第35話 共犯者たちの契約更新
プツン。
意識が途切れた。
暗転。
(ああ……終わった)
僕は暗闇の中で、安堵していた。
もう苦しくない。透けていく恐怖もない。
このまま宇宙の塵になって、次の人生では「石ころ」か「プランクトン」にでも生まれ変わろう。
感情のない、ただ存在するだけの物質に。
『ログアウト処理完了……』
『キャラクターデータを削除します……』
システムが事務的に僕を片付けようとする。
さようなら、シルフィ。
さようなら、最悪で最高の世界。
だが。
「――ふざけんなボケェェェェ!!!!」
暗闇を引き裂くような、鼓膜をつんざく絶叫が響いた。
『!?』
『システムエラー:外部からの強力な干渉』
(な、なんだ……?)
「逃げるな! 勝ち逃げなんか絶対に許さへんぞ!!」
シルフィの声だ。
泣いているのか? 怒っているのか?
いや、その両方だ。
悲しみと激昂が入り混じった、混沌とした感情の濁流が、消えかけた僕の魂を鷲掴みにした。
***
【現実世界】
丘の上。
カデンの姿は、もう光の粒となって空へ霧散しようとしていた。
「行くな……! 戻れ!!」
シルフィは、空を舞う光の粒子を、狂ったように手で掻き集めていた。
掴めない。
物理的な肉体はもうない。
それでも彼女は、虚空に向かって爪を立て、牙を剥いて吠えた。
「誰が死んでええ言うた!? ウチは許可してへんぞ!」
彼女の碧眼から、大粒の涙が溢れ出る。
それは美しい別れの涙ではない。
自分の「所有物」を奪われまいとする、強欲で、理不尽で、圧倒的なエゴの塊。
「お前はウチのサンドバッグやろ!?
ウチが『もうええ』って言うまで、勝手に壊れる権利なんかあるわけないやろ!!」
彼女は叫びながら、カデンが最後に座っていたベンチを蹴り飛ばした。
「一生、ウチのストレス発散に付き合うんや!
死ぬまで……いや、死んでもウチの機嫌を取れ!
この役立たず! ヘタレ! 根性なし!!」
罵倒。
最上級の暴言。
平和な世界には似つかわしくない、汚く、乱暴な言葉の数々。
だが、それこそが――。
『ピコン……』
『ピコン!』
消滅しかけていたシステムが、微かに反応した。
> [ 検知:対象からの『強烈な殺意』……? ]
> [ 解析:いいえ、これは『束縛』です ]
> [ 追加解析:『執着』『独占欲』『依存』…… ]
システムが混乱している。
平和な世界で、これほどまでに「負の感情(に見えるもの)」を放つ存在はバグでしかない。
しかし、システムは一つの結論(解)に達した。
> [ 結論:対象は、プレイヤー(カデン)を『永遠に脅かし続ける存在』である ]
> [ 予測:プレイヤーが復活した場合、未来永劫、この『恐怖』は供給され続ける ]
もし彼が死ねば、恐怖は終わる。
だが、彼が生き返れば、この理不尽な女による「地獄」は無限に続く。
『ピコン!!!!!』
> [ 判定:バッテリー供給源として『最適』と認定 ]
> [ 緊急再起動を実行します ]
> [ 燃料カテゴリー変更:『恐怖』→『共依存』 ]
バチチチチッ!!
空へ消えかけていた光の粒子が、逆再生のように収束を始めた。
「……え?」
シルフィが動きを止める。
目の前の光が渦を巻き、人型を形成していく。
足ができ、胴体ができ、そして――あの憎たらしいほど情けない顔が、実体を持って再構築される。
「……う、うぅ……」
光の中から、呻き声が聞こえた。
「……眩しい……。あと、うるさい……」
カデン・チヒロが、頭を押さえながらベンチに座り直した。
透けていない。
確かな質量と、血色の悪さを持って、そこにいる。
「……カデン?」
シルフィが震える手で、彼の頬に触れた。
ぺちん。
「いっ」
痛い。音がした。肌の感触がある。
「……生き返った……?」
「生き返ったというか……なんか、地獄の釜の底から引きずり戻された気分です」
僕はため息をついた。
せっかく涅槃に行けそうだったのに。
天国への階段を登っていたら、下から「降りてこいボケェ!」と鎖で足を引っ張られた感覚だ。
「あなたが、あんなに大声で罵倒するから……。
システムが『こいつはまだ恐怖として使える』って判断しちゃったじゃないですか」
僕は恨めしそうに彼女を見た。
「どうしてくれるんですか。
これじゃあ僕、死ぬに死ねない――」
ドゴッ!!!!
言い終わる前に、強烈な右ストレートが僕の頬にめり込んだ。
「ぶべらっ!?」
僕はベンチから転げ落ち、地面にキスをした。
激痛。
歯が一本くらい折れたかもしれない。
星が飛ぶ。
「……い、痛ぇぇぇぇ!!」
僕は涙目で叫んだ。
さっきまでの透けていた体が嘘のように、痛覚が鮮明に仕事をしている。
「……本物や」
シルフィが、拳を握りしめたまま、ボロボロと涙を流して笑っていた。
「殴れる……。触れる……。
痛がっとる……」
「当たり前ですよ! 全力で殴る人がいますか!」
「うるさいわ! これがウチの『愛の挨拶』や!」
シルフィが僕の胸ぐらを掴んで引き起こす。
その顔は、泣き顔なのか、笑顔なのか、怒り顔なのか分からないほどグシャグシャで。
でも、世界で一番「生き生き」としていた。
『ピコン』
> [ 現在のバッテリー残量:∞(インフィニティ) ]
> [ 状態:永久機関モード ]
僕の視界に、絶望的なステータスが表示される。
「∞」。
つまり、彼女がそばにいる限り、僕は二度とバッテリー切れを起こさない。
その代わり、永遠にこの恐怖とストレスに晒され続けるわけだ。
「……ははっ。どうやら、契約更新みたいですね」
僕は土埃を払いながら、観念して笑った。
「更新どころやないで」
シルフィが僕のネクタイ(パジャマの襟)をグイと引っ張り、顔を近づけた。
その碧眼が、肉食獣のように鋭く光る。
「終身刑やと思え。
お前がウチに支払う『慰謝料』は、一生かけても払い切れへんからな」
「……鬼ですね」
「悪魔や」
彼女はニヤリと笑うと、僕の唇に――キスをするのではなく、頭突きをする勢いで額を押し付けた。
「覚悟しとけよ、カデン。
平和な世界やけど、お前の周りだけは、毎日が戦場や」
「……望むところです、ご主人様」
こうして、感動の別れは台無しになった。
僕の体は呪いによってつなぎ止められ、僕たちの歪な関係は、死が二人を分かつまで……いや、死んでもなお続く「共犯関係」として再定義されたのだ。
空には満月。
平和になった世界で、僕たちの騒がしい夜だけが、いつまでも続いていた。
(続く)




