猫、そっくりな顔と会う。
「おお、待っておったぞ!」
嬉しそうな声に招きよせられて入った部屋には香が充満していた。
それはトリスティアの隣国アムルジアで栽培されているという“アスティの唇”と呼ばれる華の匂いだ。
格調高く芳醇なその香りは人を安らかな気持ちにさせ、優雅な気分にさせる。
だがこの部屋で焚かれているアスティの香は本来の目的では使われず――情事と暴力を覆い隠すために使われていた。
「少々遅れてしまいましたかしら、ウィーストン様?」
“毒蜂”が招かれた部屋の中はひどく散らかっていた。
ひと目で高価なものだと分かる絨毯の上には酒瓶が無数に転がり、そこに残っていた中身が赤い絨毯に黒い水溜りを作っている。
酒瓶の側にあるベッドの上には山高帽以外何も身に着けていない男がでっぷりとした腹を揺らしていびきをかいている。
そのベットの下にはばたばたと嫌がるように宙をもがく傷だらけの足が2本あり、浅黒い男の背中の下で弱弱しい抵抗を続けている。
さらにその横のベッドの天蓋はぼろぼろに引きちぎれ、目を泣き腫らした美しい少女たちが口ひげと胸毛の繋がったような大男に抱き寄せられされるがままにされている。
つい、とベッドの反対側の壁に目をそらせば鎖で天井に腕を高く繋がれた少女が無数の傷痕を晒して気絶している。
その横の椅子には乗馬用の帽子に乗馬用の鞭を持った背の高い男がニヤニヤ笑いながら座り、部屋の中に入ってきた自分を値踏みするように見つめていた。
女たちの耳は全て長く尖っていた。
エルフ。森の番人を称するアロティース土着の異種族。
彼らはその大部分が未だに人の手の及ばぬ未開の森の中で暮らしている。
しかしその男女問わぬ美しさと不老長命の特徴が人のよからぬ興味を引き、こうして頻繁に捕獲され何者かの餌食となっている。
このエルフの少女たちも自分の意思など関係なく――森を焼き払われるかどうかして攫われてきた「商品」だろう。
外側――妖艶な娼婦の姿に見合わぬ冷めた思考で“毒蜂”はそう結論づけ、仕事の完了に向けて演技を続ける。
「いいや、急な呼びたてにも関わらずよく来てくれた、見ての通り夜会は滞りなく進んでいてね――今は小休憩といったところかな」
グレアム・ウィーストンは小ざっぱりとした男だった。
ぴったりとした夜着のズボンに身を包んだその半裸の肉体は逞しく、よく鍛え上げられている。
体毛は少なく、よく整えられていてみっともない胸毛も生えておらず身体のどこにも刺青はない。
若いころは美男子だったろうと容易に想像できる整った顔には野生的な笑みが浮かび、アイスブルーの瞳は親しみを持ちながらも鋭い。
口ひげが綺麗に整えてられているのも好感触を抱かせる要素のひとつだろう。
あくまでも外側から見た印象は、だが。
「それはようございましたウィーストン様――わたくし、道中で叱られるのではないかと心配しておりましたのよ」
媚びをたっぷりと声に含みながら“毒蜂”は男に近寄り、身体を寄せる。
豊満な胸がグレアムの腕に押しつぶされ、男の期待感をこれ以上無いほど充足させる。
グレアムはさわやかな――しかしどこか邪悪さを感じさせる笑いと共に“毒蜂”を身体を受け入れ、まだ荒れていない奥のベットへと招き寄せる。
「ふふふ、いや怒っているとも君のような美しい女性が私だけのものじゃないなんてね。怒りで頭がどうにかなりそうだとも」
「まぁ、怖い――そんな怖いウィーストン様は、わたくしをどうされるおつもりです?」
その言葉にグレアムは答えず、乱暴に“毒蜂”を抱き寄せて唇を重ねる。
“毒蜂”もそれを嫌がることなく積極的に受け入れて部屋の中に湿った水音が暫し充満する。
少女たちが屈辱に満ちた表情で目を背け、涙を流す。
グレアム以外の男たち――恐らく貴族や豪商であろう男たちが興奮して下卑た笑いを漏らす。
その声に気づいたグレアムが“毒蜂”の唇から顔を離し、気障ったらしく男たちに告げる。
「お客様、すまないが先に下へと戻ってはくれまいか?私はこちらの―――と楽しんでから参上するよ」
男たちはそれに口々に下卑た返答をしながら眠っている男を起こし部屋から出て行く。
エルフの少女たちは部屋に残されたままだ。
だが少女たちは相当「教育」をされているのか、俯きすすり泣くばかりでその場を動かず逃げようと立ち上がったりはしなかった。
今から目の前ではじめる情事に目を向けようともしない。
それは“毒蜂”にも好都合だ。
表の居場所、彼女にとっては帰るべき家である高級娼館「ローズドール」の売れっ子の名前を呼ばれた“毒蜂”はグレアムの胸の中で赤い唇を歪める。
「さぁ邪魔者もいなくなったことだ――今日の夜を楽しもうじゃないか」
グレアムは客の男たちが部屋から出て行った途端、息を荒げて“毒蜂”をベッドに押し倒した。
“毒蜂”はそれを嫌がりもせず受け入れ、唇を重ねながらグレアムの獣のような愛撫に身を任せる。
愛撫は次第に熱を帯びて激しくなり“毒蜂”にとってはいつもの「仕事前の下準備」の時間になる。
グレアムはそれを知らずただただ目の前の豊満な娼婦の体を貪り、悦楽に顔を歪めている。
その間に“毒蜂”が冷徹に仕事を進めていることも知らずに。
「ハアッ、ハアッ、ハアッ、素晴らしい、素晴らしいよ―――嬢。君はまるでサキュバスのようだな」
激しい、一方的な情事の後、グレアムはそういってベットに倒れ込む。
「わたしも満足致しましたわ、ウィーストン様」
にっこりと、白い肌に珠の汗をきらめかせながらそう微笑む“毒蜂”をグレアムの無骨な腕が抱き抱える。
「まだだ、まだ俺は満足していない。もう一度――」
「いいえ、今宵は一度限りでございますわ」
そう静かに答えた“毒蜂”の声が切っ掛けになったように、グレアムの身体に変調が訪れる。
身体が突然痺れて動かなくなり、全身を硬直させてベッドに仰向けに倒れ込む。
“毒蜂”はするり、と縋ろうと伸ばされた男の手から逃れ、微笑みを浮かべながら裸身のままベッドから立ち上がる。
「身体が……うごか、な……」
唖然とした表情でグレアムは呂律の狂った口調でそう呟き、助けを求めて“毒蜂”に手を伸ばす。
しかし裸身の娼婦――アサッシンはそれを軽く手の甲で押し退け、呆然としたグレアムに顔を近づけて微笑みかける。
先ほどと変わらない蟲惑的な笑み。
だがその金色の瞳にはどろり、とした粘性の得体の知れない光が湛えられている。
「応報でございますわ、ウィーストン様――奴隷商人ウィーストン様」
「き、さ、ま……」
自分の身に何が起こったのか、それともただ単に自分を助けず目の前で微笑んでいる女に憤りを憶えたのか、グレアムはまだ動く手で胸を掻き毟りながら呻く。
だがそれに“毒蜂”は応ずることなく脱ぎ捨てられた赤いドレスから小さな小瓶を取り出す。
大の男の親指ほどの大きさだろうか。
小瓶の中は透明な液体が満ち、その中には毒々しい色の花が根を晒して入れられている。
男の顔がその花を見て引き攣り、絶望に顔を白くする。
グレアムは不幸にも――否、必然にもその花がどんなものなのかよくわかっている。
「タラク草の花でございますわ。少量ならば身体の自由を奪い、思考能力を低下させる毒を持つ花……あなたはこれを使って幾人もの哀れな少女たちを捕まえてこられたのでしょう?」
“毒蜂”の言葉に怒りはない。
ただグレアムに身体を許していた時と同じ魅力的な微笑みのまま、芝居の女優のような淀みのない口調で男に語りかける。
「グレアム様、わたくしね――この毒液を唇に塗っておりましたのよ。それはもう、たっぷりと」
嬉しそうな“毒蜂”の言葉にグレアムの顔が歪み、口が絶叫の形をとる。
だがもはや声は出ず、出るのは魂が抜けていくようなくぐもった呼気の音だけ。
タラク草の毒。
それ単体ならばそれほど重篤な症状を引き起こすものにはならない。
だがひと度、人間の唾液と結びつくと恐ろしい毒となる。
身体機能を即効で奪い、体内の循環を狂わせて体温を高温に発熱させる。
それはまだ地獄の第一歩にしか過ぎない。
高温の発熱は徐々に体内の臓器を壊死させていき、最終的には肺の機能を止めて呼吸が出来なくなる。
この毒による最終的な死――呼吸困難による窒息は心臓と肺を除く臓器が壊死してから始まる。
つまりは自分の体内にあるほとんどの臓器が熱でぐずぐずに朽ち果てるまで死ぬことが出来ないのだ。
即効にして残酷なほど遅効性の毒。
それがタラク草の毒だ。
“毒蜂”はこれを配合したルージュを唇に引き、この場を訪れていた。
そして先ほどグレアムは何も知らずその唇を貪った。
多くの唾液がそこで交換され、麻痺毒は地獄の毒と化した。
当然この方法は“毒蜂”にとっても死を齎すものだが彼女はそうならない。
“毒蜂”はアサッシンである以上に優れた薬品の調合師であり、精製が極めて困難とされるタラク草の毒の中和剤を予め摂取しているからだ。
全ての準備は殆どこの部屋を訪れる前に済んでいた。
情事のはじまりとなる熱いキスは“毒蜂”にとって、もう仕事の成功を意味していたのだ。
「―――!―――!?」
声を失った男の口がぱくぱくと動く。
その動きから何を言っているか読み取った“毒蜂”は笑いそうになった。
しかし笑うことはない。
これはあくまで仕事で、決して享楽的な遊びではないのだから。
多少自らの後ろ暗い趣味がその根底にあったとしても。
「なぜこんなことをするのか――ですか。そんなこと、誰でもなくあなたが一番知っていることかと思っていましたわ」
「――!」
「残念ながら地下の階にいらっしゃるお客様も同じですわ。今宵この場所にいる貴き方はみな此岸には帰れません」
男の表情が絶望に染まる。
“毒蜂”はその表情に唇をゆがめてベッドから遠ざかると、脱ぎ捨てられた真紅のドレスを手に取り、襟首を掴んで裏返す。
挑発的な赤から、隠蔽された黒へ。
女はその裾を翻し、裸身の上から纏った。
「あなたたちが辿り着くのはひとつだけ――我らが女神エリドラの元です」
“毒蜂”のドレスは表と裏でまったく印象を変えていた。
それを身に着ける女の立ち姿もまた違う。
さきほどまでグレアムと情熱的な一夜を共にしていた赤いドレスの女が、何か数奇な出来事を齎す魅惑的な娼婦であるならば。
腰の無骨なベルトから無数の小瓶と器具をぶら下げた黒衣の魔女だ。
無数の毒薬とそれを注入する器具を身につけた顔の見えない毒殺の魔女。
それが“毒蜂”の裏の姿であり、本質の姿だ。
「それでは御機嫌よう、グレアム様――良き一夜でしたわ」
踵を返し颯爽と“毒蜂”は部屋を去っていく。
男の悲鳴は聞こえない。
「ああ、そうそう」
ひょこ、と開け放たれたドアから“毒蜂”は顔だけを戻し部屋の隅に向けて声をかける。
「ひっ」
部屋の隅に縮こまっているのはグレアムの客たちに嬲られていたエルフの少女たちだ。
今しがた目の前で起こった出来事に怯え、少しでも累が及ばないように隠れていたらしい。
その抵抗は当然無意味なものだが、今のところ“毒蜂”にも他のアサッシンにも彼女たちを殺す道理はない。
「おとなしくここで待っていれば男が来るわ。彼について馬車に乗り込みなさい――それで森に帰れるから」
ぽかん、とするエルフの少女たちの返事を待たぬまま“毒蜂”は部屋を出て屋敷2階の廊下を見回す。
ウィーストン家の屋敷はトリスティアの豪商貴族連中の中でも上位に入る豪華さだ。
アムルジアから取り寄せたと見られる煌びやかな絨毯に廊下の壁に飾られた無数の絵画。
照明は備え付けのランプのみで、お世辞にも歩きやすいとはいえない。
「あら」
グレアムの私室の扉を閉め、目撃者がいないか様子を伺っていた“毒蜂”は廊下を埋める絨毯に黒い血痕を見つける。
屈んで観察してみるとその血痕はまだ新しいもののようで、水分が抜けきっておらず飛沫が絨毯の表面に珠になり、天井のランプの光を無感動に映しこんでいる。
血痕はひとつではなく断続的に――複数人の人間から流れ落ちたように廊下に沿って撥ね、寝室から少し離れた部屋の中に続いている。
“毒蜂”は、ああ、と形のいい唇を歪めるとなんら警戒することなくその扉に近寄り、軽く押して開く。
「そこにいるのは“長腕”かしら?」
暗い、照明も何もない部屋の中で、ばっと“毒蜂”に振り向く影があった。
カーテンからわずかに覗く月明かりが輪郭を作り出している。
その姿は“毒蜂”の見知った少女、キャット――いや、今は“長腕”と呼ばれるアサッシンの姿だ。
暗闇に同化する黒い花嫁衣裳は黒を通り越して昏い。
闇に目の慣れたアサッシンである“毒蜂”でも暗闇の中で“長腕”がどんな表情で佇んでいるのかわからない。
見えるのは鈍く輝く短剣の刀身と、その上にふたつ輝く猫のような瞳。
その瞳には感情がない。
「儀式は終わったかしら?もし終わったのなら3階に行って欲しいのだけれど」
「――――」
暗闇と同化した“長腕”は答えない。
ただ了承の意を感じたので“毒蜂”は唇に軽く手を当てて思いだすような素振りをしながら話を続ける。
「3階にグレアム・ウィーストンの娘がいるわ。奴隷密売には関わっていない筈だけど――関係ないわよね?」
グレアムに娘がいることは馬車の中で御者――鳥と呼ばれる情報収集役から聞いていた。
今回の仕事の発端である奴隷売買に関与している線は薄いため得られた情報は少ない。
得られた情報は彼女――エリス・ウィーストンはトリスティアの街に住む大半の人々と同じ善良な表側の人間であるということだ。
だが、その情報が事実であれなんであれアサッシンたちの刃はもう止まらない。
彼女の善良な人生は、数多くの奴隷にされた少女たちの涙と血で賄われていたのだから。
エリドラを信仰するアサッシンたちは贖罪を求めない。
贖罪を求める権利はない。
ただひとつ「罪からの開放」を望み、それを遂行しているのだから。
「私は地下の人間を片付けるわ――嫌な役回りだけど、よろしくね“長腕”」
「――――」
その言葉に“長腕”の仮面を被ったキャットは答えない。
ただベールで包まれた黒髪の頭を一度垂れると、踵を返して部屋のカーテンを開く。
雲を通した弱弱しくおぼろげな月明かりで照らされた部屋には、整然と並べられた亡骸がある。
使用人らしき女、でっぷりと脂肪のついた半裸の男、浅黒い長身の男、髭と胸毛がつながったようなけむくじゃらの巨漢、乗馬帽の細身の男。
最初の女を除き、すべてグレアムの部屋でエルフの少女を嬲っていた客の一部だろう。
彼らは一様に短剣の一突きで命を奪われ、己の命のあっけなさに驚愕したような表情で事切れている。
それに比べて最初に“長腕”が手を掛けたらしい使用人の女の表情は穏やかに見えた。
ぼう、とまるで目を開けて夢でも見てるような茫洋とした表情で静かに胸の前で手を合わせている。
その様子はまだ自分が死んでいることに気づいてないようにも見えた。
「――っ」
軽い呼気の音と共に、黒い花嫁衣裳を来た“長腕”が窓の外に身体を投げ出す。
“毒蜂”はその所業に慌てることなく、整然と並べられた亡骸を踏まぬように脇を歩いて窓に近寄り、首を巡らして屋敷の外壁を見やる。
身体を宙に投げ出してからどのような転進をしたのかは、体術に不得手な“毒蜂”にはわからないが“長腕”は外壁のわずかなへこみに手をかけて屋敷の上階の窓を目指しているようだった。
その動きは淀みなく、恐れもない。
「しっかりね、小さなエリドラ」
“毒蜂”は彼女自身しか使わない愛称で“長腕”のことをそう呼ぶと、踵を返して部屋から出ていく。
亡骸だけが残された部屋の扉が閉まり――静寂が訪れた。
窓から外壁へと飛び移った“長腕”――キャットは特になんの障害もなく3階の窓へと到達した。
ほとんどの窓は当たり前に内側から施錠され、外から入ることは出来なかったが、幸運にも開け放たれたままになった窓がひとつあった。
窓を割って音を立てずに済む、とキャットは冷静に自分の幸運に感謝しながらするり、と衣擦れの音すら立てることなく3階の部屋へと身体を滑り込ませる。
窓の続く先は3階廊下の中ほど――歓談の場に使うこともあるのか、幾つかの椅子とテーブルのある踊り場の一角だった。
「――――」
キャットは足音を立てぬまま窓の縁から廊下の床へと降り立ち、猫科の獣のように姿勢を低くして周囲を伺う。
鳥の男から聞いていた用心棒の傭兵たちは1階に集中して配置されているのか、この階には人の気配はない。
だがそれほど観察することもなく、キャットはこの階に人がいる痕跡を見つけた。
「花の首飾り――」
踊り場に備え付けられた机の上に赤と白の花で編まれた花の首飾りが置き去りにされていた。
キャットは警戒を緩めることなく机に近づき、花飾りを手にとって観察する。
赤と白の花――なにかの祝い事に使われるその花の名前をキャットは知らない。
ただ、その花は持ち主が置き忘れてからそれほど時間も立っていないようで、まだ瑞々しさがあり、ふわりと優しげな芳香が残っている。
(エリス・ウィーストンの持ち物……?)
エリス・ウィーストン。
これから自分が手をかける相手の名前を思い浮かべたキャットの表情にはなんの感慨もない。
エリドラのアサッシンたちが手をかけるのは常に罪に蝕まれた悪人とその一味だ。
キャット自身のこれまでの仕事もそうだったし、これからもずっとそうだろう。
だが何にでも例外というのはあって、直接の罪がない人間に手をかけることもある。
キャット自身にも経験がある。
何年か前に街道脇の砦跡を拠点にして道行く馬車を襲っていた盗賊団があった。
その構成メンバーは街では生きられない荒くれと、傭兵くずれの夫婦。
荒くれたちは夫婦の腕っ節に惹かれ、或いは居場所を求めて盗賊団に入り、夫婦は自分の居場所を築くために荒くれたちを迎え入れていた。
夫婦はその砦を自分たちの今生の家と考えていた。
だからこそ、当然の結果であるように――その夫婦には小さな子供がいた。
今でも鮮明に思い出すことが出来る。
「おかあちゃん、ごほんよんで―?」
夫婦は娘にまだ「なにも」教えていなかった。
馬車から強奪した金品で綺麗な洋服を買い与え、旅人が子供のプレゼントにあてた童話本を娘に読み聞かせていた。
娘はそれを胸元に抱え、砦にあった母親の寝室をいつものように開いた。
中にいたのはキャットと、娘の母親だった。
娘が寝室に入ってきたのは、キャットが蛮刀を振り回す女の懐に飛び込み、短剣を肺腑に突き立てた直後だった。
それを見た娘はぽかんと口を開け、大きな瞳をゆっくりとさらに大きく見開いていった。
息絶えた女の身体から短剣を抜いたキャットの脳裏に、目まぐるしい速度で様々な思いが浮かんだ。^
――ああ、見られた。どうしよう。
――彼女はきっと叫び声をあげ、泣き喚きながら砦にいる男たちの目を醒ますだろう。
――別にそれは構わない。どうせみんな今日エリドラの元に送る。
――例外はひとつもない。
当時のキャットはまだアサッシンに成り立てだった。
だからこそ迷いがあり、色々な感情が浮かんでは塗りつぶされていった。
今はそのカンバスは黒一色で、乾くことなく、どんな色を足しても揺らぐことがない。
――目の前のこの子はきっと何もしちゃいない。
――見ろ、あの白い手を、まだ血を一滴も吸ったことなんかない。
――この娘をエリドラの元に送るのは……正しいのかな。
そう疑問に思いながらも、しっかりとキャットの身体は動いていた。
力を失った女の身体をベットへ倒れこむように突き放し、フリルの下から短剣を引き抜きながら前へ。
娘の緩んだ指先から童話の本が落ちる。
しっかりと製本されていなかったのか、ぱらぱらと枯れ葉のようにページが砦の床に落ちていく。
鮮やかなまでにゆっくり見えるその有様を目に焼き付けながら、キャットは短剣の刀身をひと指し指と中指の間に握りこむ。
そのおかしな握り方は「先生」に教えてもらったアサッシンの握り方だ。
刃と拳を一体化させるアサッシンの短剣術。
――よく考えよう、この子をエリドラの元に送るべきなのか
――わたしがここで見逃せばこの子は荒くれの男たちを呼び、仕事をややこしくするだろう
――もしかしたら砦から逃げて、どこかに隠れてしまうかもしれない。
その時の思考は自分でも驚くほどスムーズだった。
まるでもう一人自分の中に誰かがいて、それがキャットに冷静に語りかけているように、淀みも迷いもなかった。
――逃げて隠れた後、この娘はどうする。
――普通に生きるか?街の救貧院にでも身を寄せて、教育を受けて自分の出自にも囚われず。
――復讐を誓うか?目の前で両親を殺したアサッシンを忘れず、いつか仇をとるため自分と同じような道を歩むことになるのか。
――いいや、きっと、どちらも無理だ。
闇を身に纏ったようなアサッシンに怯えたのか、娘は動かなかった。
狭い寝室からたった2歩で入り口までたどり着き、キャットはへたりこんだ娘の前に立っていた。
刃がランプの光を受けて鈍く輝く。
短剣の滑りを止めるために巻いた手首のベルトがぎゅり、と生き物のように鳴いた。
――この砦から街まで早馬を用いても二日はかかる。
――それに野犬も出るし、モンスターの目撃情報だって絶えない。
――この娘は幸運にもそれらに遭わず、傷つくことなく街まで辿りつけるだろうか。
――無理だ。そんな幸運は、きっと訪れない。
――それならば、いっそここで。
キャットは瞬きもせぬまま、目線を合わせるように娘の前にしゃがみこみ、短剣を握っていない手で彼女の眼を覆う。
黒い長手袋の下、震えるように見開いていた眼が閉じる感触がした。
キャットはそれを確認すると、短剣を握った拳を振り上げ、動かない娘の喉元に――
がたん、と何かが倒れるような音が静寂の中に響いた。
回想をしながらも屋敷の廊下を歩いていたキャットは敏感に反応し、その音の出所をさぐる。
何かが落ちた音がしたのは廊下の先だった。
その先にはひとつ扉があるばかりだ。
(エリス・ウィーストンかな?見られたかもしれない)
キャットは冷静なまま廊下を足早に渡りきり、扉へと手を伸ばす。
扉は鍵も掛けられておらず、なんの罠もなく容易に開いた。
キャットはその扉をくぐり抜け、部屋へと侵入する。
そして……しばし言葉を失った。
(きれいな、部屋)
扉を抜けた先はどうやらエリス・ウィーストンの私室のようだった。
部屋は豪商の娘の部屋らしく広々としたつくりとなっていて、天井も高い。
ちょっとした運動ならば可能なくらいの広さだろう。
救貧院の中庭にあるキャットの部屋とは比べ物にならないほどの広さだ。
キャットが驚いたのはその広さに関してではない。
そんな広々とした部屋の中は、これでもかというくらい飾り立てられていた。
(豪商にしても、ちょっと豪華すぎる)
隣国アムルジアからより寄せた絨毯に、明らかに金銀細工をあしらいとして作った調度品の数々。
箪笥、暖炉、化粧台、等身大の鏡、ベッド、服を何着を入れられそうなクロゼット。
特にベッドなどは“毒蜂”の部屋にあるものよりも数段等級が高いものだとひと目にわかる。
そのベッドの側には大きな鏡を持つ化粧台と煌びやかなドレスを着たトルソが置かれ、誰かに着られるのを待っていた。
標的の部屋、ということもしばし忘れ、キャットは部屋を歩きながら見回す。
部屋の中には他にもたくさんのドレスがトルソに着せられ飾られていた。
キャットはそのひとつに長手袋を外して触れ、む、と眉を顰める。
(このドレス、リネンが使われてる……こんなの普通のひとが着れるもんじゃないよ)
ドレスを仕事着として日常を過ごしているキャットはそれなりの知識を持っていた。
リネンとは亜麻で作られた生地であり、ドレスの他にもシーツやハンケチで使われるものだ。
原料である亜麻は高温多湿なドラコニア・トリスティアでは栽培することが出来ず、寒い地方の交易で少量が市場で出回る稀少な素材だ。
特にキャットが触れているドレスは純白――というより象牙色のもので、非常に価値が高い。
純白のリネンは今のところ王侯貴族の中でしか使われず普通に考えて一豪商の娘のドレスに使われる素材ではない。
(いったいどうやってこんなもの……っと、いけない)
仕事の最中であることも思い出し、若干慌てながらキャットは部屋の中を見回す。
輝かんばかりに高級な調度の間には人の気配はない。
だが部屋の中央には銀製のゴブレットが転がり、中に入れられていた水がぶちまけられている。
アムルジアの絨毯は水を通しにくい。
絨毯に広がった水たまりはいまだに繊維の上を滑り、このゴブレットが落とされてから時間がほとんど立っていないことがわかった。
「……下手な隠れ方」
部屋のあり一点を見つめたまま、ぼそり、と低くキャットは呟く。
広い部屋の隅には大きなクロゼットが置かれている。
その脇にあるテーブルにはまるで「誰かが」慌てて中のものを取り出しそこにおいたかのように衣服が何重にも置かれ、重なりきれなかったドレスやスカートなどが床に落ちている。
何故クロゼットに収められているはずの衣服がそこに置かれているか?
そんな答え……決まっている。
「……」
キャットは黙したままドレスのフリルから短剣を取り出し、人指し指と中指の間にグリップを握りこむ。
手首に嵌めた皮製のベルトが尖った刀身を受け止め、ぎゅり、と生き物のように泣く。
拳と刃が一体化した手をだらりと下げたまま、足音もさせずクロゼットへと近づく――
と、見せかけてその場で素早く転進し、短剣を投擲する。
「……痛っ!!」
間の抜けた女性の悲鳴が部屋の中に響き渡る。
投擲された短剣は緩やかな弧を描きながら暖炉と箪笥の影に隠れていた人影の手に命中する。
ごとり、と絨毯にブランダーバス――ラッパのような発射口を持つ散弾銃が重い音を立てて落ちる。
明らかに怪しいクロゼットを囮にして、背後から仕留める算段だったらしい。
「手がっ!痛い……くううっ」
エリス・ウィーストンはキャットと同じくらいの年のようだった。
キャットを仕留めたあと屋敷の外へと脱出するつもりだったのか夜着の上にフード付きの外套を羽織っている。
顔はフードで隠されて見えないがキャットと同じ黒髪のおさげが胸の前に一本垂れているのが見えた。
短剣は深く手を傷つけたようで溢れる血を抑え、半泣きになりながらもこちらを睨みつけている。
その視線は強く、生き抜こうとしている意思がある。
経験上、わかる。
こういった眼をしている人間にはあまり時間は与えられない。
「私が……なにをしたって……いうのよっ!」
甲高い声で叫びながらエリスはキャットから逃げようと動く。
意味をなさなくなった暖炉と箪笥の隙間を抜けて扉の方へ。
罠に囚われて身動きがとれないわけでもないキャットはそれを逃がす道理もなく軽く踵をあげて跳躍する。
猫のような飛翔。
空中にいる間にキャットは新しい短剣を流れるような動きでフリルの隠し鞘から抜き出し、拳の中に握りこんでいる。
予想外なほど高く跳躍したキャットに驚いて足を止めたエリスはまともにキャットの身体を受け止めることになり、悲鳴をあげて絨毯の上に転がる。
キャットはその上に馬乗りになり、砦の娘にそうしたように短剣を握りこんだ拳を振り上げ、もう片方の手をエリスの顔に伸ばす。
瞳を閉じ、少しでも死の恐怖を和らげるために。
「いやああぁぁぁー!」
「……っ?」
手の感触に恐怖を感じたのか、キャットの下でエリスは暴れ、顔を覆い隠していたフードがばさりと絨毯に落ちる。
本来ならあってはならないことだが……キャットは再び言葉を失い、動きを止めることになった。
「嫌だ!嫌だ!せっかく頑張ったのに!ここで、こんな家で一生を終えるなんて嫌だ!せっかく、せっかく頑張って、もう少しで抜け出せそうだったのに!!!」
声を枯らし、泣きながら喚くエリスは――キャットと同じ顔をしていた。
ひとつ結びにした黒髪も、細く整えた眉も、どこか猫に似た瞳もよく似ている。
違いがあるとすれば「ほくろ」の位置か、キャットは右目にあるが彼女は位置をずらしたように口元の右側にあった。
だがその違いは余人にすれば小さな誤差のようなもので、誰の目から見てもエリスとキャットは瓜二つだった。
「私は生きたいのっ!!!生きて……あの人と結婚するのっ!!!!」
「――わっ」
火事場の馬鹿力なのか、はたまたキャットが自失し過ぎていたのか、エリスはキャットの肩を押し、馬乗りの状態から這い出る形になる。
慌ててキャットは立ち上がるが、そのときにはエリスは扉ではなく部屋に備え付けられた窓にいて、白いふとももが見えるのも気にせず窓を乗り越えようとしている。
(ここは3階……どこに逃げるつもり?)
キャットが駆け寄るも遅く、エリスは窓を乗り越えて暗闇へと身を躍らせる。
ここは屋敷の最上階の3階だ。
普通の人間が3階から落ちてはまず無事にはいられない。
半ば呆然としたままキャットは窓から身を乗り出し――そして愕然とする。
「飼い葉の上に……もしかしてこんなときの為に……?」
偶然か、それとも最近になってよく市井でその存在を囁かれるようになった「エリドラのアサッシン」の来訪を警戒してか、屋敷の裏庭にはうず高く干草が積まれていた。
その量はちょっとした小山のようになっていて、3階から落ちた人間を受け止めるのに十分なクッションになっていた。
「ざ、ざまあみなさい!私の命はあんたみたいなのにあげられないのよー!!」
干草の上から転げ落ちたエリスは足を引きずりながらも得意げにキャットに指を突きたて、近くにあった馬屋の中に入っていく。
裏庭はどうやら鉱石を運ぶための馬車馬の牧場になっているらしい。
馬の扱いに手馴れているのかキャットが瞬きする時間でエリスは馬に乗って出てきて、柵を飛び越えて夜の森へと消えていった。
「逃げられた……」
キャットは呆然と二度瞬きをして、きっ、と顔を引き締める。
常体、眠たげに細められた眼が震えを伴って見開かれ、ざわり、と黒い瞳の中で得たいの知れない光がどこからか滲み出る。
噛み閉められた口元から猫科の獣のように犬歯が見えていた。
「追う……追って、仕留める!」
窓の縁に足を乗せ、ばっ、とひと息に窓から飛び降りる。
落下はエリスのようには無様にならず、干草のクッションを十分に利用して綺麗に回転して着地し、その勢いのまま森の中へとひた走る。
その足は驚くほど速い。
本気で、本気で「狩り」を行うキャットは馬に追いつけるほど速く走ることが出来る。
森の闇もその足を止めるのに用を成さない。
キャットは闇の中に走る馬の後姿を認め、さらに速度をあげて跳んだ。
さきほどよりも速い、猫のような飛翔。
ばたばたと風がキャットの被服を揺らし、黒いベールが風に流されて顔が露になる。
ねじくれた黒い木々の枝先がキャットの顔のすぐ横を通過していく。
キャットはそれを気にせぬまま空中で柔軟に身体を捻り、短剣を2本、隠し鞘から抜き出し投げ放つ。
狙うは馬の足。
「ああっ!?」
甲高い嘶きをあげ、足を貫かれた馬が倒れこみ、木に身体をぶつけて息絶える。
血まみれの手でなんとか手綱を握っていたエリスはたまらず馬から投げ出され、地面に強かにぶつかる。
呻きながらうつ伏せになった体を操り、なんとか正面へ。
「あ―――」
その上に、先ほどの再現のようにキャットが舞い降りる。
しかし狩人か、或るいは獣と化したキャットは同じ失敗は繰り返さない。
泣きはらした眼を恐怖に見開かせ、両手を天に突き出したエリスは同じ奇跡を起こせない。
「さようなら、わたしのそっくりさん」
ざく、と鈍い音が森の闇に響き、すぐに静寂に溶ける。
エリスは声もなく、誰に看取られることなく森の闇の中で息絶えた。
これで誰も彼女の死に様も知ることは出来ない。
キャットは恐怖に濡れたエリス――自分と同じ顔の娘の瞳を閉じさせるとしばしその場で動きを止め、その体を担いだ。
いつもならばしている死者への祈りはしなかった。
深い意味はない。
ただ、この自分と同じ顔をした少女にそれをすることが何故か不吉に思えたからだ。
向かう先はグレアム・ウィーストンの屋敷。
キャット以外のアサッシンは特にトラブルもなく仕事を終えたようで、屋敷の1階から黒い煙をあげて炎が広がっている。
不始末による大火事。
それによって屋敷の住人、そして招かれていた客は全員死亡。
それが明日、トリスティアの表の人間に知らされることになるだろう。
「……」
キャットはどこか奇妙な胸騒ぎを憶え、足を止めたがすぐさま歩き出す。
炎に包まれつつある屋敷へと。
肩に背負った哀れなエリス・ウィーストンの生家へと。
仲間と合流し……明日を迎える為に。
「あれ?ボクらは?メイドに扮したボクの華麗な活躍は?」
「俺、何の為に出てきたん……?」
「にゃーん」