第26話 涙の猛毒
吊り橋を渡りきったところで、僕の膝が折れた。
「ぐっ……はぁ、はぁ……!」
物理的な重さではない。
腕の中にいるシルフィの存在が、鉛のように重いのだ。
彼女は出血で体温を失い、震えている。
その弱々しい震えが僕に伝わるたび、僕の胸の中で制御不能な「庇護欲」が暴走する。
「……カデン……行かんといて……」
シルフィが、うわごとのように呟く。
彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは、いつも強気な彼女が初めて見せた、混じりけのない「弱さ」であり、僕への「全幅の信頼」の証だった。
『ピコン!!』
> [ 警告:高純度の『信頼』を被弾 ]
> [ 判定:この世で最も尊いもの ]
> [ 幸福度:限界突破 ]
> [ バッテリー残量:30%……10%……3%(システム崩壊寸前) ]
「が、あぁぁ……!!」
視界が白く染まる。
呼吸ができない。心臓が早鐘を打つどころか、あまりの尊さに停止しようとしている。
「や、やめろ……! 泣くな……!」
僕は彼女を地面に下ろそうとした。
離れなければならない。
このまま彼女の温もりに触れていたら、僕は間違いなく「幸せな死」を迎えてしまう。
「離れろ! 頼むから、離れてくれぇぇ!!」
僕は叫んだ。
生存本能が「拒絶しろ」と喚いている。
だが。
「……嫌や」
シルフィが、僕の服を握りしめた。
血に濡れた指で、決して離そうとしない。
「……一人にせんといて……怖いんや……」
彼女が僕の胸に顔を埋める。
その涙が、僕のパジャマに染み込んでいく。
ドクン。
「……くそっ……!」
離せない。
システムが警告音を鳴らし続けているのに、僕の腕は勝手に彼女を抱きしめ返していた。
「離れるな……! くそっ、離れるなよバカ野郎!!」
矛盾する叫び。
死にたくない。でも、この震える少女を突き放すくらいなら、死んだほうがマシだと思ってしまう。
なんだこれは。
これが「愛」なのか?
だとしたら、愛とはなんて理不尽で、苦しくて、致死的な猛毒なんだ!
『ピコン』
> [ バッテリー残量:1%……0.5%…… ]
> [ 警告:生命活動の維持が困難です。さようなら ]
(あ、終わった)
意識が遠のく。
手足の感覚が消える。
まるで温かいお湯に溶けていくような、穏やかな最期。
これでいい。
最後に彼女の温もりを感じて死ねるなら――。
「……カデン?」
不意に、シルフィの声が聞こえた。
彼女が顔を上げ、僕の顔を覗き込んでいる。
僕の顔は、死人のように真っ白で、口端からは泡を吹いていたかもしれない。
「お前……なんで……?」
彼女の碧眼が、状況を理解しようと揺らぐ。
怪我をしているのは自分だ。
なのに、なぜカデンの方が死にかけているのか。
なぜ、私がしがみついた瞬間に、こいつは苦しみ出したのか。
そして、彼女の脳裏に、これまでの記憶が走馬灯のように駆け巡った。
『罵倒されると元気になる』
『優しくされると吐血する』
『幸せな夢を見て発狂した』
『「優しくしないでくれ」と懇願した』
点と点が、線に繋がる。
「……そうか」
シルフィの瞳から、涙が止まった。
代わりに宿ったのは、いつもの強い光――いや、もっと深い、覚悟の光だった。
「お前は……そういう『体質(呪い)』なんやな」
彼女は理解した。
僕がただのドM変態なのではなく、「優しさ」そのものが刃となって突き刺さる、悲しきモンスターであることを。
「……ほんま、面倒くさい男やな」
シルフィが、ふらつく体で上半身を起こした。
そして、拳を握りしめた。
「……あ?」
薄れゆく意識の中で、僕は彼女の拳を見た。
「しゃきっとせんかい!! このボケナスがぁぁぁ!!」
ドゴォォォォォン!!
全力の頭突き。
石頭のエルフによる、慈悲なき一撃が僕の額に炸裂した。
「ぶべらっ!!?」
激痛。
頭蓋骨が軋む音。
そして、目の前に散る火花。
『ピコン!!!!』
> [ 衝撃を検知:理不尽な暴力 ]
> [ 判定:『これだよこれ!』 ]
> [ バッテリー急速充電……10%……50%……100%(復活)!! ]
「ッ、はぁぁぁぁぁっ!!?」
僕はガバッと起き上がった。
全身に力がみなぎる。
肺が酸素を貪り、心臓が力強く脈打つ。
生きている。痛い。最高だ!
「……い、痛ぇぇぇ!! 何するんですか怪我人が!!」
僕は涙目で額を押さえて抗議した。
「うるさいわ! お前が勝手に死にそうな顔するからやろ!」
シルフィが肩で息をしながら、ニヤリと笑った。
その顔色はまだ悪いが、瞳には生気が戻っている。
「……わかったわ、カデン」
彼女が僕の襟首を掴んで引き寄せた。
「お前には『優しさ』なんか要らんのやな。
涙も、感謝も、愛の言葉も……お前にとっては毒なんやな」
「……」
僕は何も言えなかった。
図星だ。そして、それを彼女に知られてしまった。
「ええよ。望み通りにしたる」
シルフィは、僕の耳元で、低くドスの利いた声で囁いた。
「死ぬまでこき使ったる。
一生、ウチの荷物持ち兼、サンドバッグとして生きろ。
拒否権なんかないと思えよ、ゴミ虫」
その言葉は、どんな愛の告白よりも僕の心臓を強く打ち鳴らした。
『ピコン』
> [ 判定:完璧な関係性 ]
> [ ステータス:安定 ]
「……はい! 喜んで、ご主人様!」
僕は満面の笑みで答えた。
額のタンコブがズキズキと痛む。
その痛みが、僕たちが「共犯者」として一線を越えた証だった。
「……ふん。キモい」
シルフィがふいと顔を背ける。
その耳が少しだけ赤くなっているのを、僕は見逃さなかった。
不器用な愛。
歪んだ絆。
けれど、これこそが僕たちが生き残るための、唯一の「最適解」なのだ。
僕たちは再び歩き出した。
目指すは、この歪んだ関係すらも肯定してくれそうな絶望の地――「魔王城」だ。
(続く)




