第33話 平和という名の絶望
「カデン……! しっかりしろ! なんで消えそうになっとんねん!」
シルフィが僕の肩を揺さぶる。
だが、その手応えは頼りなく、僕の体はまるで陽炎のように揺らめいていた。
「あはは……。どうやら『ハッピーエンド』アレルギーみたいですね」
僕は自分の掌を見つめた。
向こう側が透けて見える。
血管の青さも、皮膚の汚れも消え、ただ綺麗な光の粒子になりかけている。
『ピコン』
> [ シナリオ完了:真の平和 ]
> [ 世界ストレス値:0.00%(完全浄化) ]
> [ プレイヤー状態:幸福度過多 ]
魔王がいなくなった。
その事実が、世界中の大気から「不安」という不純物を一掃してしまったのだ。
今のこの世界は、僕にとっては「酸素濃度100%の部屋」と同じ。吸い込むだけで肺が焼け、細胞が死滅する。
「……帰るぞ。一旦、街に戻るんや。
美味いもん食って、寝たら治るかもしれん!」
シルフィが強引に僕の手を引き、魔王城を出た。
だが、外の世界はもっと酷かった。
***
「うっ、ぐぁぁ……」
魔王城の外に出た瞬間、僕は膝をついて嘔吐した。
胃液は出ない。代わりにキラキラした光の粉が口から溢れる。
空が、青すぎる。
雲ひとつない快晴。
そよ風が頬を撫で、どこからともなく小鳥のさえずりが聞こえる。
硫黄の臭いは消え、代わりに花の甘ったるい香りが充満している。
「……気持ち悪い。吐き気がする」
「綺麗な空やんか! 何がアカンねん!」
「綺麗すぎるんですよ……!
もっとこう、澱んだ雲とか、酸性雨とかないんですか!?」
僕は絶望した。
魔大陸ですらこの有様だ。
世界中が「魔王討伐」の気配を察知し、歓喜に震えている。そのポジティブな波動が、僕の存在を削り取っていく。
『ピコン』
> [ 警告:幸福による存在維持限界まで ]
> [ カウントダウン開始:あと23時間59分 ]
「……あと、一日か」
システムが冷酷な余命宣告をした。
あと24時間、この「平和」に晒され続ければ、僕は完全に浄化されて消滅する。
「なんやそれ……。あと一日って……」
シルフィが顔面蒼白になる。
「嘘やろ? 魔王倒して、世界救って……それで終わりなんか?
褒美も、凱旋パレードもなしで……ただ消えるんか?」
「……それが、僕の『役目(設定)』だったんでしょうね」
僕は諦めの境地で笑った。
汚れ役は、舞台が綺麗になったら退場するしかない。
ゴミ掃除が終わったら、掃除機の中のゴミも捨てられる。当然の理屈だ。
「ふざけんな!」
ドガッ!!
シルフィが近くの岩を蹴り飛ばした。
「そんなん認めへん!
ストレスが必要なんやろ!? 恐怖があればええんやろ!?
ほら、見ろ! 怖い顔したるから!」
彼女は必死に眉を寄せ、牙を剥き出しにして「ガウッ!」と威嚇してみせた。
「……」
「どや! 怖いやろ! ビビれや!」
「……ぷっ」
僕は吹き出してしまった。
怖いどころか、小動物が威張っているようにしか見えない。
可愛い。愛おしい。
胸がキュンとして、さらに体が透ける。
『ピコン』
> [ 幸福度上昇:パートナーの健気な行動 ]
> [ 余命短縮:残り23時間30分 ]
「ああっ!? 縮んだ! なんでやねん!」
シルフィが頭を抱えて叫ぶ。
「ダメですよ、シルフィさん。
今の世界じゃ、何をやっても『平和ボケ』のフィルターがかかる。
あなたの暴力も、今の僕には『愛の鞭』というご褒美にしか変換されない」
「……そんな」
彼女が膝から崩れ落ちる。
僕は透け始めた手で、彼女の銀髪を撫でた。
サラサラとした感触も、今は指先から伝わってこない。
「諦めましょう。
……でも、あと一日ある」
僕は空を見上げた。
憎たらしいほど美しい青空。
「最後に、やりたいことがあります」
「……なんや? バンジージャンプか? 激辛料理か?
なんでも付き合ったる。ウチが死ぬ気でビビらせたるから」
「いいえ」
僕は首を振った。
恐怖はもう、無理だ。この世界では供給されない。
なら、いっそ。
この身が消え去るその瞬間まで、毒(幸せ)を飲み干して死にたい。
「デートしましょう、シルフィさん」
「……は?」
「普通の、恋人同士みたいなデートです。
魔獣も、喧嘩も、罵倒もない。
ただの『カデン』と『シルフィ』として、最初で最後の思い出を作りたいんです」
シルフィが目を見開き、そして唇を噛み締めた。
その瞳に、涙が溜まっていく。
「……バカか、お前は」
彼女は涙を拭おうともせず、震える声で言った。
それは、僕が聞いた中で一番優しい罵倒だった。
「わかった。……付き合ったるわ。
その代わり、最高のデートにせえへんかったら、承知せえへんからな」
こうして。
僕たちの、最初で最後の「平和な一日」が始まった。
それは、僕の命を削るカウントダウンであり、
世界で一番残酷で、幸福な時間の始まりだった。
(続く)




