第18話 サキュバスの悪夢
目覚めは、小鳥のさえずりと、焼きたてのパンの香ばしい匂いだった。
「……ん」
重いまぶたを開ける。
視界に飛び込んできたのは、カビの生えたダンジョンの天井……ではない。
白く清潔な漆喰の天井と、窓から差し込む柔らかな朝の日差しだ。
「あれ……? ここは……」
体を起こす。
背中の感触がおかしい。
いつも僕を苦しめてくれる、あの愛おしい「せんべい布団」のゴワゴワ感がない。
最高級の羽毛布団が、雲のように優しく僕を包み込んでいる。
「……いやだ。何これ。気持ち悪い(快適すぎる)」
背筋に悪寒が走る。
この肌触り。この適温。この静寂。
完全に「ノンストレス」だ。
『ピコン』
> [ 警告:極上の安眠を検知 ]
> [ ストレス値:ゼロ ]
> [ バッテリー残量:15%……10%……(急降下) ]
(えっ!? マズい、減ってる!?)
慌てて飛び起きようとした、その時だった。
「あら、あなた。起きたの?」
甘い、とろけるような声。
ドアが開くと同時に、視界がピンク色に染まった(気がした)。
そこに立っていたのは、シルフィだった。
だが、いつもの「ヤンキー座り」で「眉間にシワ」を寄せている彼女ではない。
フリルたっぷりの白いエプロン。
髪は丁寧に結い上げられ、頬をほんのりと赤らめている。
手には、湯気を立てるスープの皿。
「おはよう、ダーリン♡」
ドカァァァァン!!!!
僕の脳内で、何かが爆発した。
「ヒィィィッ!!? 誰だお前!!」
僕は布団を盾にして後ずさった。
怖い。死ぬほど怖い。
あの凶暴なシルフィが、エプロン? ダーリン?
なんというホラーだ。どんな拷問を受ければ、あんな歴戦の戦士がこんな「骨抜き」にされるんだ!
「もう、寝ぼけちゃって。……はい、あーん♡」
シルフィ(悪夢ver)が、ベッドの端に腰掛け、スプーンを差し出してくる。
その笑顔は、聖女アマリアすら霞むほどの、破壊的な「デレ」に満ちていた。
「さあ、食べて。あなたの好きな、甘~いコーンスープよ」
「やめろおおおお!! 毒だ! それは猛毒だ!!」
僕は必死に首を振った。
だが、体は金縛りにあったように動かない。サキュバスの魔法だ。
「おいしい? うふふ、たくさん食べてね。
食べ終わったら……一日中、ベッドでイチャイチャしましょ?」
彼女の指先が、僕の頬をなぞる。
その温もり。柔らかさ。絶対的な肯定感。
『ピコン!』
> [ 警告:幸福度限界突破 ]
> [ 判定:『新婚生活』の幸せ ]
> [ バッテリー残量:3%……2%……危険! 危険! ]
(死ぬ! 死んでしまう!)
「勘弁してくれぇぇぇ!!」
僕は涙を流して絶叫した。
ゴブリンに内臓を食われる方がマシだ。
借金取りに追われて炭鉱送りになる方が、よっぽど気が楽だ。
こんな、脳髄が溶けるような幸せな世界に閉じ込められたら、僕は「僕」でいられなくなる!
「許してくれ! 俺が悪かった!
もう二度と調子に乗らないから! ゴミ拾いでも靴磨きでも何でもするから!
お願いだ、俺を罵ってくれ! 蹴り飛ばしてくれぇぇぇ!!」
「まあ、照れ屋さんなんだから♡ 大好きよ、チュッ♡」
「ギャアアアアアアアアアア!!(断末魔)」
唇が触れそうになった瞬間。
僕の生存本能が、限界を超えた。
このままでは死ぬ。
この「幸福な夢」から覚めなければ、現実世界で心停止する。
怖い。帰りたくない。
でも、ここにいたら消滅する。
――嫌だ。
俺の居場所は、あんなフカフカのベッドじゃない。
シルフィの怒号と、カビ臭い宿屋と、理不尽な借金まみれの現実こそが、俺の生きた証なんだ!
「戻せえええええええええ!!
俺の地獄を、返せええええええええ!!!」
『ピコン!!』
> [ 恐怖値を検知:『幸福への根源的拒絶』 ]
> [ 判定:トラウマレベルのストレス(生存本能の暴走) ]
> [ バッテリー急速充電……100%……200%……500%(限界突破)!! ]
現実世界。
ダンジョンの暗闇の中で。
「ふふふ……。どう? 自分のトラウマにうなされる気分は」
サキュバスは、紫色の霧の中で苦悶の表情を浮かべる僕を見て、悦に入っていた。
彼女には、僕が「最も恐ろしい怪物」に襲われて泣き叫んでいるように見えている。
「いいわ……もっと絶望しなさ――」
カッ!!!!
その時、僕の体から、目もくらむような黄金の閃光が噴き出した。
「なっ……!?」
サキュバスが目を見開く。
「うおおおおおおおおおお!!!」
僕が目を見開いた。
その瞳は、恐怖と、それをねじ伏せる狂気で血走っている。
「夢か……! 夢だったのか……!! よかったぁぁぁぁ!!」
僕は地面(冷たくて硬い石畳)に頬ずりし、涙を流して感謝した。
「痛い! 臭い! 暗い! 最高だ!
ありがとうサキュバス! お前のおかげで、俺は『幸せ』という名の猛毒を理解した!!」
「は……? あ、あなた、何を……」
サキュバスが後ずさる。
彼女の計算では、精神が崩壊して廃人になっているはずだった。
だが目の前にいるのは、黄金のオーラ(聖剣モード・全開)を纏い、満面の笑みで涙を流す、意味不明なエネルギーの塊だ。
「いらない……! あんな甘ったるい新婚生活なんて、俺には必要ないんだぁぁぁ!!
俺は、泥水をすすってでも生き延びる!!」
僕は、溢れ出る魔力を拳に込めた。
有り余るストレス(幸福への恐怖)が、破壊衝動へと変換される。
「食らえ、俺の魂の叫び!
聖剣技――『幸福放棄』!!!」
ズドォォォォォォォォォン!!!!!
拳が空を殴りつける。
それは物理的な破壊であると同時に、彼自身に訪れたかもしれない「幸せな未来」を、自らの手で粉砕する一撃だった。
衝撃波がダンジョンの壁を、天井を、そしてサキュバスの城の基礎構造を一撃で消し飛ばした。
「キャァァァァァァ!!」
サキュバスが吹き飛ぶ。
天井が崩落し、大量の岩石が降り注ぐ。
土煙が晴れた後。
そこには、半壊したダンジョンと、瓦礫の山の上に仁王立ちするパジャマ姿の男がいた。
「……ハァ、ハァ……」
僕は、瓦礫の下から這い出してきたシルフィに駆け寄った。
「シルフィ! 無事か!?」
「ゲホッ……! お前、いきなり何すんねん! 生き埋めになるとこやったぞ!」
ドカッ!
彼女の鋭い蹴りが、僕の脛を捉える。
激痛。骨に響く衝撃。
そして、いつものドスの利いた罵声。
「……あぁ」
僕は、その痛みを噛み締め、涙ぐんだ。
「これだ……この痛みだ……。
シルフィ、頼む。もう一度蹴ってくれ。
君がエプロン姿で『あーん』とかしない現実が、こんなに幸せだなんて……!」
「……は? 何言うてんねん、キモッ」
シルフィが、本気で引いた顔をする。
その冷たい視線。ゴミを見る目。
『ピコン』
> [ 恐怖値を検知:ドン引き ]
> [ バッテリー残量:MAX ]
完璧だ。
僕は生きている。
この理不尽で、暴力的で、冷たい世界で、僕は今日も生き延びたのだ。
瓦礫の隙間から、ボロボロになったサキュバスが涙目でこちらを見上げていた。
「な、なんなのよコイツ……。幸せな夢を見せたのに、なんであんなにキレるのよ……」
「人間って……怖っ……」
魔族にトラウマを植え付け、僕たちの「安全地帯(魔王軍)」での休息は、最悪の形で幕を閉じた。
(続く)




