猫、城下を駆ける。
第一章
猫、城下を駆ける。
ドラコニア帝国を父とする開拓国トリスティアはとても善い国だ。
建築は父国から見れば素朴だが、その白亜の外壁を持つ街々の佇まいは人の郷愁を刺激するものがあり、国の仕事に疲れたドラコニアの貴族たちがこぞって別荘を構える理由もそのひとつだ。
白亜の町並みに、高い治水技術を覗かせる生活用水が流れる水路。
その水路には創立記念日やエストワール聖誕祭の日には花びらが流され、花と水の都へと姿を変える。
この国をもうひとつ善い国だと、訪れた人々に思わせるのは他ならぬトリスティア民の気風だろう。
気は優しく力持ちを文字通り体現した男たちと、それを優しく、時には肝っ玉旺盛に支える妻たち。
たとえ街の中で諍いがあったとしても周りにいた義侠心溢れる男たちがその喧嘩を仲裁し、いつの間にか喧嘩をしていた男たちが肩を組んで街の酒場からへべれけになって出てくるのも街の風物詩のひとつだ。
だが、どんな善い国にも裏側というのはあるもので、この国でも犯罪は絶えない。
それとも、この人々が底抜けに善良な国だからこそ眼をつけられるのか。
城下の裏通りでは今日も犯罪が繰り返されようとしていた。
「離せっ、ボクになにをする気だっ!」
「まあ落ち着けよボクっ娘ちゃん?俺たちは悪い人間じゃねえって、ただ道案内が必要なだけなんだよ」
「そうそう、ちょっと案内してくれよ」
……例えば、そんな下卑た会話をする男たちと、男に羽交い絞めにされている少女がいるとしよう。
男たちは明らかに着慣れてない平民着に身を包んだ男たちで、腕をまくって露出した二の腕や禿頭に浅く刻まれた傷がまともな仕事で生計を立ててきた男たちではないことがわかる。
第一、男たちの手には野良仕事や鉱山での労働で出来るタコやマメはなく、剣や斧を使い潰れた者のみに出来る剣ダコがあった。
それがこの男たちの正体を――判る者には雄弁に物語っているだろう。
しかし少女にはそんなものの違いがわかるわけもなく、今はただ少々凛々しい声で喚き続けるのみだ。
「いいから離してってば!第一道案内ならボクじゃなくて街の警備隊に頼めばいいだろう?どうしたってこんな裏通りに――」
「警備隊は荒っぽいからキライなんだよぉ、やっぱり嬢ちゃんみてぇな可愛い女の子が案内してくれなきゃな」
「そうそう、俺たちまだ右も左もわかんないんだよー」
白々しく禿頭の男たちはそういいながら不気味に微笑みながら少女を裏通りへと引き込んでいく。
その手際は街の、さらに言えば裏通りの構造を知っていなければ不可能な動きだった。
「遅いぞ、何をもたついている」
禿頭の男たちを裏通りのさらに裏路地――どこか白亜の外壁も煤けた貧民街で待ち受けていたのは黒いローブを纏った人物だ。
男の後ろには幌付きの馬車があり、街の外壁から続く裏門へと出発を待っているようだった。
「へへぇ、すいません親方、この気の強い嬢ちゃんがなかなか言う通りにしてくれなくてねぇ」
「そうそう旦那、薬を使わせていただけりゃもっと効率良くすむんですがねぇ」
男たちは少女を両脇から拘束したまま、媚びたような態度でローブ姿の男にそういい募った。
薬?とそれまでエメラルド・グリーンの瞳に怒りを滾らせていた少女の顔がさっと青ざめる。
比較的良家で生まれ育ったこの少女にはそれが何を意味するのかまではわからなかったが――少なくとも自分が恐ろしい犯罪に巻き込まれようとしているのは悟ったのだ。
大声をあげて人を呼ぼうとした少女の口が塞がれる。
それに驚愕して身を捩ろうとした首筋に、ぬらりといやらしい輝きを見せる肉厚の短剣が宛がわれた。
「……っ!!!」
少女の怯えを気にすることなく――むしろ喜色の笑みを浮かべながら禿頭と黒衣の男は話を続けた。
「薬などなくても最初からそうすればよかったろう、おまえらは仕事を楽しみすぎだ。」
「へへぇ、でも旦那、万が一このやわっこい肌に傷がついちまうこともありやすしね、それは旦那も困るんでしょう?」
「そうそう親方。その点、薬ならまぁ、一時的にイカレちまいますがソッチの方が好きっていう御方もおられるでしょうに」
少女は不穏当極まりない会話を聞きながら、必死に何か助けになるものがないか瞳だけであたりを見回した。
今の時分は日中で、貧民たちは鉱山の仕事や市場に日雇いにいっている時間で、人通りは皆無だ。
街をパトロールする警備隊もこの付近は哨戒時間ではないのか、その銀色の重曹鎧で包まれた姿を見せなかった。
唯一、開けっ放しになった貧民窟の扉から一匹の痩せた黒猫が瞳孔を開いてこちらを胡乱げに見やっていたが、その黒猫がじつは魔法使いの世を忍ぶ仮の姿でもない限り、助けは見込めそうのなかった。
八方塞がりの少女はそれでも視線を動かし続け――黒衣の男の後ろにある馬車の中身を見てしまった。
「んーーー!!!」
少女が見たのは自分と変わらないくらいの年の少女たちが――あられもない姿で拘束され、無理やり押込められている光景だ。
怯え、諦めた視線。
反対にどこか虚ろに少女へ無垢な笑みを向ける視線。
その視線と少女のエメラルド・グリーンの瞳がかち合い、少女はパニックを起こして暴れた。
「んーっ!ううーーーーっ!!!」
「あ、見ちまいやがったな、この雌餓鬼……面倒くさいったらありゃしねぇ」
「価値が下がらない程度に殴れ、楽しむなよ?」
黒衣の男が面倒くさげに踵を返して馬車の御者席の方へと遠ざかっていく。
男たちは顔を見合わせて笑うと、一人が少女の前に立ち黒衣の男の言いつけを守ることなく、嬉しそうに下卑た笑みを浮かべた。
「知ってたか?相棒?」
「ん、どうしたんだ相棒?」
「旦那は女は殴れば価値がなくなると思ってるみてぇだが、それも場合によりけりなんだとよ」
「んーっ!」
少女の腹に、男の拳が――触れる寸前で止まる。
「場合によっちゃ、ぼろぼろで痣だらけの方が“モエる”御仁がこの世界にゃゴマンと存在するみてぇだぜ」
「おまえもその一人ってか?」
「おうともさ……ああ興奮してきたぜ、げへへっ」
寸止めで止められた拳がもう一度引かれ、再度少女の腹に叩き込まれんとした矢先――少女はその姿を見た。
じゃ、と石を軽く擦るような音と共に――少女の男の指であげられた視線を黒い影が横切った。
男たちは少女を甚振ることに夢中でその音に気づかない。
はじめは鳥かと思った。だが、そうじゃない。
鳥はこの街々を隔てる白亜の壁の上を飛びはしても、壁から壁へと、猫のように飛び移ることはないのだ。
それならば、今視界を横切っていったのは猫か?
ちらり、と少女は顔をあげられたまま、貧民窟の扉へと視線を移す。
そこには変わらず黒猫がいて、目の前の出来事になんら関心を示すことなく毛繕いをしている。
少女はその姿を見て、いや、たとえ見たって考えを変えることはないだろうと思い否定する。
猫はあんなに大きくないし――黒い外套だって羽織っていない。
じゃり、と今度はもう少し大きな音を立てて、黒い影が貧民窟の屋根から屋根へと飛び移る。
今度は男たちもその男に気がついたようだった。
「……なんだ?今何か聞こえたか?」
いや、2人同時に気がついたわけではないようだった。
音に気がついたのは少女を短剣で拘束している男だけで、もう一人の今まさに少女の殴ろうと笑っている男は気がついていないようだった。
「なんも聞こえねぇよぉ、相棒……ああ、俺はこの白くて瑞々しいおナカのどこをぶったたけばいいんだ?」
ざっ、とさらに大きな音を響かせて、黒い影が屋根から屋根に――高い屋根から低い屋根へと飛び移る。
それを捉えたのは少女のみで、目の前の男の視線は少女に釘付け、後ろの男も警戒して首を巡らせているが、見当違いな場所をみるばかりだった。
「なぁ、話は変わるんだけどよぉ……相棒、おまえはジャッキーとフェルナンデスのこと憶えてるか?」
「んー?ああ、あの間抜けどもか……一昨日しくじって、川底から見つかった奴らだろう」
ジャッキーとフェルナンデスとは、今のこの男たちと同じように非力な少女を馬車の中に引き込んで売買人に売りさばく奴隷卸業者の2人組だった。
彼らは自分たちプロ――商品を扱うという意味では。の自覚が低く、商品は犯すわ殺すわの、とびきり悪辣な連中だった。
彼らはどうやら「やらかした」らしく組織の人間に街の外を流れる河に両足を結ばれて溺死させられたばかりだった。
「そうだ、だがあいつらは組織の人間が処刑したワケじゃなくて……アサッシンにやられたって話だ」
アサッシン。
その名前は少女も知っている。
アサッシンとは個人ではなく組織を表わす総称でもあり、普通に陽にあたって生きてる人間なら一生関わることがない人々。
子供を早く寝かしつけるために生まれたお化けのような存在。
馬鹿な、と少女の前の男が笑い飛ばし、少女の腹から視線を逸らさぬまま小さく拳闘の真似事をする。
「いつからオメーは童話なんか読むようになったんだ?あんな馬鹿げた連中……アサッシンなんているわけねぇだろうが」
「そりゃそうだろうが……なぁ、早くここを離れようぜ相棒――なんだか、嫌な予感が止まらね」
その時、少女は見た。
そして――その声を確かに聞いた。
「もう、どこにも行けないよ」
すこん――と軽く、小気味のいい音が裏通りの静寂に響いた。
その音を響かせたのは少女の目の前の男の――首に突き刺さった細く鋭い短剣だった。
「えっ」
その声の後半は水っぽかった。
首の横から刃を生やしたまま、目の前の男が2度3度小さく拳を突き出して拳闘の真似事をし――膝から崩れ落ちた。
からん、と軽い音を立てて短剣が石畳の上に転がる。
その黒い柄には――金色の細工で黒いフードと黒い外套を羽織った女性の姿が刻印されている。
手には細長い短剣が握られ、女性の足元には首元を押さえる青年の姿がある。
それは夜と沈黙の女神、エリドラの姿。
足元の青年はもしかして神人エストワールなのだろうか。
「えっ、ひっ……!」
石畳に崩れ落ちた男はまだ息があった。
血はもう取り返しがつかないほど広がり、小さな水溜りを作っていたが、それでも男は生きていた。
男は虫の息で血溜りに濡れながらも――なんとか生きようと、もがき、目の前の相棒に助けを求めた。
「い、一体……なにがっ、助けっ」
どっ、どっ、どっ、どっ。
今度はもう少し重い音で、コマ落としのように4本の短剣が男の身体に突き刺さる。
あまりの速さにそれがどこから飛んできたのか皆目検討がつかず、少女はまるで男からそのまま生えてきたようだと眼を白黒にした。
男は完全に息絶えて、相棒に伸ばした手をそのままに自分の血で出来た血溜りの中に沈んだ。
ごぽごぽごぽ、と男が最後に吐き出した息が血溜りに小さな泡を作る。
その姿は――まるで河で溺れ死んだジャッキーとフェルナンデスのようだった。
「うっ……ひっ、ひぃぃっ、ひぃぃぃぃぃ……!!!」
仲間の凄惨な死に様に完全に動転した男は少女を突き飛ばして逃走を図る。
男が先ほどまで立っていた石畳にわずかに遅れて短剣が突き刺さる。
それはどれもエリドラの刻印をされた短剣で――エリドラの瞳が冷ややかに男の背中を見つめていた。
「た、大変だぁ、親方ぁ!!!親方ぁぁーーー!!!」
男は細い路地に止められた幌馬車と壁の隙間に無理やりに身体を押し込み、今は御者席にいるであろう黒衣の男に呼びかけた。
もしかしたらもう親方も、という心配は杞憂で、実に胡乱げな視線をフードから覗かせて黒衣の男が御者席から顔を出した。
「なんだ、どうした?」
「どうしたもこうしたもねぇよ!あいつが、あいつが殺され――」
「まぁ、とにかく早く乗れ、追いていくぞ」
黒衣の男は無関心にそう言い放ち、男が馬車の中に入れるように身体を退ける。
相棒が殺されたんだぞ、目の前で、そういい募ろうと男は口を開きかけ、今は自分の命を優先させて馬車の幌をくぐって中に入り込んだ。
馬車の中はすえた――湿っぽい情事の匂いで染みついていた。
鎖と手枷で繋がれた女たちは馬車の壁の両脇で俯き、その中央にはでん、と無理やり押し込まれたように大きなベッドがある。
男はまだそのベッドを使ったことはなかったが――あまり値打ちになりそうにない商品や反抗的な商品を教育するのに死んだ相棒が使っていた思い出の一品だ。
男は今はそれに気に留めることなく、何度か息を整えてから黒衣の男へ唾を飛ばしながらまくしたてる。
「アサッシンだ!あいつらが俺の相棒を殺して――」
「何を馬鹿なことを言っているんだ……楽しみ過ぎて頭がどうかしちまったんだろう」
黒衣の男はなんら関心をもたないまま、何故か御者席の隅に置かれた袋から地図を取り出して搬送先を確認しているようだった。
普段ならばこんなことはしない。
彼はこの卸売業を長年続けたベテランであり、お得意様の搬送先までそれこそ目をつぶったままで馬車を走らせることが出来るからだ。
「そんな馬鹿なこと……そ、それじゃあ外に行って見ておくんなせぇ!あいつの死体が馬車の後ろに転がって……」
「ほー、あのグレアム・ウィーストン家が元締めか、まぁあまり意外な展開にはなりそうもないな」
その時、男は気づいた。
黒衣の男のフードから覗く髪が、元の色を違うことを。
そしてその腰に差されている武器が、値打ちのなくなった女を処刑するために使う肉叩き用のグラブではなく、騎士剣を思わせる直剣であることを。
「お、親方?」
「……おまえらは仕事を楽しみ過ぎだ、いや、楽しみ過ぎた、なぁ」
ゆっくりと、余裕を感じさせる動作で黒衣の男がフードを脱ぎ去り、その素顔を顕わにした。
それは黒衣の男の――かつての拷問の傷あとが残った顔とは似ても似つかない、壮年の男の顔だった。
道端で会ったとしても思い出せないほど平凡な、どこにでもいる顔。
男は何が楽しいのかさわやかに笑いながら、しかし眼の奥にはどろりとした得たいの知れない光を湛えて男に言った。
「お楽しみはこれまでだぜ、悪党め」
ひぃー、と今度ばかりは恥も外聞もなく男は悲鳴を上げて馬車の奥へと逃げ込んだ。
その途中でベッドに寝かされた首のない男――本物の黒衣の男を踏みつけたが、もうそんなことは男に関係なかった。
とにかく早くこの悪夢から目覚めたい。
その一心で女を突き飛ばして馬車の幌から石畳の上に転がり落ちた。
「うわっ」
「!!」
転がり落ちた男の目の前にいたのは、先ほどの少女だった。
ずっと押さえつけられたままだった手をさすりながら、実に無防備に棒立ちのままでいた。
男は追い詰められた者特有の引きつった笑みを浮かべて、少女を人質にとろうと動いた。
駆け寄り、肩を掴んでそのまま後ろに回って喉元に短剣を突きつけようとして――
「嫌んなっちゃうなぁ」
ふわ、と柔らかな感触が、少女を抱き締めるような格好になった男の腹にあたる。
さらにその柔らかな感触の包まれた――細く硬いものが、男の腹に突きつけられる。
呆然とした男の瞳と、先ほどまで怯えるばかりだった少女のエメラルド・グリーンの瞳が重なる。
その瞳には――やはり得たいの知れない光が浮かんでいた。
ぱしゅん、と軽い破裂音が密着した男と少女の間で鳴り響いた。
その音は男のブーツに包まれた両足を石畳から浮き上がらせ、男の意思と関係なく後ろに下がらせた。
腹に熱い感触がある。
呆然と手で触れれば、血が、真っ赤な自分の血がべったりと付いていた。
少女は手にもった布の塊――に包まれた短銃から立ち昇る煙をふっ、と息で掻き消し、へらりと凛々しさの欠片もない表情で笑った。
「ボク、実は男の人に抱き締められるのってニガテなんだよ。本当はキャットみたいな、あ、違う“長腕”みたいな可愛い女の子を抱き締めるのが好きなんだよ」
「……呼んだ?」
ざっ、と石畳を踏みつける音と共に、黒い影が少女の横に降り立つ。
猫を思わせるしなやかな動きで着地した黒い影は――まるで花嫁のドレスを簡素にしたような不可思議な服装をしていた。
顔は黒いベールで覆い隠されているが、相当な値打ちをもった商品になりそうだな、と男は思った。
少し痩せた肢体を覆うのは大きく広がった黒いドレスで、フリルの代わりに切っ先を下にした黒い短剣がドレスに縫いこまれていた。
長い手足を覆うのは光沢を持った黒い長手袋とブーツで――男の顔を覆えそうにない小さな拳には4本の短剣がサーカスの刀剣役者がそうするように挟み込まれていた。
「わたしは“死の抱擁”に抱き締められるのあんまり好きじゃないや……火薬の匂いで鼻がむずむずするの」
「ひどいー、ボク大ショックー、ショック過ぎて死んじゃいそうだよー」
わざとらしい動作で嘆く少女の横で、もう1人のドレス姿の少女が腕を振る。
その動きはあまりにも素早く流麗で、馬車を背にして倒れこんだ男には何も見えなかった。
ただ、どすっ、という聞き覚えのある音と共に、男の両肩と両足から短剣が生えていた。
痛い、と思わなかった。
ただ熱く、そう、ただひたすらに熱い感触があるだけだった。
「お、お助け……」
男は天を仰ぎ、どこかにいる神様に祈ろうとした。
しかしその声は誰にも届かない。
「手前らみてぇなのに、助けを差し伸べる神はいねぇ」
ざく、と新鮮な野菜を真っ二つにしたような音と共に、男の首が石畳の上に転がる。
血はほとんど出ていない。
ただ、非現実的に恐怖に歪み、涙で顔を濡らした男の生首が空しく地面に転がるのみだ。
それを成した男――黒いローブに身を包んだ男は幌馬車から降り立ち、疲れたように目の前の少女たちに告げた。
「ったく無駄な時間を取り過ぎだ、阿呆どもめ――とにかく次の仕事場が決まったぞ」
少女たちが何かを言う前に男は首を巡らし、鳥でも呼ぶように手を添えて口笛を響かせた。
その余韻が消える頃に、男の後ろ――馬車の上に体重を感じさせない音と共に、顔を隠した男が降り立つ。
誰もその男の登場に驚くことなく、黒衣の男が事務的に早口で告げる。
「よく聞け、鳥よ。元締めはグレアム・ウィーストン家だ。仕事は“長腕”と“死の抱擁”が継続して執り行う。俺は今からそっちへいって報告しに行くと伝えてくれ……あと、適当にこの場所の掃除もするよう手配してくれ」
鳥と呼ばれた男はそれを無言で聞き届けると、肯きで返答の意を返し、馬車の天井を足場にして壁へと跳躍してそのまま昇っていく。
人間業とは思えない所業だが、少なくともこの路地裏にいる3人――1人は最近やらなくなったが、は軽々と出来る動作だった。
「今のは聞いたな?“長腕”“死の抱擁”今日の夜中に全部片付けちまえ」
「……わかったけど、ちょっと不安?」
「えー?ボクら2人だけー?ちょっと仕事多すぎじゃない?」
片や感情を感じさせぬ口調で器用に了解と不安を口にし、片やぶつくさと不満の意を示した。
男は頭痛のようなものを感じ、眉間を手で揉み解しながら面倒くさげに少女たちの返答に言葉を返した。
「あー、わかった、わかった。おまえら2人だと何かと不安だからな……“毒蜂”と“骨砕き”にも伝えておく。それでいいな」
男の言葉に少女たちは顔を見合わせて了解の意を返した。
「それなら、不安はない」
「“長腕”にさんせー」
男はその返答にひとまず満足し、だるそうに肩に手をやりながら表の道に繋がる路地へと歩いて去っていった。
残された少女たちはひとまず、別れの挨拶をかわし、黒いドレスの少女だけが裏路地に留まる。
少女は人目がないこと――幌馬車の中の奴隷少女たちが全員気を失っていることを確認すると、男から短剣を回収し、ドレスのスカートに備え付けられた布鞘に一本ずつ収めていく。
それが終わると少女は佇まいを直し、最初に殺した男と首のない黒衣の男、そして二つの生首を丁寧に石畳の上に置いていく。
綺麗に並べられたと、少女は表情の薄い顔にわずかに笑みを浮かべ、片手でエリドラの聖印を切り、死体たちの見開かれた瞳を閉じていく。
「もうあなたたちは罪を重ねることはない……安心して、エリドラの元へ逝きなさい」
歌うように、別れを惜しむようにそう呟き、少女は黒いドレスを翻して跳躍する。
鳥の男がしたように建物と建物の壁を蹴って貧民窟の塔へと昇ると、そこから見えるトリスティアの城下街を見下ろした。
「誰もが、心に闇を抱えて……苦しんで生きている」
城下街の表通りには仕事に追われながらも生きることを謳歌する人々の姿で満ち溢れている。
その人々の間を水路が流れ、生きることに必要な水を供給し続けている。
美しい光景だ。
だが、その水路に時には血が流れることを人々は知らないだろう。
「中にはその闇に呑まれて悪さをしてしまう人も数多く、いる」
少女は目を細め、道々に溢れる人々から視線を外し、緩やかな坂になったトリスティアの町並みへと眼を向けた。
建物は白く、かつてはドラゴンと戦うために作られた物見塔から洗濯物がぶらさげられ、優しくたなびく風にその身を躍らせている。
その洗濯物の陰には、このトリスティアで一番大きな宮殿――グラントリス王宮が聳えている。
降り注ぐ太陽に照らされた白亜の宮殿は今日も明日も美しく輝いているのだろう。
人々の闇を知ることもなく。
「でも安心して……エリドラが救ってくれる……同じく闇に呑まれたエリドラがあなたたちの声を聞いてくれる」
でも、と“長腕”と呼ばれた少女は透明な視線をグラントリス王宮へと向けたまま呟く。
「でもエリドラはあなたたちを導いてくれない――だからわたしが、わたしたちが」
少女は身を翻し、塔の縁を蹴って空中へ身を躍らせる。
その先にあるのは高い集合住宅の平屋眼で、危なげなく少女はそこに着地する。
驚いた鳥たちが一斉に羽ばたき、白い羽を残したまま空へと去っていく。
遠くで鐘の音がする。
午後3時、平民区にある救貧院が子供に施しをする時間だ。
その音を猫のように目を細めて聞きながら――“長腕”と呼ばれる少女、キャットは再び空へと身体を投げ出した。
「わたしたちが――エリドラの愛を伝えてあげる」
再び、救貧院の鐘の音がトリスティアに鳴り響く。
しかしもうその音を聞く者はそこにはおらず、ただ鳥の羽だけが――その名残を惜しむように街の上を舞っていた。