってのに猫娘とアホに一遍にあっちまった」
「猫娘……」
「アホってひどくない!?」
あんまりな呼び名にジト目で、あるいは憤慨する2人のアサッシン娘たちを億劫そうに見やりモンドはため息を吐く。
非番中らしく目立たない平服にマフラーという姿の彼の手には花屋で購入したらしい小さな花束が抱えられている。
それに気づき、ははーん、と面白そうにハリエットが目を細めてにやにやとした口調で話しかける。
「……モンドー、またやらかしたねー?また奥さん怒らせたんだねぇー?」
「今度は何したの?」
「うるっせぇな、手前ら!人様の生活に口を挟むんじゃねぇ!」
この抜け目のない男、モンドには表の生活がある。
それはトリスティアの街を守る警備団にいち隊長という役職であり、齢10は離れるかという若い妻との家庭だ。
子は未だに授かっていないようだがおおむね仲睦まじく……何かと誤解されて一方的な夫婦喧嘩をしながらも幸せに暮らしているらしい。
こういった所帯を持つアサッシンはなかなかいない。
一応ハリエットの両親のような――任務中に心を重ね、組織の承認を受けて家庭を持つような者たちはそれなりにいる。
だがそれはあくまで裏の者同士の連帯感の延長であり、表の人間と所帯を持ったアサッシンはモンドくらいしかいないだろう。
決して知られてはならない秘密を抱えたままの夫婦生活。
それがどれだけ大変なのかは想像しなくてもわかる。
だがモンドはそれを承知の上で結婚した。
それだけ妻に惹かれたか、それとも別の理由でもあるのか――どちらにせよキャットはモンドを割りと尊敬している。
なんとなく父親に似ている気がするのだ――思っても口には絶対に出さないが。
「ふーん、怒らせたんだー気になるよねー?どうやって怒らせたんだろうねー?」
「気になるね……向かい隣のピエモンさんに聞きにいこっか」
にやにやと――そっくりな邪悪な笑いを口元に浮かべた少女たちが顔を寄せて話し合う。
ピエモンという名を聞いてモンドは蒼白になってうろたえた。
向かい隣のピエモンさんとは別にアサッシンの通り名でもなんでもなく、モンドの向かい隣に住む主婦層の奥方だ。
よっぽど主婦生活が暇なのかただ単に趣味なのか、近所のスキャンダルを集めては井戸端に同じような奥様を集めては嬉々としてそれを吹聴して回っている。
その情報の信頼度はやたらと高く、黒の教会の鳥たちが「彼女をこちらに引き込めないか」と真剣に考えたほどだという。
それをしなくとも聞いてくれる人間がいることが嬉しいのか、尋ねればだいたいの情報を教えてくれる。
モンドが何をやらかしたかだって、きっと知っていることだろう。
「くそっ、わかったよ……どうせ手前らの狙いはここの菓子だろう?わかったよ、買ってやるからピエモンさんだけは勘弁してくれ!」
「別にそんなことしなくてもいいのにー」
「ありがとうモンド……8つね」
いやしんぼめ!ふとっちまえ!と悲しげな声で罵るモンドを置き去りにしてキャットとハリエットは通りにあるベンチに腰を降ろす。
哀れな苦労人モンドがスイート・ハニーのお菓子を買ってくるまでここで待つのだ。
そのあとは何をしようか?とキャットとハリエットはどこにでもいる少女たちのように話しあう。
太陽がさんさんとブラウン・ストリートに降り注ぎ、全ての生命を慈しむかのように暖かな光を齎している。
行きかう人も、馬も、空を飛ぶ鳥も、トリスティアの街を隔てる白い壁も、それを受けてきらきらと輝いている。
今日はいい日だ。幸せな一日だ。
こんな毎日が続けばいいのに、とキャットは考え――太陽の陽気に眠気を誘われ、くああ、と猫のように欠伸をかいた。
キャット達が暢気に過ごしている頃――その部屋では重要な会合が行われていた。
とはいっても、そこにいるのは女が1人と男が1人――いや、二人いるだけだ。
片方の男はまるで地に足を着けるのを嫌うかのように、部屋に置かれたからっぽの棚の上に足を組んで座っている。
男の顔はわからない。
彼が身に纏う黒い外套と、口元を隠すフードのせいだ。
彼は手にもった鷹の尾羽根を弄び――目の前でひとりの男と女の間で行われる話し合いの行く末を見守っているようだった。
「……よくこの報せを持ってきてくれました、鳥よ――あなたの褒章は了解しましたから、もう行きなさい」
もう1人の男――女の傍らに立つ男が穏やかな声でそう言って部屋からの退出を促す。
鳥と呼ばれた男はそれに肯き、ばっ、と外套のすそを翻して部屋から去っていく。
男は地に足をつけない。
部屋の天井に備え付けられた秘密の入り口から地上へと戻ったのだ。
「欲深い鳥だ……鳥の為の新たな訓練施設など」
男の退出ののち、部屋の中央に据え付けられた机に座った女が恨みがましくそう言う。
だがその声には本当の恨みなど篭ってなく――疲れだけがそこにある。
男はそれを受けて、まぁまぁ、と女を宥める。
「彼の今回の功績からすれば妥当なものでしょう……この事を知ることがもっと遅ければ最悪の事態になっていたのですから」
「わかっている」
「それに最近は鳥が王都の猟犬たちに捕捉されることも増えています。組織のことを思っての……彼なりの誠実さなのでしょう」
「わかっているとも……」
はぁ、と疲れきった溜息を吐いて、女は机の上に額を押し付ける。
上質な木の表面はよく磨き上げられた鉄のように滑らかで、冷たい。
女はその冷たさで多少冷静さを取り戻してのろのろと傍に立つ男に疑問を投げかける。
「ヴィーザラ……私がこのことを知るまでにどの程度の防護策をとった?」
「はい、まずは表に知れ渡っている噂の書き換えとバックアップの要請を……新たなフロンリッタ鉱山のオーナーになる人物を挿げ替えることにも成功しています」
「それではおおよそ裏で私たちがグレアムを狙っていたことは隠せるということか……有能だなヴィーザラ」
ありがとうございます、と女に褒められた男――ヴィーザラは表情を変えることなく感謝の言葉を返す。
そして間髪いれず、ですが、と今回の騒動の最大の問題点を口にする。
「問題は……やはり“彼女”自身の挿げ替えが容易にはいかないことでしょうね。生前、友だちと呼べる人物はいなかったとのことですが、市井には足を運んでいてそれなりに顔を知ってる者は多いと予測されます。」
「その程度は“変身術”でどうとでもなるだろう……本山の連中が了承してくればの話だが――」
「不可能でしょう。“変身術”を持つアサッシンは貴重ですし、何より今回のケースはあまりにもリスクが高過ぎる」
「リスクがあるからこそ価値があるというのに……うまくいかないものだな」
はぁぁー、と沈痛な溜息を吐き、頭を掻き毟る女をヴィーザラは涼しげな顔で眺める。
そしてやおら――女が苦悩の淵に立ったのを見計らったように女の耳元に顔を近づけ、密やかに話す。
「ところで……今回の最大の問題点であるエリス・ウィーストン嬢の顔は拝見されましたかな?」
「何?いや、見ていない……そもそも屋敷は燃やしたんだろう?焼け残っていたのか?」
「いいえ、彼女は事態に気づき逃げて、追跡した“長腕”によって森の中で始末されました。今回のことが、まるで運命であったようにね」
「……どういうことだ?何を考えている?」
訝しげに睨む女の眼を見据え、ふふ、と笑みを浮かべて男は2枚の紙を懐から取り出す。
それは手配書のような人相書きで、画家の精密なスケッチで2人の少女の顔が描かれている。
片方は筆者を射抜くように鋭く、片方は茫洋な、魂が抜けたような表情で描かれている。
下には読みにくい筆跡でそのモデルの名前が署名されていた。
女はそのふたつを見比べ、眉間に皺を寄せてヴィーザラを睨む。
「これは……どちらも私の“長腕”じゃないのか?それにこちらの“長腕”は死後を描かれたものだろう。冗談にしても性質が悪いぞ」
「よく署名と顔をご覧ください。違いがありますよ――決定的な違いが」
そうヴィーザラに促され、女は長い髪が机に垂れるのも構わず顔を近づけてふたつの人相書きを見比べる。
ふたりの少女の顔を見比べて、ん、と疑問を顔に出し、読みにくい筆跡で描かれた少女たちの名前を読み上げて、女は驚愕する。
「まさか……!ヴィーザラ、これは確かなのか?こんなことが起こりうると?」
「画家は嘘を吐きません。それに……エリドラが我らをお助けくださったのでしょう」
「それはどうか分からぬが……いや、しかし――」
二つの少女の顔を見比べて女は苦悩を深くする。
女にとって“長腕”と呼ばれる少女キャットは信頼出来るアサッシンの1人であり、同時に大切な家族だ。
キャットとはじめて会ったのも女自身であるし、キャットの才能を見出してアサッシンとして教育したのも女自身だ。
隣に佇む涼しい顔の男、ヴィーザラにとってもそうだ。
ヴィーザラは父親同然にキャットに教育を施したし、何かと豪放な女の戦闘訓練をうまく采配したのも彼自身だ。
信頼できる部下であり、娘。
それを今回の事態に巻き込むのは――あまりにも大きな決断だった。
「ですが、事態はもうこうせよ、といわんばかりなのです。どうやら“あちらさん”はエリス・ウィーストン嬢自身に惹かれてのことではなさそうですし……何より顔を知っているかすら定かではありません」
「それは哀れなことだな……同情に値する」
魂の抜けた顔の少女――エリス・ウィーストンのスケッチを裏返し、女は顔をあげる。
その顔には先ほどの疲れはなく、大きな決断をしたものの表情がそこにある。
女の蒼い瞳は燃えている――人のいうところ、野望という感情に。
「ヴィーザラ、この事態における私たちの目標は?」
「はっ、長年途絶えていた王家との繋がり……いわば“王と闇”の契約の復古を」
「それによって、何が得られる?」
「王家、そしてひとつの国がバックについたことで、昨今拡大の一途を辿る“真紅の同胞”への足止めとなり得るでしょう。あなたの立ち回り次第では永続的な盾に……」
「それを得るためにしなければならぬことは?」
「それは――」
部屋の中で、会合は続く。
闇を統べる女と、それを支える参謀の間で。
それを聞くものは誰もいない。
今はまだ、表の人間達もその影に佇むアサッシン達も知ることは出来ない。
特にブラウン・ストリートの陽だまりの中――友人の膝を借りて眠りにつく少女には。
黒の教会のアサッシン……“長腕”のキャットには。
「えー、4話目にしてようやく名前が判明したハリエットこと“死の抱擁”の「なぜなにアサッシン」のコーナー」
「にゃーん」
「さっそくですがキャットさん、キャットさんは何故“長腕”なんてけったいな名前で呼ばれてるんですかー?」
「にゃーん」
「ほほう、得意な技が短剣の投擲術で、今までの仕事のほとんどをそれでこなしてきたからなんですねー」
「にゃーん」
「では次、話の最後でちょろっと出てきた“真紅の同胞”ってナンですかねー?」
「にゃーん」
「ほほう、アムルジアを中心に最近絶賛勢力拡大中の暗殺組織のことなんですかー、やっぱり革命とか起こしちゃう気なんですかねー、アカいし」
「にゃーん」
「共産主義とは関係ないって?まぁファンタジーですからねー、では何故か猫語でしか喋ってくれないキャットさんとの「なぜなにアサッシン」のコーナー、これにてお開きとさせて頂きますよー」
「にゃーん」