梅の花立ち寄るばかりありしより
いろいろな形の友情が許せる方、推奨。
好意への執着が、友情すらも歪めている。
私はただ嘘を吐く。
私は君を騙し続ける。
***
放課後を知らせるチャイムが鳴り響き、私は荷物を持って急いで教室を飛び出した。その際にクラスメートからは「どうしたの」なんて声をかけられた。無視するわけにもいかないので「急ぎの用事!」と簡単に答えて手を振る。
まあそこまで急ぎの用事でもないけれど。何事もインパクトは大事だし、インパクトには多少の演出が大事だ。
見咎められない程度に廊下を駆け抜け、離れた教室まで一気に距離をつめる。チャイムはついさっき鳴ったばかり。流石にもう教室にいないなんて事はないと思うけど、これもまた演出、かな。
教室を覗き込めば、案の定ホームルームは終わっていた。人の流れを邪魔しないようにしながらきょろきょろと見回す。と、教室の奥にまだ残っている二人を見つけた。
「亜希!」
「っ、陽菜!?」
小さいほうの人影――小さいって本人に言うと凄く怒るけど。可愛いのに。――亜希はびっくりして振り向き、おろおろと視線を揺らした。ちらちらと隣の人影を見上げているから、用件は分かっているみたい。
「亜希ー?」
「……ひゃい……」
なんだか虐めている気分。亜希は普段は仏頂面でクールな感じだけど、本当は結構うかつで可愛い。ぱっと見は猫っぽいけど、実は犬というか。
私はびしっと隣の彼を指差し、腹筋に軽く力をこめた。演劇部底力。
「どーして平松くんと付き合ってるって教えてくれなかったのー!?」
「は、陽菜、声大きい……!」
俯いているから分かりにくいけど、亜希は顔を赤くしていた。隣の彼、平松くんも同様だ。慌てて手を振り回してボディランゲージ。うん、パニックに陥ると身体が動くよね。
「ちょっ、梅沢、お前……! ……秀也のやつ、バラしやがったな!」
「当たりー、情報源は梶浦くん。でもどっちにしろ、そう遠くないうちにバレていたと思うよ?」
二人とも意識しすぎで、分かり安すぎだ。クラスは違うけれど部活ではよくよく一緒になるんだし。隠し通せると思っていたのかな?
亜希は困ったように唇をきゅっと結んでいたが、おずおずと口を開いた。
「内緒にしてたわけじゃなくて、その、なかなか言い出せなくて。ごめんね……?」
怒られる? とびくびくする子犬みたいな眼差しで見つめられて、どうして怒れようか。まあ元から怒りにきたわけじゃないけど。よしよし、と亜希の頭を撫でてやると、ますます彼女は俯いてしまった。それには、気付かないふりをする。
「亜希の口から聞きたかったってだけだよ。親友、でしょ?」
「う、ん」
ぎこちなく、しかし懸命に返された肯定にほっと息をつく。が、コレだけでは終わらないぞ。
「で、どこまで進んだの」
「……え」
愕然として亜希が硬直する。その後、頬が赤くなり視線がすう、と横へ逃げた。これは、もう……キスとかしちゃっていると!
「平松くん、ちゃんと清い交際してるっ? 亜希は私の親友なんだから、飽きたらポイとか絶対しないでよっ」
「し、しねーよそんな事!」
やましいところがないだろうのに焦ってしまう彼は、なんていうか素直だ。馬鹿正直とも言うかな。付き合っているんだから堂々としていれば誤解も招かれないのに。
面白いから本人には言わないけど。
しどろもどろになりながら弁明を始める平松くんに、笑顔で指を突きつける。
「もう、亜希を悲しませたら絶対、許さないからね!」
ああ、どの口がそんな事言うのだか。
私の親友を、佐倉亜希を誰より悲しませているのは、他でもない私だろうに。
***
他人に嫌われるのが嫌だった。
誰だって他人に好ましく見られたい。嫌悪よりも好意を向けられたい。私はその欲望が、ただほんの少し人よりも強いんだろう。嫌われることに対して、酷く脆く弱いんだろう。
それは難しいことだったけれど、私はずっとそれを続けてきた。どの陣営に属しているというのでもない曖昧な態度、けれど独りぼっちにはならないように慎重に見極めて。私にとって友達とは、油断も隙もない存在だった。ほんの数秒前まで笑顔で笑い会っていた人の陰口を囁きあう彼らに、どうやって心を許すことが出来たのだろう。
いや、彼らを責めることなんて私には出来ない。私はとても卑怯な事をしているのだから。幼馴染も、友達も、クラスメートも、先生も、親も、親戚の人も、近所の人も。周囲の人々全てを騙している。人の好い顔をしてニコニコと笑って波風立てず、誰にも本当の顔なんて見せていない。
私は、最低の嘘吐きだ。
亜希とは中学のときに出会った。いつも通りに友達の友達、くらいの紹介で対面し、特に避けることもベタベタすることもない、ごく普通の友達だった。本当に、私にとってその頃の亜希は大勢の友達の中の一人に過ぎなかったのだ。
それが変わったのは、二年生の秋だった。日付だって思い出せるくらいに、私はそれのことを鮮明に覚えている。いや、懸命に覚えて痛いだけなのかもしれないけど。
そのときの私は酷く疲れていた。友達同士の仲たがい、私を板ばさみにしての喧嘩。どちらも私にとっては同じように大切な友達で……つまりは平等でどちらでも良いと言ってしまえる友達だった。理由は覚えていない、ただくだらないことで私を挟んで喧嘩していた。私は曖昧な笑顔を浮かべて二人の愚痴を聞き、毒にも薬にもならない言葉をかけるだけ。
だって私にとって大切なのは、嫌われないことなのだから。
亜希が私に話しかけてきたのは、私がどうしようもなく落ち込んでいる時だった。なんだかんだと言葉をこねくり回しても、私は友達二人の喧嘩も止められないということが結構ショックだったのだ。どちらかに味方なんてできない、じゃあどうすれば解決するのだろう? そもそもパーフェクトな正答なんてあるんだろうか。
亜希は困ったように笑いながら、疲れているみたいだから、どうしたのかと思って、と切り出した。亜希があまり関わっている人たちではなかったけれど、なんとなく察してはいたんだろう。愚痴とかなら聞けるよ、と静かに彼女は言った。
私はとても疲れていた。だから私が亜希に何いろいろなことをぶちまけたのは、本当にただ疲れていたからで、そこには何の意図も含まれて居なかっただろう。しいて言うとするならば、私は彼女を蔑んでいた。私以外に友達が居ないのだから、私から離れていくはずがない、と。
悪口や陰口も平気で言うの。自分のことばかり愚痴って、喋って、馬鹿みたい。私の気持ちも考えないで。私がどれだけ神経すり減らして二人と話していると思ってるの。その上私に同意まで求めてきて。どうして仲良く出来ないの。どうして我慢できないの。どうして。
気付けば、そこに居るのは醜悪な一人の女だった。そう、私も彼らと何も変わらない。自分のことしか考えない馬鹿だ。
好かれるわけがない。こんな自分を好きになるわけがない。だから。だから私は嫌われないように必死になったのだ。
そして、
「私じゃ、だめかな」
耳を疑った。上ずりながらも懸命に話す声に、ただ現実を夢のようだと感じた。それぐらい、声にこめられた思いに信じられないと感じたのだ。
「私は、何があっても陽菜の味方でいる。絶対、嫌いにならない。私が仲良くするのじゃ、だめかな」
ひとつ、ひとつ。丁寧に言葉を選んで、亜希はぎこちなく微笑んだ。いろいろな伝えたいことを全部飲み込んで、ただ私に自分の真摯な気持ちを伝えようと必死に。
そのとき私は、自惚れのように直感した。
佐倉亜希は、私に恋をしているのだと。
***
それから私たちは親友になった。
そして私は、何も応えなかった。
亜希は好きだとすら伝えず、ただ限りない好意だけを示した。だから私は気付かないふりをして、その快感に身を任せたのだ。
絶対に裏切らない、絶対に嫌わない、絶対的な存在。彼女さえ居れば私は、私は孤独にならずにすむ。嫌われたくない私にとって、佐倉亜希は絶好の存在なのだ。
なにせ彼女は告白すらしていない。女同士だからなのか、はたまた別の理由でもあるのかは分からない。けれど彼女が行動に移さずにいる限り、私は彼女の好意にぬるま湯のように浸かっていられる。曖昧でいつ終わるとも知れないけれど、感情だけははっきりと確かな優しい関係に居座っていられる。
優しい。確かに亜希は私に優しかった。何かあれば真っ先に私をかばい、傷つかないように守ろうとしてくれた。矢面に立って、友達付き合いの波風から私を遠ざけた。
ぬるま湯のように暖かく、庇護するように優しく、そして私に易しい関係。そう、彼女は私に何一つ求めない。だから私は親友に簡単な友情を、言葉や態度を示すだけでよかった。なんてお手軽で、素晴らしい好意だろうか。
利用している、という事実に苛まれることもある。彼女の純粋な想いを汚して、冒涜しているのだとも。けれど私がそれを表情に出せば、亜希は優しく私を包み込むのだ。
どうしたの、なにかあったの?
大丈夫、私は陽菜を絶対に嫌いになんてならないから。
優しく易しく、亜希は何も知らないままに私を許してしまう。私は亜希の気持ちを知っていることも、それを利用していることも、まともな友人関係なんて築けない人間であることも。私が彼女に何か秘密を抱えているということを察して入るだろうに、亜希はそれを追及しない。知っていることも知らないことも、全てを気にせず、大丈夫、と笑顔を向けてくれる。
亜希は私の罪であると同時に、免罪符だった。
その関係は私がなんらかのアクションを取ってようやく揺らぐものだと思っていた。亜希は私のことが本当に本当に好きなのだから。溺れるように愛しているのだから。
そして同時に、亜希を好きになる人なんて現れるわけがないと思っても居た。可愛くない、というわけではない。ただ私に尽くす余りに、周囲の人などどうでも良いと思っているのだろう、亜希は好意的な感情を持たれることは少なかった。
私はやはり、どこかで彼女を見下していたのかもしれない。私に尽くすだけの都合のいい存在、親友という名の免罪符。だからその出来事は余りに私には衝撃的だった。
佐倉亜希に、恋人が出来た。
***
放課後、亜希を捕獲した私はファーストフード店に寄り道して、楽しく愉快な尋問としゃれ込んだ。正面に座った亜希は青くなりたいのか赤くなりたいのか、微妙な顔色をしている。私はコップを置いてにっこりと笑みを浮かべた。
「それで、平松くんとはどうなの? キスはしたみたいだけど」
「き、決め付けるなよ! いや、まあ……否定は出来ないけど……」
顔を赤くして、ごにょごにょと言葉が尻すぼみになる。困ったように視線をそらす姿は、まさしく恋する乙女だ。少女マンガみたい、といったらたぶん怒るから言わないけど。
否定は出来ないけど、なんて。適当にごまかせば突っ込んで聞くこともないのに。変に正直なところは平松くんとよく似ている。ある意味、お似合いなのかもしれないな。
「ふうーん、なるほど……まさか、流石にエッチなことはしてないよね? 高校生としての清いお付き合いだよね?」
キスをしておいて清いお付き合い、というのも変な感じがするけれど。亜希はなんていうか、押しに弱いところがある気がするからなぁ、ちょっと心配。平松くんは草食系っぽかったけど、男は皆狼なんだから油断ならない。
亜希は少し首をかしげ、つつぅ、と視線を逸らした。何か言い辛いことや隠し事があるときの亜希は、すごく分かりやすい。
「亜希……っ、お母さんはそんなはしたない子に育てた覚えはありません!」
「育てられた覚えもないし、お母さんでもないしっ! え、えっちなことは……そんなにはしてないっ」
やっぱ微妙に正直だなあ。
うん、馬鹿な子ほど可愛い。
ポテトを摘まみ、わざとらしくため息をついてみせる。と、亜希はますます縮こまって、ちらちらと子犬のように私に視線をやる。うーん、ちょっとサディスティックな嗜好に目覚めそう。
「なんか、亜希がそういうことするなんてすっごく意外。潔癖症っぽいのに」
「そう?」
「っていうか、貞操とかきっちりしてそう、かな。無理やりコトに及ぼうとしたら凄い暴れて逃げそうなのに」
「は、陽菜、コトに及ぶとか……ここ、公の場なんだから」
「おっと失敬」
ついうっかり。亜希と居るときは変に猫かぶりしなくて良いので、どうも気が緩んでしまう。亜希は私以外に第三者の混じる場が苦手なので、大抵お喋りしたり遊んだりというのは二人きりが多い。その所為か、亜希と話すと化けの皮が剥がれてしまうのだ。
尤も、皮が剥がれるのは亜希のほうも同じだけれど。
私と話すときだけみるからにテンションが上がり、声のトーンですらちょっと変わる。猫を被っているわけではないと思うのだけれど、とにかくご機嫌になってしまうようだ。やっぱ犬っぽい。
「まあ、これ以上は聞かないけどさ。雰囲気に流されたりとかせずに、高校生らしいお付き合いしなきゃダメだよ?」
「分かってるよ。第一、平松ってあんまりガツガツしてないし……」
……鈍感だなー。部活中でジャージ姿の亜希とか目で追ってるの、気付いてないんだ。その後でぱっと目を逸らしてるから、特に注意はしてないけど。亜希は大雑把だから結構きわどく無防備なときとかあるのに。いつか襲われちゃいそうだ。
「まあ、それなりにやってるよ」
「そっか。平松くんは優しそうだし、良い人っぽいし良かった」
私の親友の彼氏になるんだから、それなりの人じゃないと。なんて付け加えて笑顔を浮かべてみせる。亜希の目が曇り、何かを我慢するように唇に力が入った。
そして私は彼女に
「亜希は、平松くんのこと、好き?」
残酷な質問を、投げかける。
かしゃり、とコップの中の氷が崩れる音が響いた。結露が滴り落ち、紙のナプキンの色を変え染みこんだ。店内の雑踏がどこか遠く離れた場所のように感じた。時間が音で引き延ばされる。
「……好き、だよ」
その顔は羞恥で赤く染められてなどいなかった。むしろ絶望するように血の気が引いていた。口に出した言葉が幻聴だったと思えるほど、無理やりに上げられた口角が惨めに歪んでいた。
泣き出しそうに笑う彼女に、私はとびきり明るい声色で返した。
「そう、良かった」
祝福。端から見ればそれ以外の何ものでもないだろう会話。だけどこれは、とてもとても残酷な言葉だ。
好きな人からの祝福なんて、拷問にしかならないだろう。だから亜希は、私に平松くんとの関係を打ち明けたくなかったのだ。私の性格であれば手放しで祝福するだろうことは容易に想像が付く。そして私は、その通りにした。
「亜希、クラスであんまり友達いないから心配してたんだよ。平松くんが傍に居るなら、大丈夫そうだね」
私のことを好きでなくなったのか、なんて無粋な質問を投げかけなくとも、彼女がまだ私を想い続けていることは分かった。私に向ける目が、声が、表情が、愛してると叫ぶかのように苦しんでいる。
「ほら、平松くんって凄く社交的でしょ? 亜希もちょっとは見習わなきゃダメだよ」
その気持ちを偽ってでも、亜希は平松くんと付き合った。それはきっと現実逃避だ。
私を好きに想う気持ちを忘れようと、目を逸らすことに必死になって平松くんに飛びついた。そんなところだろう。周囲から逸脱した気持ちを抱えて、高校生活の中でそれは酷く重たかっただけ。これから先の長い時間の中で、その気持ちを抱えたまま歩く過酷さに気付いただけ。
だから私は、賭けをする。
「良かったね、亜希」
亜希は私にとってこの上なく便利な存在で、同時に大切な親友なのだ。私の脆弱な自我を守るために傍においておきたいと願う傍ら、私から解放されて欲しいとも願っている。
この爛れた関係を振り切って、前を見据えて歩く。それはとても辛いけれど、喜ばしいことだ。喜ばなければいけないことだ。それを望まないなんてあってはいけない。だから。
私から、離れていけるように。私はこのままずっと気付かないふりをする。いつか決定的な言葉で私を振り払うそのときまで。
君がこの関係を壊すときを、私は黙って待っている。
***
好意への執着が、友情すらも歪めている。それはとても安らかな堕落。
その堕落に浸っていたくて、私はただ嘘を吐く。
私を愛する君が私を振り払うときまで、私は君を騙し続ける。
梅の花立ち寄るばかりありしより 人の咎むる香にぞ染みぬる(詠み人知らず)
梅の花の所に、ほんの立ち寄るばかりに居ただけで、人が(これはおかしい、と)気に留めるくらい花の香りが染みてしまった。