第36話(最終話) エピローグ
魔王討伐から、3年が過ぎた。
世界は、吐き気を催すほど平和になっていた。
争いはなくなり、魔物は保護対象となり、勇者と魔王の物語は教科書の中の伝説となった。
人々は笑顔で挨拶し、譲り合い、明日への希望に満ち溢れている。
まさに、地獄のような「天国」だ。
***
王都の片隅。
古びたレンガ造りの建物の二階に、その「事務所」はあった。
『カデン悩み相談所 ~魔王から猫探しまで~』
看板は傾き、ドアノブは壊れかけている。
そして、朝から近所迷惑な怒号が響き渡っていた。
「起きろボケェェェェ!! いつまで寝とんじゃ!!」
ドゴォォォォン!!
壁を突き破るような衝撃音と共に、銀髪の美女が寝室に乱入してきた。
手にはフライパン。エプロン姿だが、その形相は鬼神の如し。
「ぶべらっ!?」
ベッドで惰眠を貪っていた青年――カデン・チヒロは、布団ごと蹴り飛ばされて床に転がった。
「い、痛い……! おはようのキスはないんですか!?」
「あるわけないやろ! これがウチ流の『目覚まし(キック)』や!」
シルフィがフライパンを振り上げる。
朝日を背負った彼女は、宝石のような碧眼をギラギラと輝かせていた。
『ピコン!』
> [ 検知:理不尽な暴力 ]
> [ バッテリー急速充電……100%……120% ]
> [ 本日の体調:絶好調 ]
「あぁ……目が覚めた。血液が沸騰するようだ」
僕は床に這いつくばりながら、至福の吐息を漏らした。
平和すぎてストレスゼロのこの世界で、僕がこうして生きながらえているのは、ひとえに彼女のこの「DV(愛)」のおかげである。
「ほら、早よ着替えろ! 今日は依頼が入っとるんやぞ!」
「依頼? どうせまた『猫が木から降りられない』とかですか?」
「ちゃうわ! 『夫婦喧嘩の仲裁』や!」
「……僕たちにそれを頼むなんて、その夫婦も相当終わってますね」
僕は苦笑しながら立ち上がり、パジャマの埃を払った。
***
僕たちは、街を歩いていた。
かつて「変態」と呼ばれた男と、「狂犬」と呼ばれたエルフ。
今では、この街の名物「バカップル」として認知されている。
「おい見ろよ、あそこの二人」
「また喧嘩してる……」
「仲が良いわねぇ」
すれ違う人々が、微笑ましそうに(あるいは呆れて)僕たちを見る。
「なんでや! なんで仲が良いって言われるねん!
ウチは本気でコイツをシメとるんやぞ!」
シルフィが顔を真っ赤にして怒鳴る。
「諦めてください、シルフィさん。
あなたが僕を殴れば殴るほど、僕の顔色が良くなるのを、みんな知ってるんです」
「チッ……気色悪い体質やな!」
彼女は悪態をつきながらも、歩くペースを僕に合わせてくれている。
そして、誰も見ていない隙に、そっと僕の指に自分の小指を絡めてくる。
「……手、冷たいで」
「ええ。あなたの罵倒が足りないんじゃないですか?」
「……アホ」
彼女が指に力を込める。
痛い。爪が食い込んでいる。
でも、その痛みが「ここにいていいんだ」という許可証のように感じられる。
かつて僕は、幸福を毒だと思っていた。
安らぎを死だと思っていた。
でも、今は違う。
隣にこの騒がしい「嵐」がいる限り、僕の安らぎは破壊され続け、平穏は乱され続ける。
この「終わらない日常」こそが、僕にとっての最適な環境なのだ。
「なぁ、カデン」
不意に、シルフィが立ち止まった。
「ん? どうしました?」
「……お前、今、幸せか?」
彼女は僕を見上げ、少し不安そうに眉を寄せた。
3年前、僕が「幸せすぎて死にかけた」ことが、まだトラウマになっているらしい。
僕は、彼女の碧眼をまっすぐに見つめ返した。
そして、心からの本音を告げた。
「いいえ。最悪ですよ」
僕はニヤリと笑った。
「毎日殴られるし、罵倒されるし、こき使われるし。
心臓は休まらないし、命の危険を感じる毎日です。
……本当に、最低で最悪な気分です」
それを聞いたシルフィは、一瞬きょとんとし、
次の瞬間、太陽のように晴れやかに笑った。
「そか! ざまあみろや!」
「ええ。だから……」
僕は彼女の小指を握り返した。
「明日も、明後日も、その先もずっと。
僕を最悪な気分にさせてくださいね、パートナー」
「任しとき! 一生、地獄を見せたるわ!」
シルフィが僕の背中をバン!と叩く。
肺の中の空気が全部出るほどの衝撃。
『ピコン』
> [ ダメージ検知:愛の鞭 ]
> [ バッテリー残量:∞(インフィニティ) ]
僕たちは再び歩き出した。
どこまでも続く、青すぎる空の下へ。
平和という名の絶望と、愛という名の恐怖を抱きしめて。
僕の人生は、ここで一旦幕を閉じる。
でも、システムログはまだ続いているようだ。
視界の端に、最後のメッセージが点滅していた。
[ System Log ]
[ プレイヤー名:カデン・チヒロ ]
[ 状態:生存(活動中) ]
[ ステータス:呪い(共依存)によりログアウト不可 ]
[ 警告:この地獄は永遠に続きます(推奨:末永く爆発しろ) ]
(完)




