猫、夜を待つ。
第1章
猫、夜を待つ
キャットはその名の通り猫のような少女だ。
少しくせのある黒髪に、丸くよく磨かれた水晶のような瞳。
その瞳のなかは一片の曇りもなく、好奇心と興味がちいさな光の玉となっていつも外の何かを見つめている。
小さく形のいい唇はいつも綺麗な一本のラインを作っているが“口は眼ほどにものを言う”のか、なにか自分の興味のあることがあるたびにぐんにゃりと曲がり、下弦の月をつくったり、なだらかな丘をつくったりとせわしなく動いている。
しかし決してキャットは年頃の娘のように姦しいことはなく、それこそ人語を解さぬ猫のように無口だ。
無口だが、表情豊かな少女。
キャットは表の人間からも裏の人間からもそんな印象を受ける少女だった。
そんな猫のような少女、キャットは今、街の上を飛んでいる。
といっても決して背中に翼など生えていない。
下をいきかう表の人々と同じく、刺されたら死ぬし高いところから落ちても死ぬ脆弱な身だ。
だが少女はそんなことは自分に関係ないとばかりに知らぬ顔をして、跳ぶ。
屋根から屋根へと、塔から塔へと、外壁の上からまた違う外壁へと。
スキップをするような軽やかさで。
失敗して足を踏み外すようなことはしない。
キャットにとっては街の中――特にこのトリスティアで一番人がごったがえし、もがくように商人達が競り合いをしているレオール市場を歩くよりも、壁をよじ登り、屋根の上に立って、人々の頭上を飛び越えてしまう方がよほど簡単だからだ。
レオール市場は緩やかな坂になったトリスティア城下街のちょうど中間点にある大きな広場だ。
市場の名の通り国から認可を受けた露天商や店もちの商人たちが笑顔と愛想を精一杯振りまきながら商いに精を出している。
人々はその商人たちが進める商品や、自分の求める品々を探してあちらこちらうろつき回り、目当ての品を見つけて財布の紐を緩めたり、値引き交渉に口から唾を飛ばしたりと、常に喧しい場所だ。
特に今日はなにやら商人ギルドが取り決めた特売日らしく、あまり広くもない広場に露天商たちが屯して店代わりの天幕に赤と黄色の三角旗を飾りつけ、いつもの勢いの三割増しで声を張り上げて呼び込みをやっている。
それに群がる人も人で押し合いへし合い目当ての品目掛けて殺到し、まるでお祭りか何かのようだ。
キャットはそれを尻目に大きな雑貨品店の横長な軒先を素早く、しかし音を一切立てぬまま走り抜け、そして跳ぶ。
中空で三角旗のついた紐を身体を捻りながら飛び越える。
身に着けたドレスのスカートがわずかに紐にかかり、三角旗を上下に揺らすが誰も気にする様子はない。
市場の中心を飛び越えたその先には酒屋の店があり、大きな酒樽をそのまま横にした出っ張った看板がある。
キャットは空中で身体を回転させて危なげなくその樽の上に着地し、レンガ造りの壁を伝ってするすると屋根へとよじ登る。
酒場の屋根から続く建物と建物の隙間――キャットやその他のアサッシンにとっての道をくぐり抜けると、レオール市場とは少し赴きの違う通りがそこに広がっている。
歩く人々は多いが市場ほど多く会話は交わされず、まるでこの通りの人間全体がひとつの秘密を共有しているようにどこか落ちつかなげな雰囲気がある。
ほとんど道を歩く人間は男で、女は扇情的な装いのドレスに身を包んで街頭や扉が開いたままになっている建物の前で歩く男たちを観察し、時には声をかけ、腕を引っ張って建物の中へと連れて行く。
女たちの手首や首にはきらりと輝く銀色のメダルが鎖に付けられて輝いている。
キャットは建物の屋根を伝い、軒を歩いて渡り、ある3階建ての館の窓へと近づいていく。
「……おじゃま」
キャットはそう小さく呟きながらドレスの裾が広がらぬように部屋の床に降り立った。
床は掃除の行き届いた木造りで、あまりが年季の入っていない。
部屋に誰もいないことを確認すると、両開きの窓――自分の玄関がわりに手をかけて静かに閉める。
外から流れ込んだ風がふわり、とキャットのベールを揺らした。
部屋の中は豪華なつくりになっていた。
金糸が縫いこまれた絨毯に、猫足のテーブルとその上に盆に乗って乗せられたグラスとワインボトル。
ワインは半分ほど減っていて、グラスにはこの部屋の主の口紅がついていた。
部屋の3割を占める大きなツインベットにはまるで童話のお姫様が眠るベットのような薄いシルクの天蓋が付いていて、その生地に縫いこまれた銀色の糸がきらきらと差し込む光を反射して輝いている。
キャットはそっ、とベッドに近寄り中を覗き見るが目当ての人物はそこにいない。
かわりに、枕に金髪の頭を埋まるように一人の男がうつ伏せで眠っているのが見えた。
上半身は裸で、首の後ろに星型の刺青が彫ってある。
キャットはベットに膝を埋めて手を伸ばし、男の首筋に手を当てる。
しかしその男の生を表す鼓動はどこにもなく、生ぬるい温もりが感じ取れるだけだった。
「あら、キャット――今はキャットでいいのかしら?来ていたのね」
きぃ、とキャットがそうしたようにほとんど音を立てずに部屋の扉が開かれる。
そこにいるのは背の高い女だ。
落ち着いた、しかしとろけるように甘い声がキャットの首筋をわずかに震わせた。
「うん、着替えようと思って――この人は仕事?それとも趣味?」
キャットのあけすすけな質問に女――“毒蜂”は楽しそうに笑った。
薄いベビードールの上にガウンを羽織った“毒蜂”はしなやかに伸びた足を動かして部屋の中に入り、ベットに膝を埋めて男の亡骸に手を伸ばしたままのキャットの横に腰掛ける。
「仕事よ、キャット。あなたが追ってた奴隷商がらみのね。でもあんまり役に立ちそうな情報は持っていなかったわ」
「無駄な殺しだったね“毒蜂”元締めが見つかったよ。今日の夜、そこに行ってくる」
「そしてまた一人の悪人がエリドラの元へ送られるわけね――あなたの手によって」
“毒蜂”はそう艶かしく笑うと、大きく開いた胸元から蝶が刻印されたメダル――娼婦の証を取り出した。
そのメダルは銀色の細い鎖で繋がれており、ペンダントのように女の白い首から垂れ下がっている。
キャットの首にもその鎖は巻かれているがその先に繋がるメダルはまた違うものだ。
「わたしだけじゃないよ。“毒蜂”あなたも一緒」
「あら、そうなの……それなら“長腕”あなたは夜の打ち合わせにも来たの?」
あの姦しい“死の抱擁”ではなく、と憂鬱そうにメダルを指で弄びながら“毒蜂”は吐息を吐いた。
アサッシンには二つのタイプがある。
ひとつは念密な下準備を土台に「確実に相手を仕留めれる状況」を作り出し、その結果として暗殺を成功させるタイプだ。
このやり方をするアサッシンは正面きって戦える能力は低く、市井の出身からこの道へと至った人間に多い。
対してもうひとつは相手が誰で、どんな状況であれ蝋燭の火を息で掻き消すように暗殺を成功させるタイプだ。
こちらのタイプは元々戦いを日常としてきた戦士や傭兵か、生まれてから訓練を受けた純粋なアサッシンがこれにあたる。
前者は人の協力を得て徒党を組んで行動することが多く、後者は単独で行動をする場合が多い。
“死の抱擁”と呼ばれた布に包んだ短銃を殺しの友とする少女は完全な前者で、目の前“毒婦”も下準備が本業のような人間だ。
当のキャットはというとちょうどその中間といったところか。
単独で暗殺をこなせる能力はあるが、確実性を高める為に“毒婦”や“死の抱擁”もう1人今日の夜グレアム・ウィーストン家で合流する予定の“骨砕き”とよく組んで仕事をする関係だ。
その必要がなくともキャットと“死の抱擁”は表の立場でも気のおけない友達で、組んで仕事をすることがよくあった。
「わたしはそんなことしないよ“毒蜂”今“死の抱擁”が“骨砕き”のところに行ってるみたいだし、2人が作戦を考えてると思う」
「相変わらずね、キャット……たまには自分で考えないと本当にただの猫さんになっちゃうわよ」
悪気なくそう言われた言葉にだって考えるのは得意じゃないもの、と子供っぽくいうと、部屋の隅にある衣装箪笥に近づき、その扉を開ける。
ふわり、と化粧と香水の香りがキャットの鼻をむずがらせ、小さなクシャミをする。
鼻をごし、と拭いながらキャットは様々な夜の服――スカートのないバレエ服もどきや網なのか布なのかよく分からない服を掻き分けてお目当ての服を箪笥の中から取り出す。
その手にあるのは今キャットが着ているものと良く似た黒い花嫁衣裳だ。
形は肩を露出したスリムなラインのドレスで、上半身のシンプルで装飾が少なくスカート部分に多くのフリルを使った構造になっている。
スカートは足首まで見せる程度の長さで、あまり広がりがない。
重なりあったスカートのフリルの下には無数の黒皮製の帯が備え付けられており、そこに短剣を仕込めるように改造されていた。
いま着ているものよりもより暗器の隠蔽性を重視した特注品だ。
「手伝いましょうか?」
「ひとりで着れるよ」
笑みを含みながらかけられた言葉をかわし、キャットは新しい花嫁衣裳へとその被服を変える。
黒いベールを外し、背中を手の後ろに回すと、首の後ろで止められた紐を器用にほどき、衣装の上着を緩ませる。
その下から顕わになった裸身には薄い傷跡が幾つも残り、この少女が生まれてから今までにくぐってきた修羅場をひそやかに主張していた。
上着を脱いだキャットはそのままスカートから足を抜いて、フリルのかわりのように「縫い鞘」に挟み込まれた無数の短剣を新しい花嫁衣裳に移していく。
一本一本短剣がスカートに挟み込まれるごとに重量が増えていくが、キャットのよく引き締まった身体にはそれを着るだけの筋力があることが見てとれた。
少女の細腕と侮ってはいけない。
少なくとも“毒婦”は暗殺の最中、キャットが鉄製の鎧に身を包んだ大男を投げ飛ばした光景を幾度かみたことがあるのだ。
「これで終わり、と」
その言葉を仕上げにキャットは最初にそうしたのと同じように黒いベールで顔を覆い隠し、新しい花嫁衣裳の感触に薄く微笑んだ。
殺しをする前はいつも身奇麗でなければならない。
これはアサッシンたちの戒律ではなくキャット自身が考えたルールのひとつだ。
別に深い意味はない。
ぼろぼろの衣装に身を包んだ殺し屋と、綺麗な服を着た殺し屋に殺されるのはどちらが安らかにいけるだろう?
いつだかそんな疑問が頭の中に浮かび、後者を選んだのがこのルールのはじまりだった。
「気が早いわよキャット。夜中になるまでまだずいぶんあるわ」
“毒蜂”が窓の外を眺めながら言う。
日は少し傾きかけており、柔らかな光を投げかける太陽がこの街の象徴――神人エストワールを奉るマール聖教会の針のように細っこい鐘つき塔を一本の黒い針にしつつあった。
今頃その鐘つき塔の下では幾人ものエストワールを崇める人々が集まり、神父の話に耳を傾けている頃合いだろう。
昼と夕刻の境目の時分、だいたい5時半ごろといったところか。
人々がそろそろ日中の仕事を終えて、我が家へと帰りはじめる時刻だ。
「それなら夜になるまで眠る。ベットを借りていい?」
「お好きなように」
キャットは快く返事をした“毒蜂”に会釈を返し、天蓋つきのベッドへ身体を横たえる。
その隣には未だに“毒蜂”が殺した男が今生最期の情事へと思いをはせたまま眠っているが、キャットも“毒蜂”も気にすることはない。
アサッシンという闇の稼業を日々の糧とする2人にとっては生ある人間より死んだ人間の方が身近で、恐れることなどないからだ。
特にキャットと“毒蜂”の2人――年も背格好も違うこの2人にはある共通した「奇癖」がある。
その「奇癖」の影響で、この2人はこの街を拠点とするアサッシンの中でも特に死体への忌避感が薄い人間だった。
「おやすみ、キャット」
「おやすみ」
そう挨拶を終えて、キャットは男の亡骸の横で胸に手をあわせて眼を閉じて眠りに就く。
“毒蜂”は一度だけキャットの少しくせのある黒い前髪を撫でてベッドから立ち上がり、部屋を出て行く。
ちょうど部屋の前の通路には小間使いの青年が床の掃除をしていて、突然現れた“毒蜂”に目を丸くしていた。
“毒蜂”はその青年に艶やかに微笑みながら目線をあわせ、部屋の扉を示しながら囁くように言う。
「お客様がお休みになられてるわ、誰も入れないで頂戴」
そのとろけるように甘い声に青年は初心に顔を赤らめて小さく返事をする。
まだここに勤めてまもないようだった。
娼婦の声に混ざる、男に媚びるような独特な色に慣れていない。
しっかりね、と赤いルージュをひいた唇でにっこりと笑い“毒蜂”は階下へと降りていく。
青年はその姿が消えるまで呆然と見つめると、はっ、としたように首を二三度振って床の掃除に戻った。
いつかあんな美人と寝れたらいいな――なんて下世話なことを考えながら。
「起きなさい“長腕”仕事の時間だわ」
「ん……」
キャットが目を醒ましたのはこの部屋に入り込んだその5時間後だった。
まどろみを振り払いながら窓の外に目をやると夜はとっぷりと暮れて、静かにトリスティアの上を闇で覆い隠している。
月は雲で覆い隠されて見えない。
仕事には絶好の夜だろう。
「馬車を下に待たせてあるけど、乗る?」
今日の仕事場であるグレアム・ウィーストン家の屋敷はトリスティアの郊外にあった。
表の顔は宝石鉱山のオーナーである豪商は仕事場であるフロンリッタ鉱山のふもとに館を構え、そこから現場へと指示を出していた。
足でいくのには距離があるかな、とキャットは思い夜の仕事着に身を包んだ“毒蜂”に肯いた。
“毒蜂”の仕事着は血のように赤いドレスだった。
煌びやかな布地で作られたそれの胸元は大きく開いていてひどく扇情的な雰囲気をあたりに撒き散らしている。
首元には赤いドレスによく似合う黒い襟巻きを巻きつけている。
“毒蜂”とキャットは館の誰にも見られないよう注意しながら下の階に降り、館の前の石畳の街路で待つ馬車へと乗り込む。
黒い山高帽を被った御者は見覚えのある“鳥”の男で、2人が馬車の中に乗り込むと、前を向いたまま小さな封筒をキャットに放り投げて馬を走らせた。
「“死の抱擁”から?」
ひょい、と猫が伸び上がるように封筒をキャッチしたキャットは封筒に署名された見覚えるのある筆跡を認めて、その中を確認する。
封筒の中は質素な紙一枚で、そこには飾ることのない文体でこう書かれている。
キャットは隣で窓の外を眺めている“毒蜂”のためにその文面を声に出して読み上げる。
「今宵、罪人グレアム・ウィーストンとその一党をエリドラの身元まで送り届ける。罪状は罪無き女子供を奴隷として仕立て、それを己の屋敷で売り捌いた罪である。その一族郎党には主人の悪辣を黙認し、弱者の心血を啜り生きながらえてきた罪を課す――“死の抱擁”」
「ご大層な文面ね――“死の抱擁”はこういうのが好きなの?」
「さぁ、あの子の趣味はわかんないかな」
キャットの友人である“死の抱擁”は昔のアサッシンのような文面を好む。
他のアサッシンがこの手紙――協力者を募る手紙を書くときはもっとシンプルで無駄がない文面だ。
ただ罪人の名前を列挙し、この者どもに死を与えると書くものもいれば、もっと簡潔に○○を殺すから協力しろとだけ書くものもいる。
キャットはというとまず協力を求める手紙など書かずたまたま近くにいた居合わせた手近なアサッシンを誘って仕事に赴くことが多い。
断られる確率は半々といったところか。
基本的に自分1人でもいいし、誰かがそこで手を貸すのならそれでいい。
キャットはそんなアサッシンだった。
「……グレアム・ウィーストン家では今日大規模な奴隷オークションが開催される予定だ」
寡黙に馬を走らせる“鳥”の男が思い出したようにそう呟く。
その顔は前を向いたままで表情は見えない。
「護衛が屋敷内をうろついている筈だ。注意してかかれ、若きアサッシン」
「親切に、ありがとう」
“鳥”の男はそれきり何もいわなくなり“毒蜂”も今からの仕事のことを考えているのか窓の外を見つめたまま喋らない。
キャットはそんな寡黙な両者に囲まれたまま仕事場に着くまでもう一眠りすることにした。
宝石鉱山の経営で財を成した豪商グレアム・ウィーストンの屋敷は街道から少し外れた山道の近くにあった。
公用路であることを表す石畳の舗装こそないものの馬車が通りには十分な幅の道が形成され、丁寧に石なども取り除かれている。
その道は館を越えると山の中へとするすると伸びていき、普段この道を通いの鉱夫や荷馬車が昇っていくのが想像出来た。
深夜に近い刻限ともなるとそんな日常の風景は消失し、ただただ口を引き結んだ夜の暗闇がたまに虫の声を伴ってそこにあるばかりだ。
そんな誰もいない道を一本の松明を頼りに歩いていく男がいた。
「やれやれ参ったなぁ……」
男――騎士の鎧の上に外套を羽織った男は手元の地図と道を見比べながらなにやら難しい顔をしていた。
その男の背には旅装品を詰めた布袋が背負われ旅の途中であることを示している。
「まさか地図を見ていて道を間違うとは思えないが……と、ん?」
がらがら……と背後から聞こえてきた音に気づき、男は歩きながら振り返る。
「と、とと……あぶなっ!」
がらがらがら、と馬の嘶きを伴って男の後ろから現れたのは大きな馬車だった。
かなりのスピードを出していて、道の真ん中にいた男の正面をスピードを緩めることなく走り去っていく。
男は慌てて道の真ん中から飛びのき、遠ざかっていく馬車を目を細めて見つめる。
「危なっかしい馬車だなぁ……街の中もあんな速さで走ってるんじゃなかろうな」
ぶつぶつと文句を呟きながら男は道に戻り、歩みを再開する。
と、しばらく歩いてから男ははっ、と何かに気づいたように目を輝かして呟く。
「馬車が走っていく……ということはこの先に人が住んでるところがあるってことだな」
そう呟くと男は小走りで馬車が通っていった道を辿っていく。
男が走るたびにがしゃがしゃ、と騒々しい音を立てて身体に身に着けた鎧が騒々しい音を立てている。
その様子から男はそれなりの重装備を身に着けているようだったが、息を切らすことなく男は愚直に道を走り、山道の側にある屋敷に辿りついた。
大きな、立派な屋敷だ。
屋敷は外観からわかる限り3階だてほどの大きさで、外壁は質の良さそうな煉瓦で造られていた。
その周囲には敷地を示す鉄柵の囲いと堀があり、正面の門は女神像をあしらった華美なアーチ状をしていた。
「ああ、さっきの馬車もここに向かっていたのか……」
男がひょい、と鉄柵から屋敷の敷地を覗くと見覚えのある馬車が玄関の前に止まっていて、御者らしき山高帽の男が近くの石段に腰掛けて煙草を吸っていた。
「ごめんくださーい」
男は開いたままになっている正門のアーチをくぐると、明朗だがどこか暢気な風情の声で呼びかけながら玄関口まで歩いていった。
石段に座っている男が何事かと煙草を吸う手を止めて男を見やる。
だがすぐに興味をなくしたのか顔をそらし、男も御者に話しかけぬまま無遠慮に玄関口までたどり着き、重厚そうなドアを叩く。
「ごめんくださーい!誰かいませんかー?」
間延びした男の声とどんどんとあたりに余韻を残すほどの迷惑なノックに、扉の向こうで誰かが動く気配がした。
きぃ、と扉がきしむことなく開き、その隙間から明かりが零れ落ちる。
「……どなたさまでしょうか?」
少し棘のある声音で出てきたのは女だった。
齢は20過ぎほどで、よく手入れのされた使用人服に身を包んでいる。
顔は美人過ぎず平凡過ぎずといった風情で、少し険があるのが特徴といえば特徴といえた。
「ああ、よかった。人がいたのですね、まぁ、明かりが窓から漏れていたから誰もいないということはないと思ったが――」
「招待状はお持ちでしょうか?」
「招待状?今日は夜会でもあるのですか?生憎ただの旅の者なのだが――」
人が出てきて安堵した男の前で扉が閉まろうとする。
男は慌ててその扉に半身を挟み込み、扉が完全に閉じるのを防いだ。
「お引取りください。許可の無い方はお通しすることができないのです」
「まぁまぁ、そう言わないでくれよ。少し休ませてくれるだけでもいいんだ。道に迷ってしまってね」
いい加減にして下さい、と女が険のある声でそう言おうとしたが男の身なりを見て、はっ、と目を見開いた。
男の外套からのぞく鎧には王に認められた騎士であることを示す印象が施されている。
ドラコニア正騎士印章――その印章を付けた人間を一介の使用人である女が無下に扱うことは許されていない。
突然止まった女の動きに男は何度か邪気のなさそうに目を瞬かせたあと「ああ」と自分の鎧を撫でて誇らしげに胸を張って女に言った。
「本国からこちらに派遣された身でね、昨日こちらに着いたばかりなんだが準備不足でね……トリスティアへの道さえわからない身の上なんだよ」
「……シナン・ポート港からこちらへ?たしかあそこには王国行き馬車の発着所があった筈ですが」
女の声には疑いの色があった。
シナン・ポート港はトリスティアの存在するアロティースの唯一の玄関口だ。
港の入り口には大規模な馬車の発着所があり、そこからトリスティア王国への馬車に乗れる筈だ。
それはドラコニアでもアロティースにすむ大半の人間の中でも常識であり、何か特別な理由がない限り馬車を使わないことは無い筈だ。
その特別な理由は思いつかなかったが。
「知っているよ。でも不幸な事故があったみたいでね-――しばらくは王国行きの馬車は出せないと言われたからやむおえず足でここまで来たんだよ」
幸い街道が分かりやすかったから迷わずに済んだしね、と男は疲れた笑みで笑い、女の返答を待った。
女は幾度かの逡巡のあとにドアノブにかけた力を緩めると、2歩引いて男を屋敷の中に招き入れることにした。
これは自分には決めれることではない。
会釈をしながら屋敷の玄関へと入ってくる男から目をそらし、1階の広間から続く右の部屋に視線を向ける。
そこには女の雇い主――グレアム様が雇った傭兵たちが屯している。
幸い目の前の男は強引だが分別があって勝手に歩き回ることはなさそうだし、もしそうでないとしても傭兵たちがなんとかしてくれるだろう。
女は自分に言い聞かせるように胸中でそう言って、目の前の男へと視線を向ける。
「失礼しました騎士さま――旦那様にお伺いをして参りますので、しばらくこちらでお待ちいただけますでしょうか?」
「おお、ありがたい!出来れば喉を潤せるものがあると助かるのだが……」
もって参ります、と女はお辞儀をして退出し、傭兵たちのいる右の部屋へと小走りで向かう。
部屋にいるのは5人の男と2人の女だ。
5人の男たちは全員皮の鎧に身を包んだ大男で、肉厚の剣や斧などおもいおもいの得物を携えている。
2人の女は使用人服に身を包んだこの屋敷のメイドで、粗暴なこの傭兵たちを怒らせぬよう緊張しながら身の回りを世話している。
傭兵たちのリーダー格――顎に大きな刀傷の残る壮年の男が深みのある低い声で女に尋ねる。
耳聡いこの男は玄関口での会話に気づいていたらしい。
「面倒ごとか?」
「旅の騎士さまのようです。今日の夜会には関わりはないと思いますが――」
騎士、と聞いてくつろいでいた男たちが一斉に立ち上がる。
それも当然だろう。
今宵この屋敷の地下で開かれるオークションは誰にも知られるわけにはいかない類のものだ。
特に騎士という――正義の象徴のような人種の人間には決して知られてはいけない。
男たちの批判げな視線を無視しながら女は口早にリーダー格の男に告げる。
「無下に追い返すと逆に疑われることになるやも知れません。朝まで客室で逗留してもらい――そのままここを発って頂くことにしたいと思います」
「その段取りは旦那に言いな……要は屋敷を歩き回らせなきゃいいんだろう」
「そうです。どうかよろしくお願いします」
女は傭兵たちを見回し、不意な行動をとらないように目で言い聞かせながら部屋を退出しようとする。
と、騎士が飲み物を所望していたことを思い出し、不安げに控えるメイドの1人に顔を寄せて耳元で告げる。
「玄関でお待ちしてる騎士さまに飲み物を、酒で構わないわ」
「は、はい。わかりました」
まだ若い――少女のメイドが肯き、頼りなげな足取りで歩いていく。
その手には葡萄酒と杯の置かれた銀盆が支えられている。
酔い潰れて早めに寝てもらったほうが女にも屋敷で行われている夜会にとっても都合のいい話だ。
「しっかりね」
「はい……」
少女は女の声にエメラルドグリーンの瞳を不安げに瞬かせながら部屋を退出していく。
部屋の物陰から少女が騎士に近づいていくのを見届けると自分も部屋を退出し、玄関口から続く階段から2階へと上がり、主人の部屋に足早で歩いていく。
屋敷の中に人影はない。
使用人長たる女と数人のメイド、それから主人がこの日のために雇いいれた傭兵たちしかこの屋敷にはいないのだ。
「……?」
薄暗い2階の廊下の中ごろで、ふと女は思い直したように立ち止まる。
女はこの屋敷の使用人たちを取りまとめる長だ。
この屋敷で働く使用人たちの顔は覚えているし、名前も一字一句記憶している。
先ほどは気づかなかったが――メイドたちの中にエメラルドグリーンの瞳をしたものはいただろうか。
それにあの少女の名前を、自分は知っていただろうか。
(わたしの記憶違い?いや、でも――)
立ち止まり考え込んだ女の横の扉が開く。
別にその扉は闇の中から突然現れたわけではない。
2階にある無数の扉と同じく、小さな窓があるだけの質素な使用人室の一室だ。
「え――」
扉が突然開いたことに驚いて――女は部屋の中に引き込まれる。
突然現れた細長い腕が女の使用人服の襟首を掴み、異様な腕力で部屋へと引きずりこんだのだ。
女は悲鳴をあげる暇すらなく暗闇の中にその姿を消して――ざく、と鈍く湿った音と共に二度とその部屋から出てくることはなかった。