第22話 ドアの隙間
「はぁ、はぁ……! なんだ、今の……」
路地裏の暗がりで、僕は膝をついていた。
心臓の早鐘が止まらない。
レオへの対抗意識。シルフィを奪われたくないという焦燥。
それが「嫉妬」なのか「所有欲」なのか、システムさえも判定を放棄した謎の感情。
それが、僕の精神を異常発熱させている。
『ピコン……ザザッ……』
> [ 警告:現実世界との境界値(Ping)が不安定です ]
> [ 原因:対象への過度な同期 ]
「うるさい……! 黙れ!」
僕は頭を振った。
違う。これは恋じゃない。
ただの「不整脈」だ。
あのイケメンの整いすぎた顔面を見て、三半規管が狂っただけだ。
そう自分に言い聞かせ、呼吸を整えようとした時だった。
『ギ……ィ……』
頭上から。
「空気が擦れる」ような、不快な音が降ってきた。
錆びついた金属の蝶番が、重い木材を無理やり押し開ける音。
恐る恐る、見上げる。
王都の四角く切り取られた青空。
その真ん中に、亀裂のように「それ」は浮かんでいた。
半透明の「白いドア」。
安っぽい合板の、量産型のワンルーム用ドア。
隙間が、数センチだけ開いている。
「……あ、ガッ……」
喉が鳴った。
見るな。見れば引きずり込まれる。
だが、視線を逸らせない。
隙間の奥から、圧倒的な質量を持った「生活感」が、ヘドロのように流れ落ちてきた。
鼻腔を突き抜けたのは、埃の匂いだ。
何年も換気していない密室特有の、肺に絡みつくような澱んだ空気。
PCの排熱で温められたプラスチックの臭いと、飲みかけのまま放置されたコーヒーの酸化した酸味。
そして、布団に染み付いた古びた脂の臭いが、路地裏の生ゴミの臭いを完全に上書きしていく。
「……おぇッ」
強烈な吐き気。
胃袋が、この「懐かしい悪臭」を記憶しているせいで、拒絶反応と同時に、痙攣するように馴染んでしまう。
肌に、ザワリと鳥肌が立つ。
隙間から吹き下ろす風は、氷のように冷たく、そして異常に乾いていた。
設定温度を下げすぎたエアコンの人工的な冷気。
瞬き一つで眼球の水分が奪われ、喉の奥がカピカピに張り付く。
そして、鼓膜を犯す音。
『ブゥゥゥゥン…………』
低い、重低音。
冷蔵庫のコンプレッサーの唸りか。
それとも、起動しっぱなしのハードディスクの回転音か。
生物の気配が一切ない、電気仕掛けの静寂が、耳の奥で反響する。
(やめろ……。その音を聞かせるな……!)
あっち(現実)が、僕を呼んでいる。
「お前の居場所はここだろ?」と。
「暗くて、適温で、誰とも関わらなくていい箱が待ってるぞ」と。
「カデン? ここに居ったんか」
不意に、背後から声をかけられた。
シルフィだ。
彼女が心配そうな顔で、路地裏に入ってくる。
「お前、顔色めっちゃ悪いで。やっぱ病院行った方が……」
彼女が僕の肩に手を置く。
その掌の温もり。
生身の他人の体温。
「……あ」
その温もりが、僕の心臓をまた「ドクン」と跳ねさせた。
嬉しい。温かい。
この世界に繋ぎ止めてくれる、確かな「生」の実感。
だが、その「快感」こそが、引き金だった。
『ギギギギギギ……ッ!!』
頭上の音が大きくなる。
ドアの隙間が、さらに数センチ広がった。
そこから、ドロリとした「湿気」が溢れ出した。
深夜のネットサーフィン。意味のないスクロール。
誰とも繋がらないSNSのタイムラインを眺め続ける、あの虚無感と焦燥感が、見えない雨となって降り注ぐ。
『……ん、だ……通知……』
『……見ろ……』
隙間の奥から、声にならない幻聴が脳を撫でる。
カチ、カチ、というマウスのクリック音が、頭蓋骨の内側で鳴り響く。
「う、うわああああああ!!!」
僕は悲鳴を上げ、シルフィの手を振り払った。
「触るな! 寄るな! 伝染るぞ!!」
「はぁ!? 何訳わからんこと言うて……」
「俺は……俺はただの変態だ!
お前のことなんて何とも思ってない!
ただの便利な充電器としか見てないんだ! 勘違いするな!」
僕は必死に叫んだ。
シルフィを拒絶し、自分を卑下し、この胸に芽生えかけた「致死性の熱量(温かい感情)」を冷水で冷やすために。
「お前みたいなガサツで、暴力的で、貧乳なエルフ……誰が好きになるか!」
嘘だ。
本当は、その不器用な優しさに救われている。
でも、そう言わなきゃ、あの「ドア」が全開になって、僕を吸い込んでしまう!
「……っ」
シルフィの顔が強張る。
傷ついたような、信じられないものを見るような目。
ズキリ。胸が痛む。
ごめん。そんな顔をさせたいわけじゃないんだ。
だが、その「拒絶(痛み)」のおかげで。
『……ギィ……』
頭上のドアが、不満げな音を立てて閉じていく。
エアコンの冷気も、電子機器のハム音も、薄れていく。
『ピコン』
> [ 恐怖値を検知:自己嫌悪 ]
> [ 現実干渉レベル:低下 ]
> [ バッテリー残量:88%……機能回復 ]
(……止まった)
僕は膝に手をつき、荒い息を吐いた。
冷や汗が止まらない。
だが、異常加熱していた脳の回路が、急速に冷却されていくのがわかる。
不整脈が治まり、強張っていた肺が、ようやく酸素を取り込み始めた。
やはり、僕に「愛」は許されない。
誰かを大切に想った瞬間、現実は牙を剥く。
その「想い」を人質にして、僕を元の孤独な部屋へ引きずり戻そうとする。
「……そうかよ」
低く、冷たい声がした。
顔を上げると、シルフィが侮蔑(ゴミを見る目)の表情で僕を見下ろしていた。
「心配して損したわ。
一生、その薄汚い路地裏で一人で震えてろ、ボケ」
彼女は唾を吐き捨て、背を向けて去っていった。
その背中が、怒りに震えているのがわかる。
「……あぁ、ありがとうございます」
僕は震える声で礼を言った。
その罵倒が。その冷たさが。
今の僕にとっては、呼吸をするために必要な「酸素ボンベ」そのものだった。
見上げれば、王都の空はいつもの青色に戻っていた。
だが、僕は知ってしまった。
この空の薄皮一枚向こう側には、いつでも僕を飲み込もうと待ち構えている、あの「四畳半の深淵」があることを。
(続く)











