第28話 真空の玉座
ギギギギギギギ…………。
重厚な扉が悲鳴を上げて開く。
僕は覚悟を決めて、その中へと足を踏み入れた。
背中には、呼吸が浅くなった瀕死のシルフィ。
外には数千の魔物たちの殺意。
そして目の前には、世界を統べる恐怖の権化がいるはずだ。
「さあ、来い! 絶望をくれ!
僕を恐怖のどん底に突き落とし、その代償に彼女を助けろ!!」
僕は吠えた。
肺一杯に、ドス黒い瘴気を吸い込むつもりだった。
だが。
「…………」
無音。
そこには、何もなかった。
いや、空間はある。
広大な玉座の間。
しかし、そこだけ空気が切り取られたかのような「完全な静寂」が支配していた。
肌にまとわりつく湿気もない。
鼻をつく血や硫黄の臭いもしない。
あるのは、鼓膜の奥でキーンと鳴り続ける、不快な耳鳴りだけ。
まるで、真空パックされた無菌室に放り込まれたような、生理的な息苦しさ。
『ピコン……』
> [ 警告:環境データの読み込みに失敗 ]
> [ 判定:『無』 ]
> [ バッテリー残量:……変動なし ]
(な、なんだ……?)
殺気がない。敵意がない。
僕のシステムが、恐怖も幸福も検知できず、沈黙している。
それが逆に、毛穴が開くほど不気味だった。
「――よく来たね」
広い空間の中央。
階段の上に置かれた黒曜石の玉座から、声が降ってきた。
「哀れな被害者たちよ」
そこに座っていたのは、一人の男だった。
見上げるほどの巨躯でもなければ、怪物の姿でもない。
仕立ての良い黒いタキシードを着た、白髪の紳士。
だが、その姿を見た瞬間、僕の網膜にノイズが走った。
「う、ぐ……ッ!?」
目が痛い。
直視できない。
彼の左半身は、整った人間の姿をしている。
だが、右半身が存在しなかった。
血が流れているのではない。そこにあるはずの空間が、ザザッ……という荒い砂嵐のような「バグ」に侵食され、輪郭が崩壊しているのだ。
「……下がれ」
彼――魔王グランレオンが、軽く手を振った。
それだけで、背後の扉の外にいた数千の魔物たちの気配が、霧散した。
殺意の波動が消える。
ケルベロスも、ガーゴイルも、恐れをなして一瞬で逃げ去ったのだ。
(ま、待ってくれ! 行かないでくれ!)
僕のバッテリー源(殺意)が遠ざかっていく。
残されたのは、僕と瀕死のシルフィ。そして、この得体の知れない「バグった紳士」だけ。
「魔王……グランレオン……か?」
僕は震える声で問うた。
恐怖からではない。この状況への困惑と、彼から漂う「無機質な匂い」――オゾンと焦げた配線が混ざったような臭いへの嫌悪感からだ。
「そう呼ばれているね。システム上は」
魔王は穏やかに微笑んだ。
その笑顔には、悪意も善意もない。ただ、深く静かな「虚無」だけが張り付いている。
僕はシルフィを床に下ろし、膝をついた。
彼女の顔色は土気色で、今にも呼吸が止まりそうだ。
「頼む……! 取引をしてくれ!
あんたが世界を憎んでいるなら、僕が手伝う!
一生奴隷になったっていい! だから……この子の傷を治してくれ!」
僕は額を床に擦り付けた。
プライドなんてない。
彼女が助かるなら、悪魔に魂を売ることくらい、喜んでやる。
だが、魔王の反応は冷淡だった。
「治す? なぜだ?」
「……は?」
「彼女を治せば、また彼女は『戦い』に戻る。
傷つき、恐怖し、痛みに耐える日々が続く。
……それは本当に、彼女への『救い』なのかい?」
魔王は玉座から立ち上がり、ゆっくりと階段を降りてきた。
右半身のノイズが、床に触れるたびにジジジ……と空間を焦がす。
「そ、それは……生きるためなら……!」
「生きることは、苦痛だ」
彼が僕の目の前まで来る。
冷たい。
彼が近づくと、周囲の気温が下がるのではない。
「感情」という熱量が吸い取られていくような感覚。
「私は敵ではない。
君たちを、この終わらない『生の苦しみ』から解放するために待っていたんだ」
魔王が手を伸ばし、苦しむシルフィの頬に触れようとした。
「や、やめろ……!」
僕は咄嗟にシルフィを庇った。
直感したのだ。
こいつの言う「解放」は、回復魔法なんかじゃない。
もっと根源的な――存在そのものを消し去るような「何か」だと。
『ピコン』
> [ 検知:対象からの『純粋な慈悲』 ]
> [ 警告:敵意なし。害意なし。殺意なし。 ]
> [ バッテリー状態:……放電を開始します ]
「抵抗するのか。……哀れだね」
魔王は悲しげに目を細めた。
怒るわけでもなく、ただただ「可哀想な子供」を見るような目。
「君たちはまだ知らないだけだ。
この世界の真実を。
なぜ、君のような異物が呼び出され、なぜ彼女のような人間が傷つかねばならないのかを」
ザザッ……!!
魔王の右半身のノイズが激しく明滅した。
玉座の間全体が、不快な電子音で震える。
「教えてあげよう。
そして、君たちを『楽』にしてあげよう」
シルフィの傷は治らない。
痛みは続く。
だが、それ以上の「絶望的な安息」が、静かに僕たちの首を絞め始めていた。
(続く)




