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プロローグ


プロローグ


『神人エストワール記・第百二章――女神エリドラの乱心』より引用



――氷の王アイテルの難題を見事に解いた神人エストワールに、知識の女神エリドラは興味を抑えられなくなってしまった。

 その感情の動きも当然だろう、これまでアイテルの出す難題を退けられる神などエリドラ以外には誰もいなかったのだから。


「アイテルの問いを退けた彼ともっと話したい。もっと彼を理解したい」


 その欲求は日々強くなり、恋という感情になるにはそれほど日数を要しなかった。

 いや、それは恋と呼ぶには拙く、幼いものだった。

 エリドラの望みはただ彼を自分の住処であるクラックリネンスに招き、語り合いたいだけだった。

 世界に無尽蔵に生まれていく知識をまとめるために生まれ生きてきたエリドラには、それが精一杯の恋だった。


 だが、そのささやかな恋は叶えられることがなかった。


 神人エストワールの話は他の神々にも広く知れ渡っており、既に彼の周りにはたくさんの人々が集まるようになっていた。

 愛の女神アスティ、花の女神エナルス、弓の女神エラ、戦神ヴァルホーテの娘エーヴリル、杯の女神シエスタ。

 全ての神に愛される美貌を備えたエストワールの側には、昼も夜もエリドラより美しい女神が集まって愛を囁いていたのだ。

 そこには常態クラックリネンスの書斎に篭り、ただ知識だけをがむしゃらに集めていたエリドラの場所はなかった。

 それに、エリドラは常として孤高の探求者としての自分を誇り愛していた。

 その信念が枷となり、人間の世界であれば100年、エリドラはエストワールと言葉をかわすことはなかった。


……その間、エリドラは苦しみ、その黒く流れる髪をかきむしって泣きじゃくった。

その涙は湖となり、今に知られるアルル湖を形作ることとなった。

100年間泣き続けて涙が枯れ果てたエリドラはその畔に座り、ぼんやりと物思いに耽った。


「どうすればわたしは彼と話せるのだろう、どうすればわたしは彼に近づけるのだろう、どうすれば……」


答えの出ないエリドラの問いに、答える者が現れた。

それは彼女の涙から作られたアルル湖から生まれでた水妖だった。


「顔をおあげ下さい、エリドラさま。もしわたしに力になれることがあれば教えてください」


 そう言い募る水妖にエリドラは胸中の想いを打ち明けた。

 エリドラの思慕を聞いた水妖は、魔物の心に従って明快にエリドラに答えを授けた。


「――お相手が届かぬ場所にいるならば、奪えばいいのですよ、エリドラさま」


 その乱暴ともいえる答えに、エリドラは遂にひとつの答えを見出した。

 その答えとは、理性を捨ててしまうことだった。

 自分が今まで100年の間心の中で望んだことを実行するときがついに来たのだ。

 何も悩むことなどなかったのだ。

 彼と話したいならば、彼を連れてこればいい。

 彼に近づけぬならば、あの女神どもを退かせればいい。

 あの女神どもが何か難癖を言うならばその口を塞いでやればいい。

 それでも自分の邪魔をするのならば、殺してしまえばいい。

 そうしてしまえば誰にも邪魔されることなく――


 そう考えたとき、エリドラは恐ろしい予感に襲われた。

 もし、あの女神どもの愛を聞き続けてきたエストワールがエリドラと共にこないならば。

 エストワールはとても優しい神人だ。その姿は容易に想像できた。

 あのすがりつくように、媚びるように、甘えるように、身体を摺り寄せる忌まわしい女神どもの――下世話な思惑を知りながらも慈悲の心で“気づかぬ振り”をして微笑み続けるエストワール!

 まだそれだけならばいい。

“エリドラとエストワール”の恋に綻びはない。

だが、もし、もしも――万が一、エストワールがあの女神どもに心動かされ、その高潔な魂を汚されてしまっていたら。

そんな恐ろしい予感が、エリドラを決意させた。


 この時、エリドラの心は長年培われてきた闇と結びつき、その形を歪めていた。

 100年もの長い孤独はエリドラの心を狂わせていたのだ。

 冒険を助けるために数回助言をしただけのエストワールを相思相愛の恋人だと思い込むほど。

 そして狂ったエリドラはひどく行動的だった。


 まずエリドラは己が集めてきた知識を縫い合わせ、他の神々に見つからぬ外套を作った。

 そのことで彼女は知識を失い、人々の言葉はばらばらになったがエリドラは気にしなかった。

 次にエリドラは自らの長い髪を引きちぎり、かわりに夜の闇を頭に被った。

 そのとき地に捨てられたエリドラの髪から病が生まれたがエリドラは気にしなかった。

 最後にエリドラは自らの住処であり半身でもあるクラックリネンスの石柱を削り、触れた何者も切り裂く短剣を作った。

 これにより「完全」の宮殿たるクラックリネンスはその力を失い、世界は「完全」を失ったがエリドラは気にしなかった。


 知識、美貌、半身を永遠に失ったエリドラは何も気にすることなく、ただ確信の笑みを浮かべ、神の宴会場に降り立った。


 100年のときを経て、少年から青年へと成長したエストワールは美しく、さらに聡明になっていた。

 その周りには男女関係なく神々が集い、彼の英雄譚を聞きたがっていた。

 エリドラは今にも彼の逞しい腕に抱きつきたい衝動にかられながらも、巧みに神々の間をすり抜けて彼に近づいていった。

 あと、一歩――もう少しで彼のそばへと辿り着けるというとき、彼女の名前を呼ぶものがいた。


「エリドラ!」


 その者はエリドラの妹たる閃きの女神アルスティだった。

 アルスティはこの100年姿を見せない姉を心配し、呼びかけていた唯一の神だった。

 そして知識を求める人間に応対するエリドラが彼女が作り出した使い魔であると見抜き、知識を縫い合わせた外套を見破った唯一の1人でもあった。

 彼女の叫びに外套は力を失い、夜の闇のフードとクラックリネンスの短剣を持ったエリドラは神の前に姿を現すことになった。

 その異様な姿にエーヴリルがいち早く危機を覚え、武器を構えて叫んだ。


「捕まえろ!エリドラはエストワールを狙っている!」


 この言葉にエストワールを大切に思う神たちがこぞってエリドラを捕らえようと動いた。

 エリドラもまた否定の言葉を返すことなく、ただ一度エストワールの腕に触り、踵を返して逃げ出した。

 このときエストワールもまた、彼女を追うために神の先頭に立ち、エリドラを追いかけた。

 神々の機微を読むことが出来たエストワールは、震える彼女の手に触れられて、彼女の悲しみを感じ取ったのだ。

 さらにはその奥底にあるエリドラの狂気もまた。


「エリドラ!一体どうしたというのです!知識の女神たるあなたに何があったというのです!!」


 もし私に力になれることがあったら、という神人エストワールを彼たらしめるその言葉は聞き届けられなかった。

 エリドラは巧みに飛び交う無数の炎と雷を外套で消しさり、喰らいつく幾百の武器を退けながら逃走を続けた。

 多くの神がその所業に戦慄し、警告の笛を吹きながら彼女をより激しく追いたてた。

 このエリドラの逃避行の間に幾人かの神が傷つき、その力を失った。

 もはや彼女の罪は許しようのないものへとその重さを変えており、普段は穏やかな正義の神ジアステスがとうとう憤怒に瞳から炎を出し、背中から雷の翼を出しながらエリドラを追いかけた。

 しかし逃げるエリドラの魔術による巧みな逃走に追いついたのは閃きの眼を持つアルスティと神人エストワールだけだった。


「離せ、私の身体に触れるな!」


 エストワールがエリドラを捕まえたのはクラックリネンスの周りに広がる花園の中だった。

 見たこともないほど色鮮やかな花々が絨毯のように広がり、その花びらが風に舞い続ける悠久の楽園でエストワールはエリドラを組み伏せた。

 無数の神に追われた狂気のエリドラは自分を捕まえた神が誰なのか分からないようだった。

 誰の眼から見ても激しくクラックリネンスの短剣を振り回し、エストワールの下でもがくエリドラはもはや知識の女神ではなく、嫉妬と孤独に狂った女でしかなかった。

 その姿にアルスティは戸惑い、おろおろとあとずさるばかりだった。

 未来すら見通すアルスティの閃きの瞳は、涙に濡れてその先を映すことはなかった。

 アルスティが堪らず2人の側を離れたそのとき、エリドラはにっこりと童女のような笑みを浮かべた。

 幼い、されど知識が歪み固まり凝った歪んだ瞳。

 その瞳に驚きエストワールが力を緩めた矢先、天と地が逆転し、いつの間にかエストワールがエリドラに組み敷かれていた。

 目も飛び出さんばかりに驚いたエストワールに、エリドラはナイフをゆっくりと突き出しながら甘く切ない声で語りかけた。


「嗚呼、ようやく2人になれましたねエストワール!わたしはこの100年の間……ずっとあなたをこうしたかった!」


 クラックリネンスの刃が、徐々に徐々にエストワールの喉元に近づく。

 それを必死に止めながらエストワールはエリドラの声に耳を傾けていた。


「ずっとずっと、朝も昼も夜も雨の間も、ずっとずっとあなたをお慕いしていたのですエストワール!ずっとずっとあなたの側に行きたくて仕方なかったのです!あなたに寂しい思いをさせてしまいましたね!」


何を言っているのか、そう訝しむエストワールに優しい笑みを浮かべながらエリドラは独り言のように語り続けた。


「ですが、それは叶わぬことでした。あのとびきり美しい女神どもがあなたの腕や足に縋りつき耳も腐り落ちそうな愛の言葉を囁いていて、わたしは近づこうにも近づけなかったのです。よく100年の間、あれに耐えて無事でいてくれましたね!愛しきわたしのエストワール!ですがそれも今宵で終わりです。あなたはもうあんなものに耐えなくても良いのです。」


 ぎりぎり、と短剣の切っ先が遂にエストワールの力を押し退けて、彼の肩甲骨の隙間へと突き刺さった。

 エストワールは苦鳴をあげて、それでもエリドラから耳も眼も逸らすことなく、彼女の言葉を聞き続けました。

 数多くの困難を乗り越えたエストワールには、それだけの勇敢さがあったからだ。


「さぁ、旅立ちましょうエストワール!肉体を捨てて魂だけになってしまえば、どんな神にもわたしたちの邪魔は出来ません。あなたの肉体を殺したあとにわたしもすぐに旅立ちましょう!ただ2人だけになって、ひとつになりましょう!」


 あとひと息、短剣の先がエストワールの身体へと潜りこまんとしたその時、エリドラから武器を奪い去る者がいた。


「そこまでだエリドラ、おまえの恋は成就させないぞ」


 その者はアルスティとエリドラの兄、才能の神アーノルドだった。

 彼は鷹へと変身し、上空からその嘴で素早くクラックリネンスの短剣を捥ぎ取ったのだ。

 そこに彼の助けを借りて花園へと辿り着いたジアステスを筆頭とする戦いを得意とする神々が殺到し、エリドラをエストワールを引き剥がし打ちのめした。

 それでもエリドラはただエストワールだけを見つめ、血を吐きながら愛を叫びつづけた。


「嗚呼、愛しているのです!エストワール!あなたの全てを愛しているのですエストワール!あなた以外の世界がいらないほどに!!!」


……こうして、エリドラが引き起こした騒動は終わりを告げた。

多くの神が傷つき、さらには世界に幾つかの影を落とす災厄を引き起こしてエリドラの狂える愛は終わった。

神のほとんどがエリドラを理解出来ず、神界からの追放を望んだが、アルスティとアーノルドをはじめとする肉親たち、正気であったころのエリドラに助けられた神々、他ならぬ命を奪われかけたエストワールの嘆願によりエリドラは神として生きることを許された。

その代償にエリドラは知識の女神から地位を落とされ沈黙の女神へと姿を変えられ、永久に暗闇のなかで静寂を管理する仕事を任されることとなった。

さらには体中に重い鎖を巻かれ他の神々に近づけぬように星空に吊るされることとなった。

今も沈黙の女神エリドラは星空に吊るされながら、じっと世界を見守っているのだ。

その心を誰にも明かさぬまま。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



……これがかつては知識の女神、現在は沈黙の女神エリドラの顛末だ。

その後のエストワール教の神話にはエリドラの存在は現れず、いないもののように扱われている。

だがエストワール記の英雄譚から派生した民間伝承のいくつかでは主人公の敵たる荒くれ者や悪漢が夜の空を見上げると、瞬く星の間に黒い女性が現れて重要な啓示を授けるという場面が共通して存在する。

神々から巧みに逃げ続けたエリドラは、盗賊や悪の道に進むものの逃げ道や悪巧みなどを授ける悪魔として機能しているのだ。

この民間伝承の中でのエリドラを思わせ逸話が元となり、ドラコニア帝国記1507年の10回目の国立記念日には新鋭の教会作家の手によって『神人エストワールと神々たち』の教会画に、エストワールとその友人の神々から遠く離れた天井の隅にこっそりと覗きみる黒衣の女性の姿が追加されることとなった。

だがそれはあまり歓迎されることなく、エストワールを熱狂的に信奉する集団によって顔の部分を削り取られ何者でもない無貌の女神と化している。

もっともそんなことがなくともこの「エリドラの乱心」以外に彼女を中心に据えた物語も存在せず、今のようにエリドラがほとんどの人間に知られることのない存在になるのは当然の結果といえるだろう。

――しかし、ひとつだけ気がかりな噂が……いや、秘せられた事実が存在する。


それはエリドラを信奉する闇の教団のことだ。

物語の中で多くの悪漢を助けたエリドラを、盗みに入る前の盗賊が空を眺めて祈りを捧げるよりずっと深く、何度も祈りを捧げてきた真のエリドラの信奉者たちだ。

彼らは古くから存在し、密かに歴史の舞台裏の中で暗躍し続けてきたのだと云う。

何故今、大陸の測量が完了し、まだ見ぬ新世界を求めて各国が船出するこの大航海時代にその名前が現れたかというと、ごく最近二目と見れぬ姿となって発見された極悪非道の大盗賊“皆殺しのハキム”の亡骸の側から一本の短剣が回収されたことだ。

その鋭く磨かれた針のような短剣の柄にはエリドラを思わせる黒衣の女性が刻印されており、その短剣がハキムの命を奪いさったと判明したからだ。

ハキムは決してエストワールのように愛される人物ではない。

むしろ逆にエストワールを愛した神と同じくらいの人々に恨み死を望まれる人物だろう。

そのハキムの側からエリドラの短剣が発見された。

これは何を意味しているのか?


それはエリドラの信奉者たる彼ら教団がエストワールを求めて宴会場へと降り立ち、その首に短剣を振りかざしたのと同じように――

多くの人々から愛と同じくらい死を望まれていたハキムを暗殺したという意味ではなかろうか?


 沈黙の女神エリドラを信奉する暗殺教団。

 筆者はさらに彼らの正体を探るべく、ドラコニア帝国の新開拓国であるトリスティア共和国へと調査旅行に出かけることとする。

 読者である君たちは私の無事を祈りつつ……夜の戸締りをしっかりとして続報を待って欲しい。



(平民向け大衆誌ニュー・ドラコニア・ジャーナル第220号より抜粋)


(筆者アッサム・バークマンはこの記事の掲載後にシアラドマ・ポート港からトリスティア行き船舶券を買った日の夜から消息不明)


(しかし筆者はプライベートで金銭の諍いが絶えず、それ絡みの犯罪に巻き込まれた可能性が高く特別性はないものとする)



―――報告者:トリスティア王宮騎士団特別捜査課シャーロット・アルスティ・ボールドウィン




息抜きに書き始めることにしました。

成分表はアサクリ、闇の一党、必殺仕事人、王宮恋愛ものっぽい何か

あまり期待せずお待ちください。

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